第35話 制度が変わるらしい
太郎と同じように、人形も急激に変わっていた。
変化は劇的で、一緒に暮らしているから隠しようもない。よくぼーっとしているし、表情が険しく時折脂汗さえ浮かべていた。
まるで何かに怯えるようで、見ていていたたまれない。それは明らかに桃娘からナチュラルに変化している証で、なぜそうなったかも容易に想像がついた。太郎が、そうしたのだろう。だって、一度ナチュラルになってしまえば、桃娘がいかにひどい状況か理解できてしまう。だとすれば、太郎が彼女のスマホに保護フィルムを貼ったのだ。
その現実は、妙に私を落ち込ませた。まるで仲間外れにされているようで、結局私はこの場所で一人ぼっちだと思い知らされた。
太郎は漫画のヒロインとして人形を描いている。それはつまり、そういう意味なのだろう。
家に帰り着き、自室に向かう途中で私はその気配に気がついた。リビングの隅でうずくまる少女の陰。
それは明らかに人形で、どうしてそんなところにいるのかわからなかった。
なぜ私が気がついたかと言えば、彼女が過呼吸のように息を乱していたからだ。
「ちょっと、どうしたの!?」
彼女のもとに走った。へたり込んでいる彼女の近くにしゃがみ込み、背中をさする。顔面は蒼白。こんなに呼吸をしているのに、息が吸えていないのかもしれない。
桃娘地区に来てからは無いが、中学生の頃は友達が似たような状況になっていた気がする。確か、誰かが何らかの袋を口元に充てて呼吸させようとしたら先生が止めていた。結局できることと言えば、吸って吐いてのリズムを整えさせることくらいだったことを思い出す。
私はその時のことを思い出し「はい、吸って~。吐いて~」彼女に呼吸を合わせるよう促した。それが利いたのか、彼女の自力かはわからないが徐々に落ち着き始め、「もう大丈夫です。ヒカリ」とやっと彼女は喋ることができた。
「ほら、ここに座っててもしょうがないから、あんたの部屋行くよ」
「ああ、いえ、私には家事が」
彼女はほぼ無意味なハタキを持っている。
「そんなの良いでしょ」
私はまだふらつく彼女に肩を貸して歩いた。彼女はとても軽くて、華奢だ。同じ女子としても、可愛らしく感じる。太郎からすれば、同じ境遇で、これほど可愛いのだ。
そりゃ、そうだろう。うん。
私は彼女を部屋に送り届け、ベットで横になったのを確認して言った。
「今日はもう寝てなさい。なんか食べたいものある?」
「いいえ、大丈夫ですヒカリ。ヒカリにご面倒をかけるわけには」
「意味わかんないやめて。お母様もいないから、そんな卑屈にならないで」
「……ヒカリは、すごいですね」
「はぁ? 何よ急に」
「ヒカリはいつも嫌なことがあって、いろんなことを感じながら生きているのに、私なんかに優しくしてくれるんだなって」
急に褒められる。それは桃娘特有のそれとは違うから、どう反応すればいいかわからない。なんだか居心地が悪く感じる。
人形は、続けた。
「仏教には四摂法という教えがあります。分かち合い、優しい言葉をかけ、相手のためになることを行い、平等に接せよ。そういう教えです。ヒカリは、そんな人です。私はお屋敷で働き始めたとき、ヒカリは私を遊びに連れ出してくれました。それまで勉強ばかりしていた私は、それがとても新鮮で、嬉しかったです」
「……そんなの、私がでかけたかっただけだし」
「それでも、私の感謝は変わりません」
悔しいなぁと、本当に思う。
私は人形のようには絶対になれない。だって、こんなに素敵な人形に嫉妬心を抱いてしまうような人間だ。本当は自分が太郎と喋りたいから、彼女がいなかったらと考えてしまうような人間だ。だから人形の思い違いも甚だしく、私は気分が沈む。
「ヒカリ。私はナチュラルって、とても大変だと思うんです。私は桃娘だから、人に優しくすることもできます。でも、そうじゃなかったら違うんだなって思うんです。でもヒカリはナチュラルで、こんなに優しくて」
「止めて、違うの! 私は自分勝手で駄目なんだから」
「そんな」
「なんなのあんた? 言うことがそれだけならもう行くから」
「ヒカリが自分のことをどう思っていようが、やってきた行いは変わらないですから」
私は部屋を閉じ、へたり込んだ。
違う違う。全然そんなんじゃない。だってそもそも、人形はいまナチュラルなのに、こんなに人に感謝できる。それも、雑用を押し付けるような家の相手に対して。だから、彼女のお世辞はあきあきだ。人に感謝し、尊敬できる人こそ、輝いている。
だから決して、私じゃないのだ。
だって私は、人形と一緒にいるだけで逃げ出したくなるような人間なのだから。
人形は、お母様に太郎に取り入ることを命じられた。そしてそれを見事に達成し、太郎と一緒にナチュラルの感覚を手に入れている。その状況に失望してしまう自分が、本当に大嫌いだ。
でも、仕方ない。もともと桃娘だった二人が近づくのは必然で、もしその過程に何か問題があったのならば、その前に私が太郎に気持ちを伝えなかったことだ。彼に桃娘の感覚があるときであれば、こんな私でもきっと前向きに考えてくれたと思う。そんなの嬉しくないけれど。だから、どうしようもなかったじゃないか。
夕食の席でも私はぐちゃぐちゃと考えていた。寝ていろといったのに、人形は一緒に食卓を囲んでいる。可哀相で、素敵な人形。私は彼女の顔を直視できない。
「どうかしましたか? ヒカリさん」
「いいえ、何も。お母様」
余計なことをモヤモヤと悩む私とは対象的に、お母様は上機嫌だった。仕事で良いことがあったときはすぐに顔に出てしまうのだ。
「戸籍変更ができなくなることが、もう少しで決まるのよ」
私はそれを聞いたとき、真っ先に浮かんだのが太郎の顔だった。
「ナチュラルから桃娘は今まで通り変わることはあるけれど、逆はやっぱり駄目よねぇ。だって受験前だけ桃娘になって勉強に集中できるようにして、その後戻ってくるみたいな悪用をされては多くの人に不利益になってしまうもの。そういう議論が成熟したって、党の先生方にやっと伝わったわ」
太郎は今、エンジンがかかったように猛烈に漫画を描いている。彼の能力が外の人に素晴らしいと評価されたとしても、実際に声が掛かるには時間がかかるかもしれない。もし、それよりも先に戸籍変更ができなくなってしまえば彼はナチュラルになれなくなってしまうのだ。
「今日は本当におかしいわねぇヒカリさん。またなにか考え事かしら?」
どうやらお母様と同じように、私も表情に出やすいらしい。なんとか取り繕う言葉を探した。自分が言ってもおかしくなくて、お母様が聞いても気分を害さない言葉を。
「……私は自分がナチュラルにふさわしいかわからないので、自分自身が桃娘になってしまうことも考えてしまいますから」
戸籍移動ができなくなってしまえば、私はナチュラルに戻ることができないだろう。
かすかにお母様の目が見開いた。
「大丈夫ですよお。よほどのことがない限りは桃娘になんてならないわ。それに私の子供ですもの」
それは親ばか的な意味なのか、法的な問題は立場上対処できるということなのか、私には判別がつかない。
「私だけのことじゃなくて、例えば
思っていないことでも言ってみると、とぎれとぎれになってしまったのがそれっぽく聞こえる気がする。私は抜け道があるのであれば知りたかった。そのために、お母様のお気に召しそうなことを探した。それは一部、功を奏した。
「人形ちゃんと仲良くなったのね、嬉しいわ。桃娘はとっても素敵ですから。でもヒカリさん。勘違いしてはいけないの。彼女が素晴らしいのは桃娘だからであって、そのための処置を受けているから落ち着いて働いていられるし、友人としても付き合いやすいのでしょう。でも
お母様は私が人形にいい印象を持つことを喜んだ。しかしそれは人形の桃娘という要素に対してであって、人形自身に対しての思いはどうでも良いようだった。
でも。
それはおかしいんじゃないだろうか。どうしてお母様はそこまで人形のことを見ないのだろう。彼女にだって人格があり、歩んできた道、歩むべきはずだった道がある。それを大したものじゃないなんて言い切ることはできないじゃないか。
「もしかしたら人形は、素敵な人かもしれないですよ?」
「そうね。でも、桃娘になったらもう駄目よ。その感覚を知ってしまえば、普通の感覚には戻ってこられない。桃娘からナチュラルになった人々の犯罪率の高さを知らないでしょう? 仮に心根が素晴らしくとも、桃娘になってしまっては駄目なのよ」
「……そんな」
「ねぇ、人形さん」
「私はこのお屋敷で、幸せに過ごさせて頂いています」
傍らに立つ人形は落ち着いた表情で言った。でも心の奥底で、少し我慢しているようにも見えた。
桃娘の善意は私には脂っこすぎて合わないと感じるけれど、たしかに善良で素晴らしい人達だ。しかし彼らは、そのドーピングが抜けてしまえば酷い人たちになってしまう。本当に?
私は人形を見た。人形はにっこりと笑いかけた。
今の人形が、酷い人なんて嘘だ。
「いずれにせよ、桃娘は幸せを感じるのだし、そこにとどまれるならそれでよろしいことよ。これは日本の前進なの」
そんなの、駄目だ。
桃娘だって、ナチュラルになる権利があって欲しい。
早く太郎に伝えなきゃ。そうしなきゃ、太郎がナチュラルになるのが間に合わなくなる。
言ったら間に合うかどうかなんて、私にはわからないけれど。
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