第9話 早苗の実家で結婚の申し込み(回想シーン)

 妻の、いや元妻と言うべきか。実家は町外れで波の音が聞こえる浜辺にあり、田舎ではあるが父は当時市会議員だという。あの時ほど緊張したことはない。しかし最初が肝心キチンと挨拶しないと悪い印象を与えたら帰れ!! なんて言われたらと思ったものだ。もう三十年も前のことなのに鮮明に覚えている。

 早苗の実家である野沢家は近所と比べても大きな屋敷であった。自分は東京生まれの東京育ちだが代々サラリーマンの家庭で、一軒家で敷地三十五坪。サラリーマン家庭としては平均的な面積だろう。しかし野沢家は地方の町とはいえ屋敷に相応しい四百坪以上あるだろうか。この屋敷を見ただけで圧倒されたものだ。


「は……初めまして浅井洋輔と申します、縁ありまして早苗さんと三年交際して参りました。近い将来に結婚を考えております。どうか二人の交際を認めていただけないでしょうか」

 確かそのような事を言った覚えがある。

 娘の交際相手はどんな人物か確かめたいのは親心だろう。なんと俺は何を聞かれてもいいように準備はして来たが、どんな人物か説明するより良い方法を思いついていた。なんと就職する訳でもないのに履歴書を持参して来た。

「お父さん、お母さん。まず僕の身分を証明する為に履歴書も持参してきました。どうぞご確認下さい」

「なんと挨拶代わりに履歴書ですか。これは驚いた。では拝見させて貰います」

 両親は一緒にその履歴書を眺める。隣で早苗は俺の袖を引っ張り笑う。良い方法だと思ったのだろう。

「ほほう! 東京生まれの東京育ち。一流企業じゃないですか、しかも若くして主任とはたいしたものだ」

「言え、そういうつもりでお見せした訳ではなく……」

「分かっている。三人兄弟の御次男。将来お父さんの後は長男の方が継ぐのですか」

「はい、僕は所帯を持ったら、親とは別々に暮らす事になります」

 親して将来、舅姑の面倒見なくて済むから早苗に負担がないと思ったのだろう。安心した顔をしている。最近は少ないが、どんな夫婦仲が良くても舅姑問題で離婚に発展する事も珍しくなかった。

 この履歴書が効いた。早苗の両親は俺に好感をもってくたれようだ。それから食事をしながら世間話に花が咲いた。そんな事もあってか父の返答は。

「早苗からも貴方の事は色々と伺っております。しかし近い将来の言うのは駄目だ。するなら早い方がいい」


 俺が面会に行く前に俺の事を説明していたのだろう。優しく良い人だから結婚したいと。そんな訳で半年後には慌しく結婚式を挙げたものだ。

 あれから三十数年、今はその義父は他界したが母は何年も会っていないが生きていたとしても九十近いだろう。俺の両親も既に亡くなっている。時の流れとは早いものだ。この八戸に来たのは四度くらいしかない。

 最初の日の挨拶と長男が生まれた時と娘が生まれた時、そして最後は義父の葬儀の時だけだ。

 妻と別れた今は行けるはずもないが、この町は魚が旨かった事は覚えている。

 当時はイカが日本一獲れた港町でもある。最初行った翌日に、妻が小高い丘の上に案内してくれた。その眼下には海一面に漁り火が見えた。みんなイカ漁の船だという。都会では決して見られない幻想的な光景だった。ついここ(八戸)の風景を見ると妻との思い出が蘇ってくる。

 俺の青春は妻とデートした日々と新婚の頃が全てだ。 


つづく

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