マスターと「第4話」

 初夏を迎えて、爽やかな風が吹く。

 外へのお出かけが気持ちいい。

 あたたかな陽の光、さわさわと枝と葉が揺れる鮮やかな新緑に、人々のはしゃぐ声……。


 わたしは公園のベンチで、うさぎのキャラクターのイラストが書かれたミニの手鏡で、さっと顔と表情をチェックした。


 深呼吸する。

 すぐそこには大好きな喫茶店がある。

 大好きなのはお店の雰囲気もだけど……、喫茶店のマスターに恋してるからということもあるのだ。


 向かい側のベンチに、女子高生が三人ぎゅうぎゅうで座って、おしゃべりに興じている。

 手にはお揃いのドリンクカップを持って。

 楽しそうな笑い声と、きゃっきゃっと盛り上がる、今だけはきっと三人だけの世界。

 周囲の雑踏や人間ドラマは彼女たちには、別の世界に違いない。


 羨ましいなあ。あんなに楽しそうで。

 私は学生時代はこんなにはしゃいだりしたっけな。


 大学生だったのなんて、二年前なのに、もうどこか遠い遠い世界になってしまった。

 卒業してから友達にも文芸サークルの仲間にも会っていないな。

 働き出したから忙しいにかまけて、プライベートはちっとも充実していないな。

 あの喫茶店に行くぐらいしか、楽しみがない。


 いや、そもそも、私には友達っていたっけかな?

 私は友達だと思っていたけど、こちらがわだけで、向こうは友達だって思ってくれていないかもしれない。


 ちょっと落ち込んできた〜。

 これから楽しい時間を過ごすのに、いけない。

 あの人の前では自分イチの笑顔でいたい。素敵なマスターには、自分の一番いいところを見せたい。


 私はそろそろ喫茶店に行こうと思って、腰を浮かしかけた。

 聞こうと思って聞いたわけではない女子高生たちの雑談の声が不意に風に乗って、私の耳に自然に入ってきた。


「今日、『喫茶MOON』貸し切りで休みだなんてショック〜」

「わたしも! あそこの卵サンドと野菜スープ、楽しみにしてたのに」

「わたしはランチはMOONのパスタって決めてたから、食べる気満々なんですけど。MOONのボンゴレパスタ食べたいってこの気持ちどうしてくれるの」


 えっ? お店お休みなの?


「あー、それより!」

「そうそう、それよか、あの赤ちゃんたち、誰の赤ちゃんなの? 克己さんと貴教さんが抱っこしてたじゃん」

「さあ? 結婚パーティって書いてあったからお客さんの赤ちゃんだったりするんじゃないの? 赤ちゃん、双子っぽかったよねえ。双子が双子の赤ちゃんたちを抱っこしてあやしちゃってるとか、ちょっとエモかったよね」

「たしかに可愛いけど。……ねえねえ、克己さんか貴教さんの隠し子だったりしない?」

「ええっ!? そんなんショックすぎる」

「だってだって、克己さんも貴教さんも彼女いないって言ってたよ!」

「彼女はいないけど、奥さんはいるってオチとか?」

「や、やめてよ。私の推しが妻子持ちだったなんて、ショックすぎ」

 

 えっ……、やだ。

 なに、その話?

 私が『ショックすぎ』る。


 今日はショック続き。お気に入りの喫茶店が休みだと分かったばかりか、マスターたちが既婚者で妻子持ちかもしれない疑惑が生じてきた。


 真実なんて判明しない。

 私は目の前の勇気ある女子高生たちみたいに、喫茶店のイケメンマスターにプライベートな質問だなんて出来っこないんだ。


 ただの『お客さん』ってだけだから。


「今度『MOON』に行ったら、克己さんか貴教さんに聞いてみようよ」

「教えてくれるかな?」

「個人情報ですからとか言われない?」

「克己さんならサラッと教えてくれそうじゃない?」

「貴教さんの方があんがいニコニコ爽やかに教えてくれそう」

「彼女いないって教えてくれたのどっちだったっけ?」

「克己さんだったよ。やだ、どっちか分かるでしょ」

「あの二人って見た目はそっくりだけど性格は違うもんね」

「何回か会えば分かるようになるもんよ」

「髪型も雰囲気も双子でも違うもの」

「あーっ、貴教さんと付き合いたい」

「私は克己さんと結婚したいなあ」

「あーっ、無理無理」

「ある意味、年が近いアイドルと付き合うよりハードル高そう」

「なに? もしかしてなっちゃん、アイドルの知り合い居んの?」

「それがさ、となりの幼なじみがVTuberアイドルデビューしたんだよね」

「VTuberってさ、その幼なじみ、顔はさらさないんだ」

「あくまでヴァーチャルだよ」

「喫茶店のマスターとVTuberアイドルか。私にはもーどっちもリアルで恋なんて無理そう」

「どうするぅ、これから? 私、お腹すいたあ」

「じゃあさあ、カラオケでも行く?」

「イィオンにしようよ。フードコートでご飯しよ?」

「『喫茶MOON』が良かったなあ。落ち着くし」

「ないものねだりじゃーん。今日はショッピングモールのフードコートで」

「本屋さんと雑貨屋さんも付き合って」

「あーっ、私、服が見た〜い」


 ワイワイ楽しそうに盛り上がって騒がしかった女子高生たちが公園から去っていくと、他にもたくさん人がいるのに一気に公園が静かになった。


 私もそろそろ行こうかな。

 ……どこへ?

 歩き出した私は、公園のすぐそばのあの喫茶店の外観をちらっと遠目に見た。シュンと落ち込んだ。私はとぼとぼと家路に着くことにした。

 他に行きたい場所もないし。


 ちょうど通りかかると、喫茶店の扉の前に貸し切りのボードが出てて、カランカランとドアベルが鳴った。


「――あっ」

「ああ、いらっしゃいませ。申し訳ありません、本日喫茶『MOON』は貸し切りパーティで休みなんですよ。せっかくいらしてくださったのにすいません」


 喫茶店の扉から出てきたマスターが正装していて、いちだんとかっこよかった。いつものギャルソン姿も凛々しくてかっこいいけど、スーツ姿って……すっごく素敵。


 この人が克己さん? 貴教さん?

 馬鹿だなあ、自分が好きなのが双子のどっちかも分からないくせに、会えないとかがっかりしてたから余計……。

 ――私は、どうしても、こんなに胸がドキドキしてときめいてしまう。


「おっ、そうだ。ちょっと待っててもらえます?」

「えっ? ああ、はい」


 呼び止められた意図がよく分からないまま待っていると、店内の方から和やかな話し声と時折り楽しそうで和やかな笑い声がしてる。


 結婚パーティかあ、誰と誰のだろう?

 マスターのお知り合い?

 お客さん、かなあ?

 なんだか親しそう、……楽しそうですね。


「良かったらこれ、レモンスカッシュ! せっかく来てくれたのにガッカリしたでしょう? ちゃんと手作りで搾りたてのレモン入りだよ」

「あっ、……え〜っと」


 私が遠慮しているとマスターがにっこり笑う。


「あと、クッキー。幸せのおすそわけ」

「えっ」

「友人の結婚式なんだ。……ごめん、迷惑だった?」

「い、いえ。嬉しいです! ありがとうございます」


 あれ? このあいだのマスターとほんのり違う。

 話し方? 先程の女子高生たちが言っていたように、違いが分かってくるのだろうか。


「では、またのお越しをお待ちしております」

「はっ、はい! また来ます」


 お店の方から、彼を呼ぶ声がする。


克己かつみさ〜ん」


 マスターの一人、『かつみ』さんっていうんだ。

 このあいだのマスターは『たかのり』さんって言われてたよね。


 私はもらったレモンスカッシュを一口ストローで飲んだ。

 爽やかで酸っぱくてしゅわしゅわしてて……。

 あとくちにレモンの酸っぱさもあるけど、ほんのりの甘さと柑橘のいい匂いが香る。


 うん、ああ、……そっかあ、さっきの女子高生たちが持っていたドリンクカップってこれと同じ? たぶん、同じだ。


 な〜んだ。特別じゃないんだ、私。

 私にだけレモンスカッシュをくれたわけじゃないんですね。


 ……だけど。

 この喫茶店って、お客さんを大切にしているお店なんだな。


 レモンスカッシュは初夏の味……、夏の始まりにぴったりだなって思った。


 私はどこかうきうきして、さっきまでの沈んだ気持ちが吹き飛んでいた。


 すっかり葉桜になった桜並木のあいだから注ぐ、木漏れ日の光が気持ちよかった。




                      了





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