01─日常から逃げ出した その3

 ゴン。と鈍い音がして目が覚める。頭がいたい。まるで拳大の石をぶつけられたような痛さだ。

 いつのまにか洞窟の中で眠ってい──。

「あっ、あの」

「はっはい! なんでしょう?」

 起床のためのモノローグに割り込まれ、寝ぼけたまま返事をする。

 よく考えたら、山奥の洞穴を訪ねてくるやつに丁寧に対応する必要があるんだろうか?

「え、えーと。本持ってますよね?」

 少し舌足らずの可愛らしい声。三角座りしている僕より、ちょっと高いくらいの身長の子が、そこに立っていた。泥まみれの薄金髪の前髪から、オレンジ色の頼りない瞳が覗く。

「本?」

 グリモワなんてしらない。リッチー氏の手記なんてしらないぞ僕は。というかそもそも、こんな小さな子が探している訳ないだろう。ここは黙秘だ。

「あの、その。わたし、その……本を持って帰らないといけないんです。その本は特別なものだから、全人類に公開、しないといけないって。じゃないと、あたし、わたし」

 うつむいて、半泣き状態になっている。ほつれまくった布一枚を身にまとって、ああ、どうして気づかなかったんだろう、その子の首には黒い首輪がつけられている。

 慌てて三角座りを解除して居直る。

「どうしたの? そんなボロボロで、親は? 一人で来たの?」

「ぉ。お母さんに、あう、ために、本が必要、なんです。だから、本をください」

 その子は、ぎゅうっと、服の裾を握りしめる。

「本っていうのは、ナンノコトカ、ワカラナイケド。ちょっとじっとしててね。顔を拭いてあげる」

 リュックからタオルを取り出して、その子の顔を拭う。

「よしきれいになった。飴食べる?」

 リュックには、飴とお菓子と、あと非常食が四食ほど入っている。

 飴を渡すと、子供は大人しくなって、僕の隣に座った。

「で、ほんにゃんでしゅけど」

「舐めるのか話すのかどっちかにしなよ。まぁいいや、じゃあ僕はこれで。ここは危ないから、早く帰るんだよ」

 眠っている間に、雨も止んで朝になっていたみたいだ。今頃博物館は大騒ぎしてるかなー。うーん。

「なぁ、お主。事情くらい聞いてやっても良いんじゃないか?」

 いつの間に隣に出現していたのか、ハックが耳元でささやく。

「嫌だよ。僕は知らない人様の家の子を助けられるような、ちゃんとした大人じゃないんだ。ここまで一人で来たみたいだし、一人で帰れるだろ」

 そんなことより、どこへ高飛びするか考えないと。

「あっ。あー! 浮いてるー!」

 さっきの子が突然大声を上げたかと思うと、ハックの方へと突進して、ハックをすり抜けて、洞穴の壁にぶつかった。

「うぅ」

 地べたに座り込んで頭を擦っている。

「おい、お主。この子わしのことが見えておるぞ」

「ん? ああ、それはまずいな、山奥に幼女と二人きりのところを見られたら変質者に思われてしまう」

「いやそうじゃなく。わしのことはお主にしか見えんと言ったじゃろ」

 ああ、言ってたっけ? 寝たから忘れたのかな。

「実は誰にでも見えるとか?」

「いや。というより」

「えー。剣になってるー。なんで。本だったのに」

「こらっやめろ。刀に触れるな」

 護身用にぶら下げている刀を掴まれる。危ないって。

「この剣。この剣ちょーだい」

「こやつ、やっぱり何かみえているな。なぁ、声は聞こえとるのか?」

 ハックが屈んでその子に話しかける。

「ん? ばっちり聞こえてるよ、おばあちゃん」

「おばっ……。どっからどう見ても美少女じゃろうが!」

 殴りかかるハック。拳は虚しくすり抜けていく。

 おばあちゃんって……。確かに遥か昔の人物だからな。ふふ。

「笑うな!」

 ハックはすねて刀の中に引っ込んでいく。刀が依代なのだろうか。えっ、勝手に僕の刀に取り憑かないでほしいんだけど。

 閑話休題。

「で、分かった分かった。君が何か訳ありなことは分かった。話を聞こう」

「むぅ」

「えーっと。僕の名前はキャニー。昨日まで博物館で働いてたんだけど……今は、ちょっとサボってるところなんだ。君の名前、教えてくれるかな?」

「オペラ、オペラだよ」

「オペラか。いい名前だね。で、お母さんのために、本が必要なんだっけ?」

 改めてオペラを見る。ボロボロで、布切れ一枚で、首輪がついている。噂に聞く奴隷ってやつだろうか。未だにそういう制度が残っている国も、あるとは聞くが。

「そうなの。私がいっぱい働いたら、お母さんと会えるんだよ」

「なんで働かないといけないの? 誰かにそう言われた?」

 オペラと視線を合わせるために、もう一度座る。オペラくらいの子供は、自由に遊ぶべきだと思うんだよ。何も気にせずに。

「えーと、その、おーえすーしーっていう、人たちが。私にして欲しいことがあって、それを全部できたら、会わせてあげるって」

「その首輪はその人たちに?」

「うん」

「お母さんもその人たちが?」

「分かんない……」

 オペラは、ぐっと、口を横に結ぶ。何か耐えるように。

 小さく震えているその子の頭に軽く触れる。

「は~。よしっ。逃げよう。一緒に逃げよう。僕もちょうどここから逃げないといけないところだったんだ。ちょうどいい」

 そうだ。そんな辛そうな顔をしないで。逃げればそのうち、なんとかなるだろ。正直僕も、何したらいいか分かんなくなっていたんだよ。

「でも、でも」

「そうと決まったら、行こう。早くいかないと捕まるかも」

 そう言って、洞穴の外へ出る。木漏れ日が眩しい。

 雨上がりだし、虹でも掛かっていれば、最高だなぁと思いながら遠くを眺める。

「ワオーン」

 犬もよう鳴いとる。ん? 野犬なんてこの山にいたっけな?

 タッタッと、獣にしては軽すぎる足音が集まってくる。犬のようなものが五頭ほど、ゆっくりゆっくりとこちらににじり寄る。

 犬のような輪郭、犬のような動作、ただ、その見た目は明らかに犬ではない。削りたての尖った鉛筆で、ぐちゃぐちゃに引いた線のように、体が黒く、隙間だらけで、一目で中身などないことが分かった。

「キャニー!」

 オペラの震えるような悲鳴と、五頭のうちの一頭が飛びかかるのが同時だった。

 犬のようなものが、僕の背を超えた高さから襲いかかる。

 間に合わない。

 腕が動かない。

 否、とっさにガードしようとした腕は、刀を握っていた。

 一閃。

 プツンと糸が切れるような音。

 目の前で犬が消滅する。

「ふん。他愛もないな。コードは複雑じゃが、そもそもの媒体が脆い」

 ハックの声が、いや、ハックの声を僕は口にした。

 気持ち悪い。なんだこれ。

 非常事態じゃからな。体、借りておるぞ。

 ハック?

 何が起きてるか考える間などなく、残りの四頭がこちらにかけてくる。二頭は上から二頭は足元へ。

 僕の体は、右手で刀を地面へ突き立てて、下から来る一頭を倒す。

 同時に、僕の口が複雑に高速に動き、魔術を発動させた。

 目の前に小さな火球が出現し、続けて僕のものじゃない声が発せられると同時に魔術へと変わっていく。

 火球が広がり、上からくる犬二頭を焼き払う。

 残りの一頭が股の下をすり抜けて、オペラのいる方へ向かっていく。

「まずいっ」

 狙いはオペラだったか。

 ハックどうにか

    ──無理じゃ間に合わん。

 振り返って一歩踏み出す。

 無理だ届かない。

 オペラと目が合う。

 オペラは目を見開いて、その瞳が、赤く、紅く染まっていく。

 今まさにオペラの体が引き裂かれようとしたその瞬間、世界が静止、収縮する。

「キ────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────ッ」

 世界のきしむ音が、オペラを中心に発せられる。

 落ちるように、その場に倒れ込む。

 地面の硬さを感じない。

 最後の一頭は蒸発したかのように、跡形もなくいなくなっていた。

 なぁ、ハック。何が起きている?

 動けない。

 体を動かそうとしても、まるで自分と体の位相がずれてしまったみたいに、雲をつかむような感覚になる。

 平面に押し込んだような視界に、いつのまにかそれはいた。

 それは、二メートル近く、不吉な仮面で顔が見えず、やけに細身で、黒ずくめ、マントを付けていて、長い爪を付けていて。そろりそろりと、隙間をすり抜けるように、オペラに近づいていく。

 その長い爪がオペラの金の髪をかすめる。

 静かに、それは、オペラの口を塞いだ。

 世界のズレが徐々に収まっていき、体が動くようになる。

「オペラッ、大丈夫か?!」

「んーんー」

 刀を握り直して、それに向き直る。

「ちょっと、待てよ。助けてやったのに、それは無いんじゃないかー」

 オペラを捕まえているそれと、僕の後ろから同じ声が聞こえる。

 声の主は、いかにも金持ちですという雰囲気の、気品は高く身長は低くというようなやつだった。

「初めて見る魔術だから、色々と聞きたいところだが……あいにく、僕は忙しくてね。ちょっと、道を聞きたいんだけど。あぁ、悪い悪い。もう大丈夫だよな。離すよ。なんだよ、睨むなよ。言っただろ、助けてやったって。で、道を聞きたいんだよ。カテドラルってどっちかな」

 カテドラル、この国の中央付近にある、大聖堂だ。たしか、今は魔導学会が開催されているはず。

 オペラがこっちにテコテコときて、僕の腕の中に収まる。そのままぐったりと、もたれかかってくる。じきに、寝息が聞こえてきそうだった。

「何をしにいくんですか?」

「何って、決まってるだろ。学会で研究成果の発表だよ。参加するのも二回目だし、ちょっと近道しようかと思ったら、このザマだ。さぁ、早く道を教えてくれないか。急がないと遅刻してしまう」

「えーと、それなら、あっちですけど」

 そう言って、カテドラルの方向を指差す。この国に済んでる人であれば一度は行ったことがあるから、大体場所は分かるものだ。

「でも、あの。学会は昨日から始まってますよ」

「何?! そんなばかな。ああっもう。これなら、大人しくパパの馬車に乗せてもらうんだった。それでは、僕はこのへんで。君、名前は?」

「えっ、キャニーですけど」

「そうか。僕はジャンゴ。ジャンゴ・ニシキだ。また会おう」

 そう言うと、ジャンゴはあのでかい二メートルくらいの何かに掴まって、カテドラルの方向へと、飛ぶように去っていった。

 なんだったんだ一体。

 まさかこんなところを人が通るだなんて。本格的に人に見つかって捕まる前に移動しよう。

「いこうか、オペラ。オペラ?」

 スースーと寝息が聞こえる。仕方ないなと、お姫様抱っこで山道を進む。

 逃げよう。

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