第5話「朝食とお説教と妹」

「お兄ちゃん、私がどうして怒っているか分かりますか?」


 昨晩、自販機で精神安定剤を購入して昂ぶる気持ちを抑えつけて寝たところ、翌朝テレビもつけていない日和がテーブルで待っていた。


 こういう時は沈黙するに限る。


「……」


 どう言っても怒らせるのは目に見えている。黙り込んで向こうからヒントを与えてくれるのを待つに限る。


「お兄ちゃんは妹が必死に携帯端末で収録した音声ファイルを最後まで再生しませんでしたよね、しかも私の部屋に夜這いに来ませんでした、これはゆゆしきことだと存じていますよ」


 理不尽! なんでそんなことで怒られないとならないんだ! 普通に妹に夜這いをしませんでしたというだけでブチ切れられるなんて理不尽にも程があるだろう。


 幸いファイルは暗号化したとは言え削除はしていないので削除通知は送られていないようだ。おそらくそのくらいの小細工はしているだろうと踏んだ俺の判断は正しい……と思う。


 あんな音声ファイルを最後まで再生したら脳がとろけそうだった。何しろ一時間までシークバーが続いていたからな。アレを俺だけのために録音したのだとしたら頭がおかしいと言っていいだろう。


「お兄ちゃん、今日はお休みですし買い物に行きませんか?」


 教師の休日なので今日はお休みだ、とはいえ……


「何を買うんだよ? 欲しいもので非売品でないなら通販で買えるし当日配送だろ」


 素晴らしきかな物質転送装置、これだけは旧時代の大発明と思っている。おかげで一々買い物に出る必要は無いのだからな。レジ打ちのような贅沢な雇用をする必要が無くなったが、未だに人材を贅沢に使った店も存在はしている、しかし全体的に法外な値段をしている。機械任せではなく人件費というものが重くのしかかるのだから当然ではある。


「それはアレですよ! お兄ちゃんの愛……とか?」


「非売品なので買えません、残念でした」


「むぅ……お兄ちゃんはいくら支払えば買えるんですかね、高いんですよまったく」


 人買いのような発言をする日和だが、必要以上ではないかと思えるほどに人権の概念を押し広げた現代では人買いは当然ながらアウトだ。昔からアウトだったらしいが今では公共の場で口にすることすら憚られるようなことだ。


「日和、朝飯にしよう、脳が糖分を求めている」


「お兄ちゃんの脳は糖分を消費しすぎですよ、理性が強すぎるんじゃないですか?」


「理性があるのは結構なことだろうが」


「お兄ちゃんのそれは強すぎるんですよ。私でも歯がたちません」


「兄の理性と喧嘩をするような真似はやめような?」


 コイツは本能のままに生きすぎている。人間は理性の生き物だぞ?


「というかそもそも何であんな音声ファイルを作ったんだよ?」


「お兄ちゃんに是非とも私の気持ちを耳で聞いていただきたいと思いまして」


「うん、気持ちを話すことは出来るし普通は耳で聞くものだからな? ああいう音声で伝えるものじゃないと思うぞ」


「すぐそうやって理詰めで私を責めてくる!」


「だって事実じゃん」


「ハァハァ……お兄ちゃんに理詰めにされるのもなかなか興奮しますね」


 ダメだコイツ……本能のままに生きているようだ。あきれてものも言えない。自分に正直と言えば聞こえはいいが、日和の場合自分の欲望のままに生きているだけというのが正しい。理性というものを感じない発言をしている妹のことは到底理解出来そうもない。


 兄妹でそういう欲望を持つというところまでは時代が時代だししゃーないとして、手段が明後日の方向を向いている。お前はそれでいけると思ったのか? 少し行動に出る前に相手の気持ちを考えなかったのだろうか? 考えなかったからこういう行動に至ったんだろうな……


「いい加減にしろよ。いくら暇だからって越えてはいけない一線があるだろうが」


「そ、そうですね。お兄ちゃんと越えるべき一線を越えなくちゃならないんですよね」


「話を聞いてたのかなぁ?」


 越えてはいけないを昔のコメディアンの『押すなよ』と同一視しているのではないだろうか? 人として間違っているとまで言ってもいいな様な気もする。頬を赤らめくねくねしている妹を放っておいて俺は朝のコーヒーを飲むことにした。今日は贅沢にカフェイン入りを飲むことにしよう。デカフェでないと身体に悪いからと制限がかけられているからな、身体に悪いものは上手いと言うことを知らないのだろうか?


 そんなことは無視されて俺はカフェイン入りの貴重なコーヒー粉をカップに入れてお湯を注いだ。


「日和、お前も飲むか?」


「はーい! お兄ちゃんのを飲みまーす!」


 何故アイツが言うと普通の事でも妙なニュアンスを持つのだろうか? 空くまで飲むのはコーヒーであって他の何でもないはずなんだがな。


 もう一つのカップに粉を入れてお湯を注ぎ、二杯のコーヒーをもってテーブルに置いた。しっかり砂糖を用意して待っている日和の前に置くと、日和はすぐに砂糖の袋を開けて迷うことなく三本も入れた。


「コーヒーくらいブラックで飲めよ、砂糖だって貴重なんだからな?」


 現代において合成ではない砂糖は貴重だ。合成甘味料って苦手なんだよな、だからこそ自然由来の砂糖をポンポン使われては困る。


「お兄ちゃん、砂糖くらいで細々考えを巡らせていると老けますよ?」


「時間は誰でも同じように流れるんだよなあ……」


 一分間は六十秒、それはどこでも変わらない。まあ理屈でやり込められるような相手ならあんなものを俺に送ってきたりするはずもないのだがな。


 コーヒーを一口すすると心地よい苦味に満たされる。痛みどころか辛さや苦さまで極限まで減らされた時代にはとても貴重なものだ。


 苦味でさえも貴重な時代に生まれたことを不幸だと思うべきだろうか? 少なくともその代償として人間は労働という煩わしいものから趣味でやっているやつ以外が解放されたのだ。それを決して否定は出来ないだろう。俺は多分自分が労働に向いていないことくらい分かっている。だからこそ高校などと言う今時珍しい進学者になったのだ。他の皆は大体働いていないが、一部には基礎教育が終わったら働いている物好きもいる。


「やっぱりまだ苦いですね……コーヒーというのはどうして苦いのでしょうか?」


「人間の本能がカフェインを求めてるんだろ」


 俺は適当に答えた。


「なるほど、私が本能的にお兄ちゃんを求めるのと同様にですか!」


 日和の妄言は無視した。俺は『一日二杯以上飲まないでください』と注意書の書かれたコーヒーをじっくり味わって飲んだ。それは間違いなく美味しいもので、やはりカフェインは素晴らしい物だなと思った。


「お兄ちゃんの淹れてくれたコーヒーは美味しいですねえ……」


「インスタントだぞ? 誰が淹れたも何もあったもんじゃないことくらい知ってるだろう?」


「そこはほら、気分の問題ってやつですよ! お兄ちゃんが淹れてくれたということにプレミア感があるんですよ!」


「はいはい」


 適当に流してテレビをつけようかと思ってやめた、どうせ実に充実したお悔やみ情報を延々と流しているのだろうから見るに値しないのは明らかだ。


 俺は携帯端末で何か事件でも起きていないかとチェックする。やはりこのご時世であり、人を傷つけるのは許されない重罪なのでそうそう何かが起こるはずもない、窃盗犯が数件全国で捕まったことが大ニュースとして伝えられていた。くだらないなと思いながら画面をスクロールさせていった。


「お兄ちゃん! 暇なら私に構ってくださいよ! 大したことのないニュースを見ているなら暇なんでしょう?」


「だってお前何か面白い話があるのかよ? この辺で平和一色に染まっている中何か面白いことが起きたとでも言う気か?」


 この辺で事件が起きたなら端末に緊急ニュースとして入ってくるだろう。それが無いということはこれといって話題に上げて楽しめる話は無いということだ。


「なんでもない話だっていいじゃないですか。私はお兄ちゃんが相手なら水中に浮かぶ粒子のブラウン運動についてだって数時間話す自信がありますよ!」


「ものすごく退屈そうな話だな……」


「相手がお兄ちゃんだったらそれだけでエキサイティングな話になりますよ!」


「なるわけないだろまったく……」


 ただまあくだらないことでも楽しめるというのは羨ましいなと思った。俺はまともな話題でないと話を広げられないが、日和はどんなくだらない話題からでも楽しい話に出来るという、それは才能というものなのだろう。


「明日は登校日なんだぞ? もう少し高校生としての気構えを持ったらどうだ?」


「そんなものを持っていても役に立たない時代なのはお兄ちゃんもしっかりご存じでしょう?」


「それはそうだけど……」


 確かに高校生になる理由の無い時代に高校生をやっている俺たちは、世の中からすればまったく不合理な存在であるし、社会的コストを考えれば高校生などならない方がよほど社会のためになる。もったいないがそういう時代に生まれてしまったので仕方がない。


「ねえお兄ちゃん、私、遅刻寸前でお兄ちゃんの手を引いて学校に行くってシチュエーションに憧れてるんですけど試してみませんか?」


「授業初日から遅刻宣言とはいい根性だな……」


「だって私が高校に行くのは二人で高校生活を体験したかったからですし、そもそも高校で教わることは大半をもう既に履修済みなのはご存じでしょう?」


「口喧嘩に強いやつだよ……」


 実際数学や化学の問題のほとんどがとかれてしまった現代では今さら高校で教育を受けなくてもいいように基礎教育で大体のものをたたき込まれている。新しく習うことなどほとんど無いのが現状だ。


「お兄ちゃん! もちろんですが登校は一緒にしますよね?」


「全校生徒十人だぞ? 一緒も何も誰も見てないだろ」


 その言葉に満足げに頷く日和。人類の没落という事態を前に喜んでいるようにすら見える。そのポジティブさがあれば人類はここまで落ちてはいなかったかもしれない。


「アピールすることが大切なんですよ、既成事実とも言いますね」


 既成事実って……まあどういう意味かは聞かないでおこう。リスクのある話しか無さそうだしな。


「ところでお兄ちゃんは学校で誰か気になった人がいましたか?」


「いや……特には」


「よかったです! もしいたら退学を願い出ないとならないところでした!」


「お前は本当に極端だよなあ……」


 即日で退学ってそれでいいのか? 勉学の意志がまるで無いのは正直にも程があるだろう。


「もう少し学ぼうという意思を持てよ……」


「ふっ……学校などお兄ちゃんとイチャつくための舞台装置でしかないのですよ!」


 堂々とクズ発言をする日和、今すぐ真面目に教えようとしている教師に謝罪をして欲しい。いくら時代が時代とは言え善意で教職に就いている方に失礼すぎるだろう。


「お前な……敬意を払おうという気は全く無いのか?」


「敬意を払えばお兄ちゃんが私のものになるのならいくらでも払いますよ?」


 ダメだコイツ……まるで価値観が違う存在だ。俺には到底理解出来ない存在なのだろう。とはいえ俺が書籍を集めている好事家であることを考えると今の時代では日和の方が普通なのかもしれない。『普通』というのはなんとも難しいものなのだな。


「とりあえず教師に媚びても俺の好感度が上がることはないから安心しろ」


「つまりお兄ちゃんに媚びればいいわけですね!」


 発想が安直だし、そもそも普段から俺に思い切り媚びているだろうがと突っ込んでやりたくなった、プライドとか無いんか?


 日常的に俺に媚びまくっているのに好感度の限界に到達していることを自覚してほしいものだ。日和って実はサイコパスなのではないかと思ったのだが、精神テストを受けてそこで引っかかれば矯正施設に入れられる以上それはないなと思う、多分……


「そんなくだらない話をしている間に時間が過ぎていくぞ、買い物に行くんだろう?」


「う……まあそれはそうなのですが、私謹製のASMRをお兄ちゃんが聞いてくれないことをですね……」


「いいから行くぞ。くだらないことにこだわるんじゃない」


 俺は話を打ち切って家を出ることにした。

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