01─日常から逃げ出した その2

 どこ走ってるか分からないまま、逃げた。

 生活の匂いがこびりついたボロアパートにかけこんで、勢いよくドアを閉める。ドアの寿命を考える余裕はなかった。

「はーはーはーはー。何も見てない何も見てない」

 まずい。まずいまずい。

 何がまずい? 僕は何もやってないじゃないか。展示品を壊してなんか。

 大丈夫。僕は何もしていない。というか何が起きたんだ? ちゃんと戻ってあったことを報告しないといけないのでは?

 よし、深呼吸。

「冷静になったかの?」

「hyaxtu」

「おいおい、驚きすぎて、アルファベットになってるぞ」

 アルファベット? なんじゃそりゃ。

「まぁ、落ち着け」

「落ち着くのはお主じゃ」

「より分かった。分かったから一つずつ答えろ。君はいったい誰だ。何者だ。そして、なんで僕の部屋にいる」

 目の前の少女はふわふわと宙に浮いているように見える。

「ふーむ。お主が、わしを、起こしたんじゃがの」

 幼い容姿で、古めかしい話し方。フードの付きの巫女服。黒髪ぱっつんデコ出しショート。左右で長さの違うもみあげ。凛とした大きなツリ目。真っ暗な瞳は、薄っすら青い光を反射している。

 眼の前の少女がまとう非日常感が、僕の部屋を侵食していた。

「ああ、僕は疲れているんだ。きっと夢なんだ」

 僕は近くに落ちていた非常用リュックを掴んで外に出る。

「どこへ行──」

 少女の言葉を遮って、ドアの鍵を閉め駆け出す。

 下り階段を転がり落ちそうになりながら走る。

 僕の安全地帯。街の隅の裏山へ。

 そこで一旦、頭を冷やそう。

「おいおい、そんなに急いでどうしたんじゃ。まだお主の質問に答えてないんじゃがのう」

 何食わぬ顔で空中をホバーして僕と並走してくる。

 全力で走るも、いや、全力で走ったせいで対した距離も進まないままに息切れしてしまう。

「はぁ、はー。分かった。分かった。おーけー。話を聞こう。逃げない」

「逃げるっちゅうか。別にわしは追ってるわけじゃないんじゃがな──」



 僕は今、幼い時よく訪れた洞穴で三角座りをしている。

 こうしてると、昔に戻ったみたいだ。懐かしくはないけど。

「さて、ようやっと観念したかの?」

「うん。まぁ」

「よろしい。では、改めて」

 コホンとわざとらしく居直る。

「お主は、わしのご主人か?」

「改めるってそこから!」

「いいから答えろよ。様式は大事じゃ。魔導の道がもともと宗教儀式だったようにな」

 だから巫女服ってか。まぁ、たしかにそうなんだろう。昔そんな内容を勉強した記憶がある。でも、

「いや、そうじゃないよ。僕は主人じゃない。お前は多分、リッチー氏の遺した何かなんだろう。リッチー氏の手記が消えて現れたんだ。だから、お前のご主人はリッチー氏じゃないか。第一のウィザード、ゴト・リッチー」

「あー。第一のウィザード? なんか偉そうな肩書きがついとるんじゃな。そうじゃそうじゃ。確かに、リッチーはご主人じゃよ。ご主人っちゅーか、旦那さま」

「は?」

「わしは、ゴト・リッチーの妻じゃ」

「はー? はぁぁぁ?」

「おい。今すぐその口を焼いてやろうか」

 ビシッと、指を突きつけてくる。そんなに失礼だっただろうか。

「いやいやいや。リッチー氏は天涯孤独だって話だよ。教科書にも特に結婚とか子孫とか、そんな話は出て来ないし。家族の存在を示すような資料はでてないんだよ。残念ながら」

「じゃあ。わしが資料じゃ」

 自分で言うのか?

「自分で言うのかと思ったな?」

 何? 心が読めるのか? まずい、お前口調崩れてんじゃん、キャラ作ってんじゃんと思ったこともバレている!?

「はぁ。まあ、よい。じゃあお主は、わしのことをなんだと思ってるんじゃ?」

「リッチー氏の遺物に取り憑いた幽霊?」

「あー。まぁ、それもあながち間違いとは言えんな。より正確には、あの手記の中身がわしじゃ。あの手記は、旦那さまが後世に、愛しい愛しい妻を遺すために、妻の情報をこれでもかと詰め込んだグリモワール。そのグリモワールによって再現された妻のイメージ、それすなわち、わしじゃ。だから、幽霊ともいえる」

「ゆう、れい」

「ああ。で、お主名前は? わしを起動したお主はなんという?」

「僕は、僕はキャニーだ」

「ふむキャニーか。これからよろしくなご主人」

 そう言った少女は、一件落着というような顔をしていた。

 いや待て。

「僕はお前が何かは教えてもらったけれども、名前はまだ聞いてないぞ。なんて呼べばいいんだ」

「名前、ああ、名前か! そうじゃな。ハックと呼んでくれ。姓はない」

 姓はない、か。なんでかは聞かないよ。

「じゃあ、ハック。僕はお前のご主人? ってことは、ハックを起動した人が主人になるのか?」

「そうなんじゃないか?」

「適当だな」

「旦那さまに聞いてくれよ。もし生きていたらの話じゃがな」

 ふぅむ。もちろんハックのいう旦那さま、リッチー氏はとうに亡くなっている。千年生きる人間は、いない。ハックだって、生きた人間というわけじゃない。

 気づけば外は雨が降っていたようで、ポツリポツリと、雨粒の跳ね返りが僕の肌を湿らせる。

 結局、ハックが何なのか分かったところで、目下の問題は依然そのままであった。

「結局、僕はこれからどうしたらいいんだ」

「どう、とは?」

「勝手にウィザードの遺物を持ち出しちゃって、怒られるじゃ済まないよ。死刑もあるかも」

 ああ。途端に気が重くなる。あの人はきっと僕を見逃さないだろう。

「いっても仕方ないじゃろう。少なくとも今の正当な持ち主はお主じゃ、キャニー」

「そんなの、ハックが勝手に言ってるだけじゃないか」

「だから、しょうがないんじゃって。魔導書は持ち主にやどり、わしの姿もお主にしか見えないはずじゃ」

「えっ」

「だから。お主が持ち主なんじゃよ」

「それって、魔導書をもとに戻すとかは……」

「できんし、できたとしてもわしが許さん」

 僕は改めて三角座りし直して、その状態で、頭を洞窟の壁に打ち付けた。

 気を失えばなかったことになんねぇかなぁ。

「おいおい、そんなに生き急ぐなよ。死ぬな! まずいなら、逃げればいいじゃろう。どこまででも。な」

 ハックは微笑んで僕の頭を撫でるふりをした。実際には僕は、ハックの手の感触を感じることはできない。

 視界がちらついて、ゴロゴロと雷が鳴る。

 僕は額を膝に押し付けて、雷が近くに落ちないように願った。

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