第2話 空も飛べるはず
“パンッ”
手を叩くような乾いた音とともに、いつの間にか景色が切り替わっていました。
「さぁ、ついたよ」
そこは不思議なところでした。
平屋のこじんまりとした家の横を小川が流れ、家の表には草原が、裏には森が広がっていました。ですが、草原のずっと向こうには壁が空高くまで伸びているのです。
いえ、それも正確ではありません。壁は、遥か上の天井にまで続いていました。
さながら、とても大きな箱庭にいるかのようです。
地上から見た限りでは、青く塗られた天井に、いくつかのライトがついているようで、そのおかげで、閉ざされた空間なのに、外は日中のように明るくなっています。
「ほら、こっちこっち」
立ち尽くす私に、後ろから声が届きます。振り返るといつ間にか家の入口の扉が開いていました。
誘われるまま吸い込まれた家の中は、廊下に矢印が引かれていて、向かって奥の扉が、入り口の時と同じように開かれていました。
特に声も聞こえず、仕方がないので、そのまままっすぐ歩いて開いている扉をくぐりますと、大きな暖炉のある木目調のゆったりとした居間のような部屋がそこにはありました。
『まあ、適当に座ってよ』
ひらりと、突然目の前に現れて、ゆらゆらと床に落ちた紙には、そう達筆な文字が刻まれていました。
「失礼します……」
姿の見えない家主さんに向かって、そう語りかけながら、おそるおそるゆっくりと暖炉の前にこの字の形で置かれているソファの一番右端に私は座ります。
『この紅茶、ウチが育ててるやつなんよ。遠慮しないで飲んでね』
そんな置き書きと、赤橙色の液体の入ったティーカップが、いつのまにか目の前のテーブルにありました。
なんだか目に見えない幽霊さんの家主さんが、いろいろと世話を焼いてくれているような、そんな想像をしつつ、ありがたく、紅茶?をいただきます。
「お、美味しい……」
甘い香りと、少し苦みのあって、でもほんのりと甘い味。これが、紅茶というものだと、私はこの時初めて知りました。
『ほんと~う?ほんとに本当~?』
「もっ、もちろん。私、紅茶、初めて飲みましたっ」
『……。メリーちゃんって、いつも何食べてるの?』
それまでの文字よりも少し乱れた感じで書かれた紙が、テーブルの上にパサリと落ちました。
どうして、そんなことを聞いてくるのか、私にはよくわかりませんでしたが、宙に向かって笑顔でこう答えました。
「パンと水をよく食べてます」
「はぁー……」
今度は紙ではなくて、本物の人のため息のような音が後ろから聞こえました。
反射的に振り返ってしまいましたが、やはりそこに人の姿がなく、ティーカップの方に顔を戻すと、代わりにそこに新しい紙と、確か町中で売っていたクッキーという名前のお菓子が小皿に載せられていました。
『そろそろ本題に入ろっか。とりあえずそこのクッキー食べながら答えてくれたらいいよ』
そうは言っても、食べながらでは集中できません。私は、自然と居住まいを正して、紙に書かれる流麗な字を待ちます。
『単刀直入だけど、メリーちゃん、MND値いくつ?』
「えーっと確か、18446744073709551616です」
『ほかの値は?』
「はい、全部ゼロです」
『固有スキルは?』
「“七つの
「やっぱりね……。やっとだ……」
また背後から声が聞こえて、どうせそこにはいないでしょうに、思わず首を回してしまいます。
けれど、そこには、狐のお面を顔につけた白衣の少女が腕組みをして立っていたのです。
「あの……、あなたがレイ?」
「うん、そう。ウチがレイ。ごめんな、さっきまでは。もし違ってたら、ウチのことなんて見てない方が、お互いの為やからね」
そう言いながら、彼女はソファをひょいっと乗り越えて私の横に座りました。
「さっそくで悪いんだけど、今からついて来てほしいところがあるんよ。一緒に来てくれる?」
「はい、もちろ――」
“パンッ”
私が答え終える前に、レイさんは手を叩きました。
そして、私は、空にいました。
空に……。
えっ?
と思う暇もなく、私をお姫様抱っこで抱えたレイさんは、空気を蹴ってどんどんと上へと上っていきます。
地上は遥か彼方、さっきまでの高い壁もなく、空にはただ唯一の光源の太陽が圧倒的な明るさで輝いています。
上へ上へと上がり続つけた後、また、私は不思議ところにいました。
周りはついさっきまで登っていた青い空ではなく漆黒の闇が周りを覆っていて、蒼い地上は遥か下に見えます。それでも太陽はまだ手の届かない上にあるようでした。
『ここは地上から131,072mの地点。今のところウチたちが到達できる最高地点なんよ』
いつの間にか、顔も含めて体全体が、ごわっとした白い服で覆いつくされているレイさんが、そう書かれた板を私に向けていました。そして、彼女の足元では、何かが地上に向かってものすごいスピードで時々、落ちて行っているのが見えます。
「あの、これって――」
そこで私は自分の声が変に聞こえることに気がつきました。なんだかくぐもっていて、外から音が耳に届いていないような、そんな感じです。
それだけではありません。これまでに味わったことのない体が凍るような寒さで、実際、指は氷で覆われ、手を動かすとパラパラと破片が落ちて行きます。
『あまり長居はできないから、とにかく手を
言われたとおりにレイさんに持ち上げてもらいながら、手を上へと伸ばしまた。
ですが、普通に伸ばしているはずなのに、なぜかだんだんとゆっくりになって、最後には完全に手が止まってしまいました。
どうしようとレイさんを見ると、ジェスチャーで手を横に動かして、撫でるような動きをしています。
それにならって、それ以上は上に伸ばせない手を、天を撫でるように左右に動かしてみました。
つめたくも、温かくもない、けれどとてつもなく滑らかな感触が手に伝わります。
もう一度、私がレイさんを振り返ると、一度頷いて、また、手を叩きました。
するといつの間にか、先ほどまでいたリビングのソファに私は腰かけていて、レイさんが私の顔を覗き込んでいました。手を動かすと、まだ少し小さな破片が下に落ちます。
それが先ほどまでのことが幻覚でも夢でもないことを物語っていました。
「あの、私にどういったことを伝えたかったのでしょうか?」
そう聞くと、立ち上がってどこからともなく大きな巻物を持ってきて、レイさんはそれを机の上に広げました。そこには、私がこれまでに一度だけ見たことのある世界地図が真ん中にあって、けれどその地図のさらに外側まで、世界の外までもが描かれていました。
「さっきいたのは、高度131,072m。そこには、それ以上は上がれない、壁がある」
テーブルの周りを歩きながら、少し上機嫌そうな声でレイさんは語ります。
「そして、この地図は地上の地図。赤い線は人側の到達限界。その向こうは、魔物たちの世界。そして、そのさらに外縁部は、魔物すらも生きられない限界域。自然の脅威と未知が潜むところ」
テーブルを回りながら、地図の端を赤いペンでレイさんは囲います。
「けど、さらに外はどう?何がある?もしかして壁があるんかな?」
そう言って、鮮やかにくるくると巻物をまいて、レイさんは壁に立てかけます。
「そして、最後にここ。だれもいない、到達したことのない、地の底。あとで見に行ってもいいけど、この家の地下には、この世界の下限があるんよ。それは、とてもなめらかで、漆黒で、どんなものでも傷一つつけられない」
隣に戻ってきたレイさんの声は、最初の時よりも断然、熱を帯びていました。
「……、もしかして、レイさんは、この世界がここみたいに、箱庭になっているって言いたいのですか?」
私がそう言うと、レイさんは勢いよくこちらを見て、身を乗り出してきました。
「そうっ!その通りっ」
そこまで言って、はっとしたように私から身を離すと、こぶしを作って俯きました。
「私には夢があるんよ。この箱庭の外に出ること。家の中から外にでるように。街から森に出かけるように。人側の生存圏から、魔物の世界に出ていくように。世界を覆う壁の外に出ること。
鳥ですら、籠の外へと羽ばていくのに、人が壁を見て見ぬふりするなんて御免なんやよ。前進し続けるのが人やから、この命尽きるまで、私は外を目指し続ける」
言い切ると顔を上げて、レイさんは私の手を握りました。
「ねぇ、メリーちゃん、ウチといっしょに世界を壊してくれん?」
「わかりました。私もこの命尽きるまであなたを助けましょう、アイル川に誓って」
すぐにそう答えると、なぜか突然、手を離して、レイさんは少し私のそばから離れました。
「なにも、そこまでしてくれんでも……」
「いえ、神がそのようにと、言うのです」
「えっと、神っていうのは、セレアーナ公国の……?」
「いえ、違います。それは、私の神です。もちろん、レイさんにもいるはずです。
あまねく人々ひとりひとりに神がいるのです」
そして、私は、その神に従ったのに他なりません。レイさんの行いが善だと、レイさんが良い人だと、そう私の神は言いました。
「うーん、まぁ、それは置いといて、そこまでされたらウチも覚悟を決めんとね」
そう言うと、お面を手でつかんで、レイさんはそれをテーブルの上に置きました。
「これからよろしくな。メリーちゃん」
やっと見ることのできたレイさんの顔は、その顔は、とても綺麗でした。美少女と呼ぶにふさわしい顔です。
そんな顔で満面の笑みなのですから、もうこの世のものとは思えない美しさです。
輝くような金髪に、透き通ったエメラルド色の目、小さい顔にかわいらしい小さな口。
“ズキンッ”
その時でした。レイさんの姿に誰かが重なって見えました。
それと同時に耐えられない痛みが頭を駆け巡ります。明滅する視界と記憶の中で、断片的に見覚えのない景色が脳裏をちらついて消えます。
どすんと音がして、床に倒れこんだことを痛みで薄れゆく意識の中で私は感じました。
「メリーちゃん、メリーちゃん!」
切羽詰まったようなレイさんの声を遠くに聞いたのを最後に、私の意識は、深く沈みました。
*******
一人の女の人が暗闇で泣いているのが見えました。
その姿に、とても胸を締め付けられて、声を掛けようと私はしました。
けれど、声は出せず、近づくこともできず、その人が涙を流し続けるのを見ていることしか私にはできませんでした……。
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