第4話 名前

◇ ◇ ◇


 すっかり話が弾んでしまったが、滝瀬さんの部屋に来てからどれくらい時間が経ったのだろうか。

 

 当の滝瀬さんは愚痴を零しながらビールをあおっていたので、すっかりできあがっている。ローテーブルの上に並ぶ数々の空き缶がその証拠だ。酒の力で気を紛れさせているのだろうが、少し飲み過ぎではないか?


 彼女の場合はテンションが高くなるとか、絡み酒になるとか、そういった面倒な酔い方をするタイプじゃなかったのは幸いだけど、酔いが回れば回るほど色っぽくなっていくのは非常に厄介だった。


 ナイトガウンの丈の長さは膝上辺りなので、そこから覗くしなやかな脚、細い身体と反比例するように弾ける胸と尻、なまめかしい吐息、彼女の些細な仕草ですらセクシーで、とにかく目のやり場に困る。


 その所為で俺の理性は崩壊寸前だった。

 もし俺も酒を飲んでいたらどうなっていたことか……。


「もう潮時かな……」


 俺がなけなし理性を保つために奮闘していると、滝瀬さんが沈んだ声でポツリと呟いた。


「さすがにもう愛想が尽きた……」


 そう言うと、滝瀬さんはローテーブルに突っ伏す。

 どこか寂しそうな声色と表情だったので、口では潮時と言いつつも、まだ踏ん切りが付いていないのだろう。


「俺が言うのもなんですけど、見切りをつけた方がいいと思いますよ」


 詩織に浮気されている俺が言っても全く説得力がないけども……。


「そうだよねぇ」

「滝瀬さんなら他の男が放っておかないでしょうし、貴重な時間を無為にするのはもったいないっすよ」


 将来的に結婚を考えているのなら尚更だ。

 男はやろうと思えばいくつになっても子供を作れるが、女性はそうもいかない。

 高齢出産は危険がつきまとうし、体力のある若いうちに子育てした方が心身共に楽だろう。


 だから浮気野郎なんかに貴重な時間を費やすのは滝瀬さんのためにならないと思う。――まあ、彼女に結婚願望とか、子供が欲しいとか、そういった欲があるのかはわからないけど。


「……君も私のことを放っておかない?」


 滝瀬さんは突っ伏した状態で顔だけ右に向けて、とろん、とした目で俺を見つめる。


「お、俺っすか?」


 予想外の返しと表情に思わずドキッとしてしまい、どもってしまった。


「うん」


 突っ伏したまま器用に頷く滝瀬さん。


「もしお互いに恋人がいなくて、俺にもチャンスがあるのなら放っておかなかったと思います」

「そっか……」

「でも、交流を重ねないと性格がわからないので、ある程度は親睦を深めてからですけどね」

「……じゃあ、もっと親睦を深めようよ」


 舌なめずりしているのかと錯覚してしまう扇情的せんじょうてきな笑みを浮かべた滝瀬さんの様子に、俺は再びドキリとしてしまう。


「……どういう意味っすか?」

「もっと仲良くなろうってこと」

「滝瀬さん……完全に酔ってますよね?」

京華きょうかって呼んで……」


 とろんとした顔の滝瀬さんは俺の太股に手を添えると、上目遣で迫ってくる。


 年上の女性が垣間見せる幼い少女のような可憐さと、年相応の色気が内包した表情と仕草の破壊力は魔性の力を宿したサキュバスのようだ。

 困ったことになけなしの理性を保てそうにない。


 というか、滝瀬さんの方が酒の所為で理性を失っているような……?


「滝瀬さんの下の名前って京華って言うんすね」

「そうだよ~」

「素敵な名前っすね。華やかでありつつもみやびな感じが滝瀬さんに合ってます」

「ふふ、ありがとう」


 滝瀬さんは鼻を鳴らしてご機嫌に微笑むが――


「でも、京華って呼んでってば」


 唇を尖らせて不満をあらわにした。


 なんだそれ!? めちゃくちゃかわいいんですけど……!?

 年上の女性が少女のように甘えた態度を見せるのは、こんなにかわいいものなのか……!!


「き、京華さん」


 動揺して思わず名前を呟いてしまったではないか!


「ふふ、これでもっと仲良くなったね」


 そう言って艶然えんぜんと微笑む滝瀬――いや、京華さん。


「でも、もっと仲良くなろ?」

「も、もっとっすか?」

「うん。枝村くんの下の名前を教えて?」

「か、魁斗かいとっす」


 押し倒すような勢いで迫ってくる京華さんに、俺はいとも容易く気圧されてしまい、条件反射で自分の名を口にしていた。

 我ながら情けねぇ……。


「魁斗くん……ね」


 京華さんは俺の名前を嚙み締めるように呟く。


「ねぇ……魁斗くん」

「な、なんすか?」

「私……いいこと思いついたの」

「いいことっすか?」


 俺が首を傾げると、京華さんは「うん」と頷いた後、何故か隣にやってきてしなれかかってくる。

 その瞬間、彼女と密着したことでフローラルな甘い香りが俺の鼻腔をくすぐった。


 洗剤の匂いだろうか? それともシャンプーの香りか? いや、体臭の可能性もあるな――と冷静に彼女から発せられる香りの正体に考えを巡らせることで、なんとか平静を保てている。


 というか、必死に脳を動かして気を紛らわせないと、今の俺にはいろいろと刺激が強くてどうにかなってしまいそうだった。

 なので、動揺を悟られないように虚勢を張るので精一杯だ。


「き、京華さん?」


 どもってしまったので全く説得力がないが……。

 自分の情けなさに少しだけ自己嫌悪が押し寄せてくる。


 しかし、そんな俺の心情など京華さんは知るよしもない。


 故に、彼女は俺の耳元に口を寄せると――


「私たちも浮気しちゃおっか」


 と吐息を多分に含んだ声音で囁いた。


 彼女が何を思ってそんなことを口走ったのかはわからない。

 だが、少なくとも彼女の甘言には、俺の理性をとろけさせるのに充分な魔性の力が宿っていた。思わずゾクリとしてしまうくらいには。

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