第32話 ナニカとの策謀

「ぼーっとしちゃってどうしたの? 何見てるの?」


 もらった名刺を眺めていたら、太郎に声をかけられた。


「はぁ? 何も見てないし」

「嘘つけブス」


「ぶっ殺すぞ」

「ご、ごめんっ」


 なんてやり取りをしながら私は名刺をしまった。なんとなく太郎に見せるのは気まずい。ただ、太郎はそこに深く突っ込んでくることはなく、彼の話題に入った。


「ヒカリさん。今日のノルマを達成したから見てほしいんだけど」


 私は彼のタブレットを手に取り目を通す。

 私が主人公の話ではあった。ただし主人公が猫に転生してしまい、恋するクラスメイトを猫視点で助けるという物語だ。そのクラスメイトは別の子に恋をしていて、猫になった自分は相手になりえず、悔しい思いをしながらその恋の成就を応援するという非常に悲しい物語だった。


 はっきり言って、面白い。

 読んだ範囲では常に悲しい雰囲気だったため、出版されているメジャーな作品とは違う感じがするが、そもそも絵もうまいし何より主人公に感情移入できた。


「どうかな? 結構よかった?」


 そういってこっちを覗く彼に、私は少し意地悪をしたい気分になる。


「はぁ? ぜんぜん良くないし」

「ええー! そうかー。最近は結構ヒカリさんっぽいキャラをかけてる気がするんだけどなー」


 彼の物語に私を出すように指示した当初、それは一切感情移入ができないキャラが登場した。そのたびに私は口出しした。私はこう考えてるんだよ。私はこんな風に感じないよ。太郎は素直にそれを吸収して、時間をかけてかなり私にも自然な、理解できて応援したくなるキャラクターになった気がする。


 機は熟した。


「ねぇ、これネットにアップしようよ」

「え? 良いけど、どうして?」


「そうしたらさ、これからもっとたくさんの人の意見が入ってくるようになると思う。もっともっと太郎は上手くなって、人気になるよ」

「そんなにうまくいくかなあ?」


「行くように頑張るの! 太郎が人気になったらさ、多分外で働いている人が太郎と一緒に働きたいって思うようになる。出版社の人とか、たぶん色々。そうしたらきっと、太郎なら桃娘地区から抜け出せるよ。ナチュラルに――」


 私は一生懸命話していた。でも、太郎の表情は一向に変わらず、それで察して言葉に詰まったのだ。


「……ヒカリさんは、僕をナチュラルにするために漫画を読んでくれていたの? だとすれば、無理しないで。僕は別に、ナチュラルになりたいわけではないし、ただ面白い漫画を描ければそれでいいわけだから」


 そうなのだ。

 桃娘は様々な不遇に不満を抱かない。だから、太郎とすれば当然そういう感覚になるだろう。

 だったら。


「別にどっちでも良いでしょ? ナチュラルになっても、それはそれでいいと思わない?」


 私の言葉にだって、肯定的に受け止めてくれるはずだ。


「でもそのためにヒカリの時間を使うのは悪いし、たぶんヒカリが思っている以上に僕は桃娘であることに誇りを持ってるから」


 積み重なった快適な感覚。

 数え切れない偽の成功体験。


 でも。


「ヒトハンでひどい目にあったりするでしょ。ナチュラルになればなくなるよ?」


 あんなの、嫌に決まっているはずなのに。


「別に構わないよ。ああやって獲物になることだって、誰かの役に立つわけだしさ」


 太郎は私とよりもずっと、人形と同じ感覚を持っていた。

 あまりにも私と違い、なんだかクラクラしてしまった。でも、そんなのはわかっていたはずだった。私は勝手に太郎を特別視して、彼だけはもっと自分に近い存在だと思いたかっただけなのかもしれない。


「そう……じゃあいい」


 私はスマホに視線を落とし、もうしゃべらないという合図をだした。太郎は席へ戻った。私はこの日もまったく授業に集中できなかったので、きっとまた人形に水を開けられたに違いない。



 昼休み、私は学食でご飯を食べようと向かったところ、そこには知った人がいた。

 太郎と、人形が席を隣にして楽しげにおしゃべりしていた。彼らは違うクラスのはずだし、どんな接点があるのかわからない。しかし二人は、まるで長年の恋人のように幸せな雰囲気を漂わせ、誰に遠慮することもなく笑い合っていた。


 きっと、人形はお母様に指示を出されたのだ。太郎に近づくように、仲良くなるように、と。


 学内でカップルができることは遠慮するようなことでないとは思うけれど、ナチュラルの学校だったらなんとなくコソコソしてしまうもの。でも二人にはそれがない。桃娘だから。もしくは、ナチュラルでも高校生になったらもっと違ったのだろうか、今となってはわからない。


 ただただ一緒にごはんを食べて、仲よさげに話しているだけ。私はそれを見ただけなのに逃げ出したい衝動に駆られ、こそこそと踵を返した。なんだかすごく惨めな気分になって、それがなんなのかわからなかった。


 私は太郎とも人形ともそうやって喋ることはできない。それは自分がナチュラルだからだろうか。いや、と思う。おそらくそれは自分自身の性分の問題で、同じ桃娘だったとしてもそんな表情で喋ることができるかはわからなかった。


 私は結局昼を食べずに午後を過ごし、帰途についた。帰り道では「桃娘は人権侵害」という演説をまだやっていた。私はふと名刺を取り出した。桃娘って一体何なんだろう。それはどれくらいナチュラルと違うんだろうか。でもこんな風に悩んだってわからない。だったら、この人にメッセージを送ってしまえばいいんじゃないだろうか。


「なーんて」

「なにがなーんてなのデスか?」


 振り向くと、そこには派手な服を着た女の人が立っていた。


「いえいえ、なんでもないですよ」

「なんでもないことないと思いマス。だって私の名前は『小衣こいるいナニカ』なんデスよ?」


 何たる偶然。と一瞬思ったが、名刺を配っていた人の近くを歩いていたのだ。張本人に出くわしてもおかしくはないのかもしれない。


 やせ細ったモデルみたいな人は、大きな黒目で私を覗き込んだ。

 少し異様な挙動は明らかにナチュラルだった。彼女は機械が喋るみたいな抑揚で言った。


「ケーキ食べにいきマス。ついてきてくだサイ」



 私たちはカフェに入り「これが食べたかったのデス」と言ってナニカさんは明太パスタをくるくるとフォークに巻いていた。


「あの……ケーキが食べたかったのでは?」

「以前は」


 表情にこそ表れないが、彼女には素早い感情の変化があるのだろう。

 大きな口で大胆に食べる様は心地よい。ナニカさんはそれを飲み込むと、ダウナーな表情のままに言った。


「食べると、生きているという感じがしマス」

「……まぁ、そうですね。でもとても痩せてるので、羨ましいです」

「今日はこの一食しか食べないデスから」


 もしケーキだったとしたらそれしか食べないつもりだったのだろうか。私が悩む間も無く、ナニカさんは話題を変えた。


「演説を見ながらナニカの名刺を見ていまシタね? あなたはナニカのファン、デスか?」

「違います」

「…………」


 表情はずっと変わらないし、言葉に抑揚もないのだけれど、彼女の変わった性格が伺える。


「では、あなたは一体?」


 私はアールグレイを一口飲んだ。これは奢ってもらえるみたいだしそれくらいは言ってもいいだろう。


「空乃ヒカリっていいます。高校生です。ただの」

「私はナニカ。小衣こいるいナニカ。大学院生デス。桃娘について研究していマス」


「格好いいですね。大学院まで行かれるなんて、本当にエリートっていうか。ナチュラルだと、そこまで行けないんじゃないかって不安になっちゃうから」

「気にしてもしょうがないデスよ。なれる人はなれるし、なれない人はなれないデスから。雲の流れと一緒で、消えるところはキマってるんデス」


 なんともまぁ残酷で、救いようのない話を真顔で話すものだ。


「気に触りまシタか?」

「あ……、え、いえ」


「ごめんなサイ。ナニカは桃娘とやり取りすることが多いので、ご機嫌伺いすることを忘れちゃうんデス」

「ふふ……そうですね。そうですよね」


 それは私とまったく同じだ。私もなんだか桃娘地区に来てからいつも少し怒っている気がする。それは相手の気持ちを推し量る必要がないからで、だからこそ何も取り繕わずに素直な反応をしてしまうのだ。もっとも、それでいつも怒っているのだとすれば自分自身の心根が心配にもなるけれど。


「ああ、ヒカリさんもそうなんデスね。やっぱり桃娘に囲まれると自分の性格が悪くなっていく感覚がありマスよね。それで、太陽みたいな桃娘の性格にあてられて凹みマス」


 なんとも、感覚が自分と同じで安心する。不思議とそれだけのことで私の警戒心はどこかに行ってしまった。


「ナニカさんは、桃娘が嫌いなんですか?」

「いいえ、大好きデスよ。でも、不要と思ってマス」


「大好きなのに、不要?」

「ええ、ええ。彼らはとても素晴らしい人達で、いつも穏やかで前向き。物事に泣きごと言わず、粘り強く立ち向かえマス。勤勉な努力家デス。嫌う理由はないデスね。いっぽうで、人間はそんなに完璧である必要はないとも思いマス。生まれたままの感情をもって、不幸に苛まれる権利だってありマス」


「不幸になるのが権利なんですか?」

「ええ、もちろん。とっても重要な」


 お母様は、どうあがいても不幸になってしまう人がいるから、桃娘は必要だと言っていた。そうやって一部の感情を排除することで、犯罪に走ることをなくして社会を安定させる効果があるという。でも、ナニカさんの言葉は、そういったものとはまったく異質だ。


「だって不幸を感じられなければ、幸福がなんなのかわからないじゃないデスか。だから桃娘は、人生の目的を見失って、人から聞いた社会に役立つものを自分の天命だと思ってしまうんデスよ」

「そういうものなんですか……」

「これほど扱いやすいものはいないのデス」


 そういうえばこの人の名刺には桃娘技研という文字が書かれていたから、桃娘に対してすごい詳しいのだろう。少し話しただけでもその片鱗が窺えた。


「どうしてナニカさんは桃娘を研究しているんですか?」

「私は自分自身が一体何なのか知りたかったのデス。私はもともと桃娘だったので、それを調べるのは自然なことデス」


 驚いた。目の前にこうやって、桃娘からナチュラルに戻った人がいたことに。そして、それは誰か外の人から引き上げられたことを意味した。彼女は特別な存在だったのだ。


「すごいですねぇ。実際にそういうことはほとんどないって聞きましたけど」

「確率で言えば少ないかもしれませんが、なる人はなるし、ならない人はならないのだと思いマス。私はただ、そうだったというだけデス」


 それにしても、元桃娘が今となっては桃娘は不要と言っているのだ。それは私からすれば希望のようにも思えた。どうして希望に思えたかを思い返すと、頭に太郎の顔が浮かんだ。


「実はクラスメイトに、すごい才能を持った男子がいるんです。最近は『ヒトハン』とかあるし、今後もっと桃娘の扱いは悪くなる気がするから、私はその男子にナチュラルになって欲しいって思ってるんですけど、でも本人はそうじゃないみたいで……。やっぱり桃娘だった頃は、ナチュラルになりたいだなんて思いませんでしたか?」

「いいえ」


「……え? そうなんですか?」

「私は自分のすべてが知りたかったのデス。そして桃娘のことを知るには当然ナチュラルの感覚を知る必要がありまシタ。私はナチュラルの感覚が知りたかったのデス」


「……な、なるほど」


 桃娘はポジティブで、自己肯定感が高い。だから、自分が生きてきた桃娘の感覚を否定しない。しかし一方で、彼らに好奇心がないわけではない。そこを刺激すれば、彼らはナチュラルに興味を持つ可能性がある、ということだろうか。特に、太郎は好奇心の強い人間だと思う。そうじゃなきゃ漫画なんて描かない。


 私は一縷の希望が見えた気がした。


「私は何が桃娘足らしめているのか、巷にあふれている文献を読み漁り、抜けているところは想像で補って仮説を立てまシタ。そうしていくうちに、どうすれば桃娘状態から抜け出せるのかわかっていきまシタ。それは、私が思っている反対ベクトルデス。むしろ私たちは日々、桃娘状態を安定させるために、繰り返し自己メンテナンスを行っていたのデス。つまりそのメンテナンスを止めてしまえば、桃娘状態から抜け出すことができマス」

「……その方法を教えていただけませんか? 連れ出したいクラスメイトがいるんです」


 それこそが、私にとっての希望。


 私は太郎のことを仔細にナニカに伝えた。彼は時間があれば常に漫画を描いており、ナチュラルに届くものはなんなのかということを日々追求している。


 私が伝え終えると、ナニカは聞き返した。


「どうしてその人をナチュラルにしてあげたいのデスか?」


 言われ、言葉に詰まった。

 その上で私は、なんだか急激に顔が熱くなってきた。


 それを真顔でナニカは覗き込んできて、なぜだろう、表情は変わらないのに彼女が笑ったように見えた。


「残念ですが、桃娘はナチュラルになりたいと思わないでしょう。自分が桃娘であることが素晴らしいと思っていマスからね。本人が望まないことを、ナニカは強要しかねマス」


 急激に顔の熱が冷めていき、私の心がしぼんでいく。何もかも、もっともな話だ。


「……そうです……よね」

「だからあなたのスべきことは彼にナチュラルを知りたいと、強烈に思わせることです」


 ナニカは、私を否定したわけではなかった。その変わらない声音で、建設的な話を続けていた。


「強烈な、感情がかき乱されているナチュラルについて、彼はおそらく理解できないデス。一般的な桃娘は、普通のナチュラルがどう行動する、というのはなんとなくわかっていマスが、その奥に

何を抱えているかに理解が及ばないのデス」


「そんな……気がします」

「あなたが連れてくるのデス。彼の知的好奇心を、ナチュラルの浜辺に」



 これは、すべてが始まる前の話。

 このとき私は、その先の太郎にどんな苦難が待ち構えているかなんて知らなかったし、ただ自分のエゴで太郎をナチュラルにしたい一心だった。


 数日後。駅で太郎とともに飛び降り自殺(自殺なんてできないけれど)を見た。これこそが、入り口だと、私はそう思ってその男を主人公の物語を作るよう太郎に伝えた。太郎の反応は適宜ナニカさんに伝え、彼女もタイミングを伺っているようだった。


 そして、太郎は電車に飛び込み、少しずつ彼の感性は変化していったのだった。

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