悪業の要義
第24話 ◆人形の希望
それは太郎君を図書館へ勉強に誘った日のことでした。
私達はヒトハンに巻き込まれ、いつものようにレジャーにやってきたナチュラルに蹂躙されたのでした。ただ、太郎君は私を助けるために立ちはだかってくれて、その姿はちょっと格好良かったです。
だから、ヒトハンの後に太郎君の家にお呼ばれしたのはびっくりしました。ただ、太郎君は何をするでもなく私をお手洗いに促し、それが終わるとすぐ帰るよう言われました。一体何だったんでしょう?
まぁ、太郎くんのことだから何か考えがあったんだと想いますが。
私は星乃様のマンションに戻ります。そこに飾られることこそ私の本分であり、メイドとしての努めなのです。私は早速メイド服に着替え、そして布巾を絞ってテーブルを拭きに向かいました。もっとも、ほとんど掃除ロボットがこなしているのでかすかな拭き残しを探す作業です。
それは何も考えずに時間が流れるだけの仕事とは呼び難い仕事でした。しかし、それを必要とする人がいるのであれば私は一生懸命それをこなさねばなりません。
それを終えたら、私は自室で勉強です。こうやってお勉強の時間もくださるだなんて、私はとても良い生活をさせていただいていると思います。ここに来る前、私は普通の中学生でした。成績は良好で、このまま行けば一般的な母親業につくことができる成績でした。でもそれはあくまで普通の道で。今私は、こうして特別にメイドとして働かせてもらってとても幸せです。
なんて浸っているときに、唐突に胸がずきりと痛みました。それと同時に、さっきのヒトハンの出来事が感覚を伴って蘇りました。
なんだか苦しくて、私はスマホを見ました。私は天気予報を開いて一週間の天気を確認しました。それでも私は苦しいままでした。
なんでしょう。病気でしょうか。しかしこの現代において病気なんて考えられません。
それなのに胸や下腹部の痛みがどんどん鮮明になり、私は走った後のように息が乱れ始めました。
え、なにこれ。
私はどうしてこんな風になってしまったんだろう。私はトイレに急ぎました。そのときに、ちょうどヒカリお嬢様が帰ってきて玄関の彼女と目が合いました。
「ただいま、人形」
彼女の視線は、いつも私に少しだけ厳しいものがあります。彼女は多分、私のことが嫌いなのでしょう。そんな彼女に挨拶もできず、私はトイレに駆け込み胃の中のものをすべて戻しました。
本当にどうしてしまったのだろう。
私から四無量心が抜け落ち、心を刺々しいものに変えていくようでした。
そして全身に不快感がつきまといます。それは誰かによって全身を弄られる感覚でした。あるいはそれ以上の酷い行いのバックラッシュでした。
「ねぇ、本当にどうしたの?」
トイレの外からそう声をかけられました。
世界になんの心配もないお嬢様の、気の抜けた脳天気な声です。そして、お嬢様の声をそんな風に感じてしまった自分に驚きました。私はなぜ急に他人をそんな風に推し量るようになったのでしょう。
それがきっかけだったのかどうか、頭の中で過去の人生が呼び起こされました。
私は穏やかな両親の一人娘で、日々穏やかに暮らしていました。勉強も運動もそれなりに得意で、一応優等生ではありました。日々の思い出は、繰り返しでした。私は毎日食事をし、勉強して、お風呂に入って寝るだけ。
目的もない日々は、なぜだかいま、急にひどくがらんどうなものに思われたのです。
そんなこと、思ったこともなかったのに。
私が一通り吐いてトイレから出ると、お嬢様が待っていました。
「ほら、インフラ呼ぼうか?」
「いいえ、大丈夫です。すみません……」
お嬢様は本当に心配そうな視線を私に向けていました。私はその真意を量りかねます。でもとにかく、私は自室に戻ってベッドに倒れ込みたいのでした。
私の職務はとても時間がありました。
そもそもの作業量が少なく、もはや待機が仕事と言っても差し支えありません。そして、手が空くと頭の中で余計なことが渦巻くようになりました。そんなこと、以前にはまったくないことでした。
そして、たくさんのことを考える中で、私は自分がものすごくおかしな環境に置かれているのではないかと考えるようになりました。衣食住満たされ健全にも関わらず、それは分不相応なアイディアかもしれないけれど、しかしその思いは止まりません。
私は住み込みで働かされているけれど、どうして同い年なのにお嬢様は働かなくていいのだろう。そりゃ、昔は身分の違いでそういうことがあったというのは知識の上では知っています。しかし、今現在もそれが行われているのはどうなのだろう。
私は将来の希望は一切いだけないけれど、それは普通なのでしょうか。これに関して言えばお嬢様も近いかもしれません。ただ私は、そもそも母親になるものと考え、それ以外の将来を放棄することを受け入れておりました。私はそんな自分自身に驚いてしまったのです。
そしてそれさえ、本当になれるものなのでしょうか。
私は日々、セクハラやレイプで汚されている身です。それは私の中の穏やかな母親像とはかけ離れた存在でした。ヒトハンでいつも暴力を振るわれ、不特定多数の男にされるがままになる女に果たして、幸せな未来など来るのでしょうか。そう考えることは、私が潔癖すぎるだけなのでしょうか。
八正道は遠く、私は苦しみを募らせるばかりでした。
私はある日、学校へ向かう途中に方向を変え、桃娘地区と外区の堺に向かいました。私は気がついたらずっとこの地区が自分の居場所だと思いこんでいたのだけれど、ふと外に行ってみたくなったのです。なんというか、私はこの場所から逃げたくなりました。
桃娘地区は塀に囲まれ孤立した場所です。そこから出るには七箇所の道路があり、自動車の場合は正しいETCに通行トークンを登録しておかないとゲートが開かず、歩行者に関してもアプリでの事前登録が必要だとは知識としては知っていました。
ただし、事前登録に関して言えばそれは戸籍がナチュラルでないとできないとのことで、私がすることはできません。かと言って頼もうにも、頼む相手はおりませんでした。私が今話せるナチュラルといえば、ツキ様とヒカリお嬢様しかいないのですから。
歩いて歩いて、歩道用のゲートはグリーンの門で『ここにスマホをかざしてください』と書かれたパネルが設置されています。指示に従いかざすと、『桃娘地区の外に出るには、事前登録が必要です』と表示されました。
もっとも、地区全体を塀で囲んでいるとは言っても、すべてを網羅しているわけではありません。私は塀を沿うように歩いていくと、山の麓につながって途切れているところがありました。斜面は急ですが、乗り越えられないほどではなさそうです。私はそこに足をかけて踏み出すと、あっさり外に出ることができました。
どこかに行かなきゃ。
明確な考えがあったわけではありません。ただ、今この場にいることが将来的に素晴らしいことだとは到底思えなかったのです。そして、実行するチャンスもそうないかもしれないとも思いました。
歩きながら私は、どうすべきか考えました。とにかく、誰かに助けを求めなければなりません。そして、ナチュラルの人に出会ったら、戸籍変更のための身元引受人になって貰い、ナチュラルになるのです。
そのためには、どうお願いすればいいでしょう。わかりません。でも、私でできることであればすべてできると思います。酷い凌辱も、死に至る暴行もすべて経験済みですから。もっとも私のできることが、誰かにとって魅力的かはまったくわかりませんが。
しかしうまくはいかないものです。
道なりに進み、三十分ほど歩いたところでオレンジのジャンパーをきた男の人に呼び止められました。一般人には見えませんでした。地区内であればインフラとか、そういう役割に近い人だと思えました。
私は逃げようとしましたが肩を掴まれました。
「桃娘の方ですね。駄目ですよ、勝手に出ては」
「分かりますか?」
「そりゃあ、見ればわかります」
言葉こそ柔らかですが、有無を言わさぬ表情でした。
「……はい」
「ゲートを通らなかったんですね。でもあなたがどこを通ったとかはわかるので、衛星データなりGPSなりの監視システムからアラートが飛んでくるから意味ないですよ」
なんとなく、今走って逃げる気力がありませんでした。どうせ捕まるのだろうという諦観がありました。
どこから出ようが監視されている。そうだとしても、この脱走を意味のあるものにしなければなりません。
「私はどうすれば外に出られますか?」
思い切って尋ねると、彼は私の全身を睨め回しました。私は居心地の悪さを感じました。こんな感触、数日前まで感じたことはありませんでした。
「そういう贅沢を言うのは、悪いとは思わないのかな」
少し、男の声に角が立ちました。
「悪いこと……ですか?」
「君は桃娘市の中で、何も不自由しない生活を送っているんでしょう? 嫌なことも感じないって聞いてるよ? それに生まれてきたら子育てをするだけで一生を過ごせるなんて幸せだ」
私も少し前までそう思っておりました。
しかし、今はその決まった未来というのが恐怖なのと同時に、仮にそうなるのだとしてもハリボテなのだろうなぁと思いました。私は日々誰かに蹂躙され、本当の自分の気持ちを感じることも許されず、すべてを矯正しています。それを幸せと呼ぶことを、彼は正しいと思っているのでしょうか。
「僕たちは毎日働いて苦しい思いを救う手立てはない。だから君たちのわがままを聞いている余裕はないんだ」
最初からわかっていましたが、この人は味方ではないのです。私は彼を強く押しました。そんなことをすると思っていなかったのかと思います。彼は尻もちをついたので私は走って逃げました。彼はうわっ、と同様を見せましたが、すぐに私に走り寄ってきました。私も逃げましたが、女の走力ではすぐに追いつかれてしまいました。思った通りでした。
私は肩を掴まれて引き倒され、そして何かを押し当てられました。
ビリっと全身に衝撃を受け、体に力が入らなくなりました。彼を見上げると、息を切らせながら笑っていました。
「桃娘はさ、何をしてもいいんだよな。忘れるし、前向きな思い出になるんだろ?」
言うと、私の胸に手を伸ばしてきました。彼の目は血走り、息は更に上がり始めました。
「なぁ、今どんな気持ちなんだ? 桃娘市の外に出ようとしたら、いいことがあったなぁとか、そんな感じ?」
何を言っているんだろう、この人は頭がおかしい。でも私は声も出せず、抵抗もできないままでした。どうしてこんなに悔しい思いをしなければならないのだろう。
なるほど、これが桃娘なのか。
私は彼に背負われ、なにやら個室に連れて行かれ、そしてヒトハンのときのような行為を受けました。私はとても嫌な思いがして、死にたい気持ちになりましたが、しかしそれは日常と対してかわらないことでした。
嫌なことは私の時間感覚を狂わせました。
しかし嫌なことに耐えていると、その時間は唐突に終わりを告げました。
懐かしい馴染みのある発光によって。
強い刺激が網膜を焼き、一瞬にして生まれ変わった気分です。
ああ、なんて人生はすばらしく、菩提心に満たされる!
人形はさっきまで嫌なことがあった気がしたが、しかしそれも人生のエッセンスだと思い改めた。桃娘地区外への散歩だなんて、我ながら思い切ったものだ。
男は一通りの行為を終えると、人形を地区内に戻るように促した。人形は着衣を整え、清々しい晴天と小鳥の声に幸せを感じながら帰宅した。
自宅に戻るが、そこにはまだ誰もいない。家主であるツキは働いていて家にいることの方が少ないし、ヒカリはまだ学校だ。おそらく学校から連絡が入ることはないだろう。桃娘が学校に来ない程度のことは、社会的に大した問題になり得ない。ただ、勉強に遅れないように勉強しようとしたところで、人形は無性にスマホが見たくなった。そして実際にスマホを見た。しかし、スマホを見ているにも関わらずもっとスマホが見たいと思い続けた。
スマホをいくら覗き込んでも、スマホを見たいという欲求がなぜか満たされなかった。
なんとなく、先程の地区外の出来事が思い出された。そこで起こった出来事がフラッシュバックした。
私は頭が徐々にクリアになっていった。
なにこれ。
人類は完全な健康を手にし、メンタル不調を克服したとされています。特にメンタル不調を完全に克服するための処置を加えられた桃娘には、何をしても問題ないとも。何故ならば、たとえ何が起こったとしてもそれは健康上、精神上の問題にはなりえず、だからこそもののように扱ったとしても何も失うものがない、はずなのでした。
そしてそれは正しいのです。事実私はつい先程までそう感じていたのですから。
死にたいな。
だってこのまま生きていても、私は誰かに凌辱されたり、あるいは殺しの真似事のようなことをされて、誰かの欲を叶えるための道具に成り下がるのです。私に求められるものは人間性ではなく、人間にできないことを代替して行えるという機能のみ。誰に尊敬されることもなく、誰からも馬鹿にされているに違いなく、そんな人生をこのまま送る勇気が私にはありませんでした。
それは地獄です。
死ぬことよりも不快です。
だから私は、翌日以降も何度も桃娘市から脱出を試みました。
私有地の山道を超えても、タクシーを使って出ようとしてもダメでした。私は何らかの方法で見つかり、そのたびに凌辱されました。だってそれをできることこそが、桃娘の機能なのです。
時折、太郎くんのことが頭に浮かびました。
彼は時折私を助けてくれました。そんな助けは、別にいらないのになと思っていましたが。桃娘は基本的に親切ですが、彼は時折それとは違う優しさがあった気がしました。
太郎くんに会いたいな。
でも、太郎くんは私のことをどう思うでしょう。私のような、誰かに繰り返し穢される奴隷に対し、太郎くんはどう思うでしょう。
私は当然の失望に辿りつきました。
太郎くんは桃娘だからこそ親切にしてくれますが、そうでなければ私をどう思うかは容易に想像が付きました。
でも、もしかすると。
太郎くんはヒトハンのとき、正気に戻っているときも私に優しくしてくれる。だから、もしかすると。
その想像と同時に、私の頭に嫌な予感でいっぱいになりました。
あの日彼は、私を彼の家に招待してくれました。でも、ほとんど何をするわけでもなく帰るよう促されました。それは異常な行動で、彼が相手が桃娘だとすれば理解不能なことでした。
そして、その時以来、私は不安で心が満たされる時間が劇的に増えたのです。
じゃあ、彼なのでは?
私をこんな地獄に連れ込んだのは、太郎くんなのでは?
どうして? なんのために? あるいは、どうやって?
もし太郎くんだとすれば、どうして私にこんな思いをさせるのだろう。そんなに私を憎く思っていたの? 彼が何かやったか確証はありませんでしたが、私はそうに違いないと思いました。何度考えてもあの日の太郎くんは理解できません。
私は、何度挑戦しても桃娘市からでることはできませんでした。
そしてある種正気に戻ってからの日々でも、時折ヒトハンが始まってひどい目に遭いました。ヒトハンが始まるときに抵抗をみせたとしても、私はスタンガンのようなもので体を動けなくされた後に勝手に始まってしまうのです。他の桃娘たちはそんな私の抵抗を見て笑っていました。彼らは皆、狂っているのです。
そしてヒトハンが終了すると私は一時的に幸せになり、その後思い返して絶望に苛まれました。私は衣食住保証されていて、怪我や病気になってもすぐ治ることが確約されていて、おそらく将来は結婚して子供を持つこともできるでしょう。
でも私はその想像が、おそらく私の大嫌いな誰かのために生かされている人生が、ひどく気持ち悪いものに感じられました。
ああ、死にたいな。
私は部屋を出てマンションの屋上に登りました。涼しい風がほほを撫ぜます。月明かりがあまりにも綺麗で、私を照らすだなんてもったいなく感じました。
飛び降りました。もはや恐怖はありませんでした。
自分でもはっきりとぐちゃりと音を聞いて、そして意識を失いました。
ああ、死にたいな。
医療パックから排水が起こります。マンションに常駐したオペレーターさんがパックを私から剥ぎ取り尋ねます。
「大丈夫ですか~?」
ああ、死にたいな。
でも現代の人類は死ぬことが許されません。何が起ころうが、こうやって医療パックですべて元通りになってしまいます。
ああ、死にたいな。
最近そう思うことが増えました。
いつからだろう。
太郎くんと最後に会った日からだ。
太郎くんのせいで知らなくていいことを知ってしまった。彼は私にどういうつもりで地獄をみせたのだろう。
恨みたいわけじゃないのに、彼を恨んでしまいそう。
ああ、太郎君はどうして私にこんな酷いことをしたのだろう。
太郎くんなんて死ねばいいのに。
いいや、ダメです。
そんなの、羨ましすぎる。
太郎くんは私をこんな目に合わせたのだから、その責任を取ってほしい。だから太郎くんのすべきことは、私を殺すことです。
太郎くん。お願いです。どうか私を。
私を殺してください。
それはきっととても難しいことで、絶対に達成できない目標。現代の医療は発達しきっており、病気や事故で死んだという話は一切聞きません。つまり私は、そもそも死ねるのか、というのは重要な問題でした。漫画や小説では自殺などいくらでも出てきます。ただしそれらは歴史物や時代物のみ。いま切腹したとしても五分もせずに傷一つ無い体が戻ってくるでしょう。
私はこのままでは桃娘地区から出られないと悟り、あるいは桃娘のまま出たところでそれは地獄なのだと悟りました。この世は地獄で、私はきっと耐えるだけの人生だから、優しい誰かがそれを感じないように私の感性を奪ってくれたのかもしれません。
感性を取り戻したとき、今まで地区で出会った数々の男たちが頭を過りました。彼らは私をもののように扱い、何をしても許されると思っているようでした。ヒトハンはその典型で、それが外の地域で宣伝されている以上事実、この世界ではそうなのでしょう。
そして、そんな世界は生きる価値がありません。
私はこんな世界から消え去りたいし、そんな世界を否定したい。
私がいくら考えたところで、死ぬ方法なんてきっと思いつかない。でもあなたにはきっと、考えつく義務がある。
太郎くん。
どうか教えてください。人が死ぬにはどうすればいいかを教えてください。
結果としてそれが痛くない方法であれば、何もいうことはありません。
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