56話 心が勝手に動く
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私には8年間付き合った彼氏がいた。
あいつは当時、親の離婚で鬱になっていた私に手を差し伸べてくれたクラス委員だった。教室の隅でイラストの練習ばかりしていた私がからかわれた時に、何度も助けてくれた恩人でもある。
いつも優秀で、勉強もできて気配り上手で女子からの人気も高い、物語の主人公みたいな男。
そんな人が私を何度も助けてくれるんだから、そりゃ恋に落ちちゃうわけで……私は、中学の時からあいつにずっと惚れていた。
「……………二日後?」
「うんうん、ちょうど週末でしょ?向こうも土曜がいいって」
「………そっか」
家に訪れた私の大切な相棒、唯花に頷きながら私は心の中でため息をつく。まさか、あいつ以外の他の男に会うことになるなんて未だに実感が湧かない。
もちろん、頭では分かっている。8年の長い恋愛に終止符を打ったあの時に、これからは他の男と恋愛して結婚しなきゃいけないという事実を、頭では分かっていた。
でも、分かっているのと心臓が納得するのは別問題で。
そしてどうやら、私はあの日の別れを、未だに納得していないみたいだ。
「……雪、大丈夫?」
「うん?なんで?」
「なんか、気が乗らないみたいだから」
……唯花は、普段はバカなくせにこういう時だけはピンポイントで相手の気持ちを察してくる。まあ、この子が相手なら別に隠すこともないよね。
私は苦笑を浮かべてから、ありのままを話し始める。
「正直に言えば、これで本当にいいのかなって思うんだよね」
「そっか……えっと、白の説明通りだと向こうの人もけっこういいらしいよ?」
「ううん、そんなんじゃなくて、私の気持ちの問題なの。なんか……情けなくて。現実はやっぱりこんなもんかって思っちゃうから、色々と萎えるというか」
「………雪」
そう、情けない。未だにあいつを思い浮かべて新しい出会いをためらっている私は、間違いなく惨めな女だ。
……でも、仕方ないじゃない。心が言うことを聞いてくれない。思うがままに、気持ちが動いてくれない。どんなものを食べても、どんな場所へ行ってもあいつとの面影に縛られているばかりで、前に進もうとすら思えなくなる。
「本当、唯花が羨ましい」
「……えっ?」
「前にも言ったけど、これ本当だからね?20年も片思いしていた幼馴染に愛が報われたんですって?どこの小説だよ、一体。本当よくできた物語みたい。昔は私と一緒にやけ酒しながらあんなに泣いてたのにな~~」
「ゆ、雪!!そんなこと言わなくてもいいじゃん!」
「あはは、いやいや。つい懐かしくなっちゃって。本当いっぱい泣いたよね、唯花~~その時に告白すればよかったとか、向こうで絶対に彼女作ったはずだから私はもう用済みだとか。あれに付き合うの大変だったからね~?」
そう、私も唯花もまだ大学生だった頃、仕事の縁で初めてお酒を飲んだ時に桑上さんの話題がずっと続いたのだ。今は本当に幸せそうで何よりだけど、もしあのまま唯花が桑上さんと再会できてなかったら……思うだけでもゾッとする。
本当、唯花も意地悪な女だと思う。人形みたいな綺麗な顔しているくせに、一向に桑上さんしか見てないから。
「……そ、その節はお世話をおかけしましたぁ……」
「はいはい、日頃の感謝はちゃんと感じていますからご安心を。ていうか、二日後か……服でも買いに行った方がいいのかな」
「あ、じゃ一緒に行く?ショッピングモールここから近いでしょ?」
「ううん~~どうしようかな」
相手に対する礼儀……という観点で考えたら、普通に服を買いに行く方が正しい気がする。でも、何故か気が進まなかった。あいつと別れた後には服なんてあまり買わなかったから、新しく買う必要もあるというのに。
……ショッピングモールか。そういえば服もよく買ってあげたな。あいつのファッションセンスは壊滅的だったから、シンプルな色合いからして色々と教えてあげたんだっけ。
「……雪?」
「うん?」
「大丈夫?その、無理ならこっちから断っておこうか?」
「ああ、いや。大丈夫、大丈夫。ちょっと昔のこと思い出してさ」
「…………………それならいいけど」
「うん、気にしてくれてありがとう。ちなみにさ、向こうの人は桑上さんと同じ会社で働いてるんだよね?」
「うんうん、IT会社に通ってて、私たちとちょうど同い年らしいよ。白曰く、まだ2年目なのにもう会社で期待されてるんだって」
「へぇ、すごいじゃん……私とはあまり合わなそうだけど」
「大丈夫、大丈夫!向こうの人もオタクらしいからさ、もしかしたら白雪ってペンネームも知ってるかもしれないよ~?」
「ええ~~それは普通に知られたくないな。それはもっと仲良くなってから自分の口で言いたいんだけど」
これは割と本音だった。見ず知らずの人に初っ端から身の上話をするなんて、普通にNGとしか思えない。まあ、イラストレーターやってますくらいの簡単な情報は知らせるつもりだけど、それ以外にはあまり詮索されたくないし。
ていうか、普通に気まずくなるんじゃないかな……?男なんて最近会ったことないから、普通に何を話せばいいかも分からないけど。うん………。
「あのさ、唯花」
「あ、うん」
「当日はその……私とあの人の二人で待ち合わせするんだよね?一対一で」
「うん、そうだよ?当たり前じゃん」
私は唇を濡らしてから、少し首を傾げている唯花にお願いをする。
「えっとさ……もしかしてその日に予定なかったら、一緒に来てくれない?」
「ええっ!?一緒に来るって……私が!?」
「うん、まあ……なんていうか。第三者の意見も欲しいというか。ほら、私もちょっと人見知りなとこあるじゃん。仕事が関わっていない男性と会うのも久しぶりだから、なんか緊張しちゃって」
「ええ……雪、そこまで緊張するタイプじゃないんでしょ?そんなに心配しなくてもいいのに」
「お願いっ!今回だけだから。もしもう一度こんなことがあったら、その時にはちゃんと一人で出る!」
「ううん………」
手を合わせてしたお願いに、唯花は少し迷っているようではあったけど結局頷いてくれた。
「……まあ、そこまで頼まれたら仕方ないな。あ、白と一緒に行ってもいい?向こうさえよければダブルデートしようよ、ダブルデート!その方が負担もなくなるんじゃない?」
「あっ、それいいかも!じゃ今から桑上さんにメッセージで聞くのはどう?そうすれば向こうにも連絡が届くはずだし」
「うん、いいと思うよ?そういえば、前にメール交換してたよね」
「まさかこんな形で連絡するとは思わなかったけど……まあ、いいっか」
後でちゃんと聞いておこうと思ったその瞬間、私はふと一番大事なものを聞きそびれていたことに気付く。一番大事な、相手の名前をまだ聞いていなかったのだ。
私は体育座りをして、あくまで軽々しいノリで唯花に聞いてみる。
「そういえば聞き忘れたけど、唯花は知ってる?相手の人の名前」
「あ、それね!えっと、松下秀斗さんだって」
「…………………………………………………………………………え?」
「……うん?どうしたの?」
………………………………………………そんな、バカな。
き、聞き間違いだよね?幻聴かなにかだよね?その名前がここで出てくるはずがないじゃない。松下秀斗って、秀斗って………。
「……松下、秀斗?」
「うん、そうだけど……………雪?」
……………………………………………………ああ。
ああ、あ…………本当に、本当に……私は惨めで、情けなくて、夢見がちなどうしようもない女だ。
その名前を聞いて呆れて、幻滅しなきゃいけないのに。
私の心は空気も読まずに、勝手に弾んで嬉しがっているから。
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