第2話 提案

◇ ◇ ◇


 頭を冷やすためにサンダルを履いてベランダに出て、夜空を見上げながら気が抜けたようにぼんやりと過ごすこと約十五分。


 今は七月なので日中は三十度を超す日もあるが、夜は気温が下がって多少は過ごしやすくなる。

 幸いにも今日は穏やかな風が吹いているので、頭を冷やすのに一役買ってくれていた。


 そして都会らしい淀んだ空気が鼻腔を刺激してくれたことで気が逸れ、少しだけ浮気されたことに対する意識が薄れた。地元の美味しい空気が懐かしく感じるくらいの余裕は戻ってきている。


 しかし立ち直れたわけではない。そんな簡単に気持ちを切り替えられたら誰も苦労しないだろう――少なくとも俺は無理だ。

 だって、詩織と過ごしてきた日々の思い出が走馬灯のように次々と脳裏に流れていき、情緒をめちゃくちゃに掻き乱されるから。


 嬉しそうにはにかむ顔、嫉妬している不満げな顔、寂しそうで覇気のない顔、気恥ずかしそうに赤面する顔、楽しそうに微笑む顔など、詩織のいろいろな表情が脳裏を駆け巡る。

 幸せな思い出が、精神的苦痛を与える記憶に成り果ててしまった。しばらくはフラッシュバックに悩まされることになりそうだ。


 その事実に、より一層気が沈んだ俺は手摺てすりに両肘をついて体重を預けると、やりどころのない感情を吐き出すように――


「「はぁ~」」


 と深い溜息を吐いた。


 ――ん? 今、俺の溜息に重なって、別の溜息が聞こえてきたような……?

 それも俺と同じような負の感情を吐き出すような重々しい溜息だった気がする。


 俺よりも高い音域の溜息の正体を探って、隣の部屋のベランダに顔を向けた。

 すると――


「あ」


 隣の部屋に住む女性と目が合い、俺は驚いて声を漏らした。


「――びっくりしたぁ~」


 女性は驚いたように目をしばたくが、無表情に近いので本当のところはどういった心情なのか全く読み取れない。

 親しい間柄の人ならわかるのだろうか……?


「……枝村くんだっけ?」

「はい」


 同じアパートで暮らしているので彼女とは何度か顔を会わせている。とはいっても、軒先のきさきですれ違った時に挨拶をする程度の関係だ。


 名前は初めて会った時、お互いに苗字だけ名乗っている。フルネームを教え合うようなフレンドリーさを都会で求めてはいけない。特に女性なら身を守るために警戒心を持つのは当たり前のことだ。


 故に、お互いに名を告げたのは最初に顔を合わせた時の一回きりだったのもあり、彼女――滝瀬たきせさんは記憶が曖昧だったのか首を傾げながら声を掛けてきた。


 特に親しくもない相手の名前などいちいち覚えていられないだろうし無理もない。田舎みたいに近所付き合いがあるわけでもないし。


「まさか溜息がハモるとは思わなかったから驚いた」

「ですね」


 少しだけ表情を柔らかくする滝瀬さんに、俺は苦笑を返す。


「溜息もだけど、雰囲気から察するに元気がなさそうだね? 何かあったの?」


 そんなに今のやるせない気持ちが顔に出ていたのだろうか……?


「まあ……そうっすね」

「そっかぁ」

「そう言う滝瀬さんも何かあったんすか?」


 深々と溜息を吐いたのは彼女も同じだ。

 あまり感情がおもてに出ていないのは、俺よりも年上だから経験値があって精神的に余裕があるからなのか、それとも女性だから気持ちの切り替えが早いのか、はたまた彼女の特性なのか、それはわからない。

 男は引きずりやすいのに対して、女は切り替えが早い、と良く耳にするし、その違いなのだろうか?


 ともかく、俺と同じように何かあったのは間違いない。


「あ~、うん」


 滝瀬さんは一度頷くと、少し考え込むように視線を左上に向けた。

 そして――


「そうだなぁ……。君の愚痴を聞いてあげるからさ、私の愚痴も聞いてくれない?」


 と提案してきた。


「正直、年下の男の子に愚痴を零すのはどうなのかな、とは思うんだけど……」


 頬を掻きながら苦笑する滝瀬さんから、どことなく哀愁が漂っているように感じる。


「まあ、俺も誰かに甘えたい気分なので助かるっちゃ助かりますね」

「あら、そう? ならお姉さんに甘えちゃってもいいよ? 私も気が紛れそうだし」


 そう言うと、滝瀬さんは手に持つ缶ビールを口元に運んであおる。

 ゴクゴクと喉を鳴らして――距離があるから俺には聞こえていないが――飲み終えると、微笑みながら「どう?」と尋ねてきた。


 酔いが回っているのか、彼女の頬が若干赤みを帯びていて微笑むと妙に色っぽい。

 そもそも滝瀬さんはめちゃくちゃ美人だし、仕事ができる大人の女性といった印象がある。だから下心がなくても男なら誰だって見惚れてしまうと思う。


 眉と目の距離が近い上に、目鼻立ちがはってきしている顔立ちなので、日本人的というよりは欧米人っぽい雰囲気がある。

 もちろん雰囲気の話であって、本当に欧米人のような顔立ちをしているわけではない。

 あくまでも日本人の中では欧米人っぽい凹凸おうとつのある顔立ちをしているというだけだ。それこそ、欧米人とのハーフの人と比べたら明らかに日本人的な顔立ちをしている。


 えて無造作な感じを残している茶髪のラフカールロングが、より一層彼女の魅力を引き立てており、自然と目が引き寄せられてしまう。


「そんなに見つめられるとさすがに恥ずかしいかな……」


 そう言って気恥ずかしげにはにかむ滝瀬さん。


 彼女はクールなところやミステリアスなところがあり、その上セクシーなところを垣間見せる時があるので、かわいい系よりも美人系の部類にカテゴライズされると思う。

 すれ違った時に挨拶する程度の関係だから彼女の性格を熟知しているわけではない。なので、完全に印象での判断でしかない、という但し書きが付くが。


 とにもかくにも、そんな彼女が珍しく見せた可憐な仕草と表情の破壊力は凄まじいものがあった。

 もし俺に恋人がいなかったら心を鷲摑みにされていたかもしれない。完全にイチコロ案件だ。


 滝瀬さんは黒の部屋着――下半身が手摺てすり壁で隠れているからわかりにくいが、多分、薄手のナイトガウンだと思う――を身に纏っているので、蠱惑的こわくてきな雰囲気に拍車をかけている。

 全身をおがめないのが非常にもどかしい。土下座してでもおがませて頂きたい魅力があった。


「すいません。つい見惚れてしまいました」

「ふふ、ありがとう」


 本心を嘘偽ることなく告げると、滝瀬さんはあでやかに微笑んだ。

 その表情に再び見惚れてしまった俺は――


「折角なので、お言葉に甘えさせて頂きます」


 呆気なく誘惑されてしまった。

 そもそも悪いことをするわけではないので、はなから断る理由などなかったので全く問題ないのだが。


「交渉成立ね」


 滝瀬さんはそう言いながらウインクを飛ばす。


「それで、何があったの?」


 ナイトガウン姿の美人なお姉さんからウインクを飛ばされるという不意打ちを食らった俺は、あまりの婀娜あだっぽさに正気を失いかけたが、滝瀬さんの問いを無視するわけにはいかないと懸命に意識を保つ。


 そのお陰で沈んでいた気分がほんの少しだけ紛れた気がする。滝瀬さんに事情を説明するために、浮気されたことを思い出さなくてはならないのが気にならないくらいには。

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