第34話 ヒロインは私じゃない

 太郎は変わった。

 私は粘り強く彼に電車に飛び出した男の話をリライトさせ、その結果彼はナニカに繋がり、ある日唐突に目に陰が落ち始めた。


 桃娘の光り輝く目とはまったく違う。まさしくナチュラルのそれだった。茫洋とした諦観に包まれた目である。彼はたしかに変わり、それでも漫画を描くことは変わらなかった。クラスメイトとの関係をなるべく希薄にし、ただ純粋に制作に打ち込む。それは以前ほど楽しそうには見えない。


 彼は日に日に闇を帯びた。ときに独り言のように暴言を吐くこともあり、本当に辛そうでもあった。それどころか、漫画に向かう姿さえ鬼気迫るそれは苦しそうに見えたのだ。


 そして、太郎にそんな苦しい表情をさせているのは私だ。

 私が彼をナチュラルにしたいと思ったから。私がナニカに相談したから彼はこんなになっている。


 桃娘であったから、彼は朗らかで優しかった。私は桃娘に反発を覚えるふりをしながら、都合よく太郎だけは他の桃娘とは違うカテゴリーに入れ、彼だけが特別だと思い込もうとしていたのだろうか。


 実際、私は今とても辛い。


 なんて自分勝手!


 最悪の自己中心主義!


 でも、私はどうしたいのだろう。再び彼にナチュラルだったことを忘れて、桃娘になって欲しいのか。いいや、そんなのは全然嬉しくない。


 私は彼にナチュラルでいて欲しい。その上で幸せを感じて欲しい。それって、そんなに贅沢なことなのだろうか。


 教室の隅で、彼は今日も描いている。教室が集中できるのか、あるいは思いついたことをその場で形にしたいのだろうか。彼は他に誰もいないように作業を続け、一人また一人と教室を去る中で自分の世界に没頭していた。


 私はその様子を見続けた。彼の引く線が美しく、次第に形を取るそれは活き活きとしたキャラクターとなっていく。吹き出しの文字は読まないように気をつける。それは完成品を渡されたときの楽しみにとっておきたいから。


 ふと太郎は息をついた。その瞬間かすかに視線が上がり、やっと前の席で背もたれを抱くように座っていた私に気がついた。


「ああ、ヒカリさん。こんな時間まで教室でどうしたの? 友達もいないのに」


 約束ごとの悪口が、なんだか妙に心を重くした。そして、それは表情に出てしまったようだ。


「ど、どうしたの急に泣きそうな顔してさ」

「泣きそうな顔なんてしてないし」


「そうかなぁ」

「そうだよ」


 泣き虫だなぁと笑う太郎に、私は顔をそむけた。見てわかるほど、太郎の画力はぐんぐん増していた。彼は自分のイメージした漫画にマッチした絵柄で、ページを一つの芸術のように表現することができた。


「ああそうだ。せっかく残ってたんだからさ。昨日のよる描いた漫画のネーム読んでよ」


 先日よりも機嫌が良さそうなのは、一作区切りがついたからだろうか。太郎から受け取ったタブレットを私はスクロールして確認する。


 それはまるでひりつくような、残酷な話だった。それは突飛なファンタジーや青臭い青春ものじゃなくて、まるでルポライティングのような現実。桃娘地区で幸せに暮らしながら、絶望を甘受している朗らかな女の子の物語だ。日々繰り返されるヒトハンとレイプ。自由に生きたいと心のそこで、本当に心のそこで願いながらも、今ある現実も素晴らしいものだと錯覚する桃娘特有の思考。


 その物語はとても酷薄で、性的で、徹底的に不憫で、まるで心のそこに鉛が落ちてくるみたいだった。その話は途中であるのか、急に終わりになってしまった。


「酷い話だね」

「酷い話を描いたからね。駄目だった?」

「……ううん。凄かった」


 と思ってしまう自分もどうなのだろう。彼が描いたものは特段珍しいものではない。桃娘地区では日々起こり得ることばかりが描かれている。だからこそ、桃娘の立場であれば気にもとめないことで、反対にナチュラルであれば刺さってしまうことだろう。


 私には、この物語がナチュラルが描いたものに見えた。でも、描いたのは太郎だ。だから太郎は、完全に。

 私の疑問が口を付く前に、太郎は言った。


「どこを直せば、もっとナチュラルに受け入れられると思う?」


 話もゾクゾクするもので、絵柄も素晴らしい。私はこの話が最後まで描かれれば、きっとナチュラルの多くに刺さるものだと感じる。そもそも、すでに太郎の作品はそうなっている。以前の太郎の作品はナチュラルからすれば荒唐無稽な心情の流れに感じることが多く、ウェブに掲載すれば絵はうまいのにヘタウマみたいな評価をされることが多かった。

 しかし、一時期から太郎はどんな作品を出しても一定以上の評価を得ることができていた。感動的な話には感動したという感想がついたし、熱い作品にはその熱い想いに共感する声が沢山寄せられていたのだ。


 だからきっと。


「もう私のアドバイスなんて必要ないんじゃない?」

「そんなこと言わないでよ。僕はヒカリさんに読んでもらえたからナチュラルの感覚に寄り添って描くことができるようになったと思ってるよ。ヒカリさんが転校してきて僕の漫画に興味をもってもらえて良かったな。だからさ。だから……、そんなに泣かないでよ」


 言われて私は涙が伝っていたことが気がついた。

 太郎は出会ったころから凄かった。ただ自分の好きなものに打ち込んで、没頭していられる。それも一つの桃娘の歪みかなと思っていた。他のクラスメイトとは違う方向に、太郎はずっとおかしいのだ。でも、なぜか眼の前の太郎はそれよりもずっと近いものに思えるし、それにも関わらず彼はとても凄いのだ。


 私は転校してきたとき、彼を自分の寂しさを紛らわせるために使ったのだと思う。彼は桃娘だからそれを良しとしてくれた。でもそれって、とても傲慢なことなんじゃないだろうか。私も他の、桃娘地区にわざわざやってくるナチュラルと同じで、身勝手な理由で太郎を利用していただけなんじゃないだろうか。


 涙が出てしまった理由がよく分かる。太郎であれば、きっとまだまだ素晴らしい漫画を描き続けることができるだろう。どんどん素晴らしい物語が世界中に届けられるに違いない。そうしたらきっと誰かが彼を救い出し、彼はナチュラルとしてどこかで暮らしていくのだと思う。そうしたら、太郎は私に近づくのだと思っていた。なんとなく、漠然とした空想の中で。でも実際は、違うのだ。彼は私のまったく知らない遠い何処かで、私とは関係のない人生を歩むのだ。


 そんな人の大切な時間を浪費させた。それも私を物語に登場させてなどという、身勝手な要求を突き立てて。


「ごめんね」

「え? 何が? いや逆に僕が……。何か悪いことしたんだよね? ごめんっ」


 慌てる太郎は私に優しくしてくれる。それさえも私は利用している。私の浅ましさに腹が立つが、しかし行動を変えようとはしない。自分が、大嫌いだ。私はそんな自分のズルさを見せられるほど強くなくて、代わりの言葉を太郎にかけた。


「もし桃娘地区から出ることになってもさ、私のこと覚えててよ」

「……出る予定がないんだけど」


 それはどんな嘘なのだろう。

 太郎は今まさに必死に漫画を描くようになり、ナチュラルに届くサイトにアップロードして反応を受けて研鑽を積み重ねているのに。まぁでも、それを糾弾する資格は、きっと私にはない。きっとずっとそうだったのだ。私は太郎と関係のある登場人物じゃない。


 だって太郎が私に見せたネームに描かれていたヒロイン。


 それは人形だ。


 私のよく知る人形だ。

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