16話  レモンサワーの味

桑上くわかみ 奈白なしろ



「ひいいいいいっ!?ど、どうしたんだよ!」



いきなり立ち上がって胸ぐらを掴んでくるんだから、つい変な声を上げてしまった。こいつ、悪酔いしすぎだろ!!



「くわかみなしろぉお!!!」

「は、はいっ!」

「あんたは……あんたはね!!あんたは昔から!!」

「……昔から?」

「………昔から、こうだった」



……えっ、どういうことだ?



「昔からこうだったの。昔から……私ばかり悩んで」

「は?」

「私ばかり浮かれて、私ばかり悩んで、苦しんで、泣いて……」



思いもよらなかったその発言に、自然と目が見開かれる。


何を言ってるんだ、こいつ。昔から悩んで苦しんでたと?ウソつくな、悩まされるのはいつもこっちだったのに。


こっちの気も知らずにいつも平然と振る舞ってたヤツが、今さらなに言ってんだ。



「ふぅう……あのね、白」

「あ、うん」

「なんか、おかしいとは思わない?」



アルコールが混じった深い息を零してから、唯花が顔を近づけてくる。


鼻の先が当たるような距離に、唯花のもの悲しそうな表情があった。


いたずらというには近すぎる距離。長めの銀髪から広がるシャンプーの香り。同じ色の瞳が俺を捉えて、身動きをできなくさせる。



「な、なにがだよ」

「もう私たち、24歳だよ?」

「……そうだな」

「そして私たち、男と女じゃない」

「…………………」



……本当に、なに言ってんだ。


男と女?お前、昔は何度も言ってただろ?男である以前に幼馴染だと。俺のことをそういう目で見る日は永遠に来ないと。


なのに……なんで、なんで今さらそんなことを言うんだよ?



「……ち、近い。唯花、もういい加減にしろ」

「……うっさい」

「そ、そもそもおかしいだろ!?これお前の罰ゲームじゃんか!罰を受けるべきなのはお前なのに―――」

「あのね、白」

「……な、なんだよ?」

「私、女に見えないの?」



その瞬間、俺たちを囲っていたすべてがフリーズしたように感じられる。


お酒の匂いと唯花の香りが入り混じって頭をくらくらさせた。正しい答えを引き出せる理性が、どんどん蕩けて行く。



「ゆい………か?」

「………………」



そして、なんの答えも出さない俺を叱りつけるように。


唯花の柔らかい唇が、俺の唇に重なる。



「…………………………………」

「…………………………………」



感じたことのない暖かいなにかが唇に当たっていた。流れている景色を奪うように、好きな人のすべてが体の中を侵食していく。


目元を隠している白銀色の髪。まつ毛と、さっきよりもっと近くなった肌。可愛らしく閉ざされた目と赤らんだ頬。触れ合っている唇が少しだけ動いてからようやく、唯花が俺を抱きしめていることに気が付く。心臓が痛いくらいに激しく鳴り出す。


ずっと、ずっとこいつのことが好きだった。


父が死んで泣いていた俺に手を差し伸べてくれたあの時からずっと、ずっと好きだった。色々なところに俺を連れて行ってくれて、笑顔にさせてくれたこいつのことを、俺は最後まで忘れられなかった。


この瞬間だってそうだ。この唇の熱は、とても忘れられそうにない。


単なる初恋相手だと見なすには、こいつは俺にとってあまりにも特別な存在だから。



「…………………ふぅ」

「………………………ゆい、か……」

「………ぷふっ」

「……な、なんで笑うんだよ?」

「こんな味だな~~と思って。なんか、思ってたのと全然違うな~~って。ほら、小説だと甘いって描写しかないんだからさぁ~~~ひくっ」

「…………も、もしかして臭かったか?」

「ううん、そういうわけじゃないけどぉ~!あっ、そうだ!レモンサワーの味がした!!えへへっ」



……俺の唇じゃないだろ、それ。お前がドロドロに酔ってるからじゃねーか。



「うひっ……ひくっ」

「うわっ、ちょっと!?」



抱きしめている体制のまま急に体重をかけてくるんだから、危うく後ろに倒れそうになる。片腕で体を支えることで、俺は辛うじてバランスを保った。


やっぱり、悪酔いしすぎだろこいつ……もう俺の懐に頬スリスリしてるし。



「……唯花、もう離れろ」

「ううん~~~や~~だぁ!」

「起きろ……じゃないと、とんでもないことになるぞ?」

「とんでもないこと~?うふふん、なにが起こるのかなぁ~~」



唯花はまるでお子様のようなあどけない目つきで俺を見上げてくる。頬はさっきよりも赤くなっていて、もう完全にお酒が回っている様子だった。


そんな状態でありながらも、ヤツはまるで挑発するようにニヤニヤ笑ってくる。


その小さな仕草一つ一つが、俺の理性を狂わせた。



「…………っ」



いくら大切にしようとしても、この状況はさすがにしんどい。20年近く好きだったのだ。なのに、そんな相手が自ら俺を抱きしめてきて、体を密着させて、キスまでしてきて………我慢できるはずがない。


頭の中に爆発しそうなほど血が上る。息遣いが荒くなって、気づいたら俺はもうあいつの腕を掴んでいた。



「ひゃっ……!」

「…………………」

「…………………しろ」



唯花の瞳は少しだけ潤っていた。でも、悲しみではなくて……まるで何かを期待するような目で。



「………………………………」

「………………………………しろぉ」



もう、これでいいんじゃないのか?


別にいいだろ。この雰囲気だぞ?このまま流されても問題ないんじゃないか?先に誘ってきたのはこいつの方だし、俺に罪はない。俺は、俺は………。



「ん……………………」



徐々に近づいてくるこいつの唇を、ジッと見つめながら―――



「…………………………………っ」



見つめながらも。


こいつの震えている唇を見つめながらも、結局俺は片手で、唯花の口元を覆ってしまう。


目をそむけて、俺は言った。



「やっぱだめだ。こういうのは好きなヤツとやれよ」

「……………………」

「その方が絶対、お前も後悔しないからさ」



……結局、俺はまた逃げてしまった。


昔と同じ理由だった。この関係が、唯花と一緒にいるこの場所が変わるのが嫌だから。


もし俺がこいつを抱いてしまったら、きっと何かが変わる。俺の頭では追いつけないくらい急速に何かが変わって、俺の手のつかないところに行ってしまうだろう。そして、最悪の場合にはこいつの顔をもう二度と見れなくなることだってあるはずだ。


それが死んでも嫌だった。一瞬の衝動に流されてこいつと気まずくなって、離れることになるなんて……俺は、耐えられない。



「………………………」

「んん………ん………」



唯花はなにも話さない。ただ、俺の懐に顔をうずめて呼吸を繰り返すだけだった。


俺を抱きしめているこいつを抱きしめ返すこともできないまま、俺はふうと深い息をつく。


それから少しずつ規則的な息遣いが感じられて、止まっていた時間がまたゆっくりと動き出した。



「………………すぅ、すぅ」

「………………ゆい……か?」



……ウソだろ、こんな姿勢で寝れるなんて。



「唯花?」

「ん……すぅ……」

「……………………」



……疲れたんだろうか。そういえばこいつ、朝に無理して俺の出社時間に合わせてたからな。


ため息をつきながら、俺はこいつをベッドまで運ぶためにゆっくりと体を起こして、ヤツの肩と膝に腕を回した。そっと抱き上げると、思ってた以上に体が軽いことに気が付く。


そのまま部屋のベッドまで運んで、布団をかけてやる。ベッドの端っこに大き目なぬいぐるみがあったからそれを懐に差し入れると、唯花は気持ちよさそうにしながらそのぬいぐるみを抱きしめた。



「………………………………………ふう」



人差し指を立てて、あいつの唇に触れてみる。


柔らかくて熱い。こんな素敵な感触が自分の唇に伝わっていたなんて、信じられそうになかった。項垂れて、また息を吐いて、俺は立ち上がる。



「…………はあ」



俺の初キスの味は。


唯花が感じたのと同じく、レモンサワーの味だった。

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