第16話 太郎の漫画

 翌日の学校。

 太郎を追い返してしまったので気まずかったが、太郎はそんな素振りを見せなかった。


「いやー、凄かったなぁヒカリさん家。まず天井の高さが違ったもん!」


 彼はそう言ってサラサラと家をタブレットに描いてみせた。

 どれほどの時間を費やせば、それだけ器用に絵を描けるのだろう。


「でも家に着て、ケーキ食べて帰っただけじゃん」

「いい経験だったなー! 空乃ツキ先生にも会えたしね。ニュースでよく見る有名人」


「はいはい、私は結局お母様のついでですよ」

「わっ! そういう意味じゃないよ! 周りすべての要素が、ヒカリさんを生み出しているんだよ!」


 それはフォローのつもりだったのだろうか。


「帰るときに守衛さんとすれ違ったんだけどね、おじいさんなんだけど。彼もすごく大きなお屋敷でびっくりしてるって」

「守衛さんと話したの?」


 太郎は漫画ばかり描いているが、意外とコミュニケーションが好きなのかもしれない。


「守衛さんの仕事がどんなものか気になるしね。全部漫画に繋がるんだ」

「あっそ」


「いざという時は、ヒカリさんを助けてねってお願いしておいたから、何かあったら助けてもらうといいよ」

「なんで太郎がそんなお願いするのよ。うちの守衛なんだから、そりゃ助けてくれるでしょ」

「ははは、それはそうだね!」


 太郎はおかしそうに笑っていた。

 私は太郎が昨日と変わらない態度でいてくれたことが嬉しくて、同時にそれが桃娘特有の反応なのかと判別がつかず、少し複雑な気持ちになった。



 太郎がいるから、私は学校の居場所が少しだけ良くなって、反対に家の居心地はとてもいいものとは言えなかった。


「お嬢様、おかえりなさいませ」


 なんて言うのはお母様が雇い始めたメイドである。

 今どき、ほとんどの家事は電化製品がこなしてくれる。それはまるで植物が光合成するように自動的にあるべき形に整っていく。だからメイドなんて必要ないのに、お母様はわざわざ住み込みで部屋まで用意する。


 お友達の準備、と言っていたのは彼女のことだった。要するに、メイド件友達の桃娘を家に住まわそうということだ。そんな年齢の子供が学校もいかず働かせていいのかお母様に尋ねると、桃娘は正規の手続きを踏めば問題なく『使用できる』とのことだった。


 手数の少ないわずかばかりの、家事のカスみたいな部分を彼女はこなしている。ロボット掃除機の吸い残しをコロコロでくっつけたりだとか、そんなあってもなくてもいい仕事。私は挨拶を無視して自分の部屋にこもった。お友達になんてなってやるものか。


 テーブルに付き、そしてノートを開く。それからタブレットで数学解説の動画を見ながら数列の勉強を開始した。外にいたころ、私は進学校で成績上位だった。


 進学校といえどもクラスには不良もいれば、落ちこぼれる子もいて、私はそれを関係のない異星人だと思っていたが、私は桃娘地区の公立中学に編入して数学小テストで二十人クラスの下から三番目を記録した。


 学習内容が以前の中学校よりも進んでいるようには感じなかったが、より応用的な問題は読み取るのに時間がかかった。

 それでも七割以上はできたし、手応えがなかったわけではなかった。それでも、自分はクラスの底辺を支える存在になってしまったのだ。


 お母様は盛んに言っていた。


「桃娘地区の学校はみんな落ち着いて勉強しているの。学校が荒れることもないし、授業は誰もが真面目に取り組んでいるのよ。レベルの高い先生も多いって聞くし、良かったわねぇヒカリさん。あなたはこれで学業に集中できるわ」


 お母様の都合で桃娘地区内に引っ越すことは私にとっては不安ばかりだったけれど、お母様はまったく気にせずそうやって私に笑顔を見せた。


「ええ、ありがとうございます。お母様」

 希望ある未来に目を輝かせるお母様に対して、私が悲観的な態度をとるなんて到底できなかった。


 学校に気を許せる友達がいないことは、ある面では良かった。少なくとも勉強に集中することはできたと思う。お母様の言う通り、先生のレベルは確かに高かった。そのおかげか、全国共通テストの順位はみるみる上がっていった。ただし、学校でのテスト順位は下位半分から抜け出すことができなかった。


 だから、そのことはお母様から咎められ続けた。


「せっかく桃娘地区に来れたんだから、もっと頑張らなきゃ。ねぇ、ヒカリさん」


 そもそも学力は上がっているし、お母様の希望で引っ越しただけで引っ越したかったわけではなかったのに。私はお母様に返す言葉は見つけられなかった。


「わかっていると思うけど、この世界はとても複雑なの。だから科学技術にしろ、機械の保守にしろ、どんな職業でも少数の天才しか就けない。この時代にブルシットジョブなんて全部機械がやるから残っていないのよ」


「わかっています。お母様」


 このマンションも、まるで植物が自立するように世界の循環に応じて、例えば雨や風、日光などを受けて自動的にメンテナンスされていく。

 すべてが事前にパッケージングされて手に入れた段階で永久機関のように人間によって都合のよいマンションの形を保ち続ける。太陽光で電気を貯め、掃除ロボットが人がいないのを見計らって動き出し、そのロボットが動かなくなったタイミングでメンテ用ロボットが掃除ロボットをメンテするという具合に。ちなみに極小のメンテロボットは二つ一組で、互いにメンテし合うために人間の手を介さない。


 食べ物を買うにしても、タンパク質の素材の仕入れから商品の出荷、それが家に届くところまで完全自動で行うことができるとすれば、かつてあったとされる店員や運転手といった前時代的な職業は淘汰済だ。


 だからこの世の役に立つ方法は、科学者、技術者、政治家、もしくはスポーツマンやアーティストと言ったエンターテイナーしか残っていなかった。


「人間はたくさんいるけど、役に立つ人間は少ないの。だから、本当に必死で勉強しないと、すぐに置いていかれちゃうんだから」


 お母様と話すのは夕食の席で、忙しいお母様と話せるのは週に二、三程度。私はそういう話を聞くたびに食欲がなくなってしまう。食卓に並ぶまで人の手を介されない食べ物はすべてがパーソナライズされていて、驚くほど口に合うのに。


 第一、食欲がなくなるというのも言い訳だ。私は実際に勉強ができなければ、不要な存在なのだから。


 私は繰り返し授業動画を見て、何度も何度も問題を解いた。いくらそうやったとしても、私を覆う不安は決して晴れないとは知っている。そして、この不安は誰とも共有できない。


 友達がいないから、どころではない。おそらくいたとしてもできなかった。なぜなら桃娘は誰もが学園生活に不満も漏らさず淡々とこなしているからだ。


 桃娘は恐怖も不安も、怒りも苛立ちもない。その点は、確かに私は羨ましかった。そういった、クラスメイトの泰然とした姿を見るたびに私は自分が一人ぼっちなんだと感じ、私と同じように常に一人でいる、ただし私とはまったく違う彼に逃げ場を求めた。


「どんな漫画描いてんの?」


 太郎は顔を上げた。


「ああ、ヒカリさん! 今ちょうどネーム描き終わったんだけど、よかったら読む?」


 私はタブレットを受けとった。それはスポーツモノの少年漫画で、中学一年生のサッカー少年が主人公だ。強豪中学で将来はプロを目指す主人公だが、元チーム内でも身体能力の低さが目立ち、コーチの眼中にすら入っていない。自分の可能性を冷静に判断した主人公は、サッカーを諦めキックボクシングを始めるのだった。


「……なにこれ?」

「え、変だった?」


「サッカー諦めるのはやくない?」

「そうかな……。主人公はサッカーでプロになれないっていう判断を冷静にくだしたわけで、それから持ち前のキック力を生かして別の可能性のある競技に移ったんだけど、伝わらなかったかな」


「いや、わかるけど。もっと未練とかあるでしょ。小学校時代もすごくサッカー頑張ってたんじゃないの?」

「ううむ……。今まで頑張ってきたことと、これからの選択に何か関係があるの?」


 私は絶句した。

 太郎は本心から私の言っていることが理解できないのだ。そりゃ、特にナチュラルなら世界に対する貢献方法をなんとしても見つけなきゃならない。でもそれ以前に、人間であれば何が好きとか、何が嫌いとか、自分のアイデンティティーは何かとか。そういうのがあると思う。


「あるに決まってるじゃん。あと、スポーツ漫画なのになんていうの? 妙に冷めてない?」

「そうかな」


 言ってから太郎の漫画を思い返す。主人公はサッカーに関する未練もないし、キックボクシングをやることに関する怖さも感じていなさそうだ。自分より上手いチームメイトにジェラシーも感じていないし、なんなら練習もなんの辛さもなく淡々とこなしてしまう。


「これを読んでいると私とあなたは違う生き物だって感じするわ」

「駄目かぁ、残念」


 そう首を傾げる太郎に、少し悪いことをしたかな、と思った。せっかく描いたものに対して、好意的な感想を言えていない気がする。


「そういうわけじゃなくてさ、私がよくわからなかったっていう意味。桃娘ならではの感性っていうの? だから、クラスの他のみんなは楽しいんじゃない? 他の人に読んでもらったことは?」

「あるんだけど、いつも読み終わったら『面白かった』って」

「ほらやっぱり!」


 言ったが、私はすぐに違うんじゃないかと思ってしまった。例えば私に注がれるクラスメイトのポジティブな言葉。桃娘にとって、出会う人すべてが良い人で、朝起きたその日は良い日で、出来事のすべては良いことで、芸術のすべては素晴らしく、エンタメのすべては面白いのだ。


「まぁ嬉しいんだけど、違う反応もあった方が描きがいはある気がするんだよなー。だからいま、ヒカリに『なにこれ』って言われて良かったかも。気合が入るっていうかさ」


 微妙な反応を好意的に解釈するのは、彼が桃娘だからというのもあるかもしれない。しかし、私は桃娘地区にきて初めて誰かの役に立った気がした。

 それは心が沸き立つことだった。


「ん? どうかした?」

「……あのさ、これからはネーム描いたら私が読んであげるよ」


「え! やっ、あの、嫌だよブス!」

「はぁなにそれムカつくんだけど。なんなのせっかく私が添削してあげるっていうのに!」


「あ……いや、これは、例のだよ」

「わかってるけど」


 一瞬本当に拒否されたと思ったことを取り繕う。


「あはは、嬉しいなぁ。じゃあ僕さ、これからヒカリさんが面白いと思うような漫画を描くよ。楽しみに待っててね!」


 その日から、私の桃娘地区での生活が少しだけ楽しくなったのだ。

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