中学生のヒカリは決めた

第14話 ヒカリと太郎

 太郎の漫画の感覚は、ナチュラルそのものだった。

 それは私にとって喜ばしいことだったはずなのに。

 しかし、私は一点忘れていたのだ。彼は桃娘で、今現在桃娘として生活している。その記憶がある状態で、彼はナチュラルに移り変わろうとしている。


 それは、私と同じ感覚だと言えるのだろうか。


 私は太郎の漫画を読んで、辛いという彼の言葉を聞いて、その絶望が色濃く浮かぶ彼の目を見て。私は何か取り返しのつかない方向へ彼を導いているかもしれないと、このときにやっと思い至ったのだ。



 私は、出会ってからこれまでの太郎との思い出を頭の中で浮かべていた。私は太郎によって救われ、傷つき、彼を救い出したいと思っていた。だって私は、太郎の存在によってずっと救われてきたから。


 太郎と出会ったのは中学二年生で、外部から桃娘地区に転校したときのことだ。もともと転校前の学校でうまく馴染めずにいたから、転校は楽しみでもあった。しかし、転校してきてその楽しみは不安に変わった。


 差別的な感覚は自分自身に嫌気が差すが、桃娘は自分と同じ人間に思えなかったのだ。


「おはようヒカリさん! 今日もいい天気だね!」

「素敵な一日になりますように、ヒカリ」

「空乃さんと今日もあえて嬉しいな!」


 桃娘地区にやってきて、毎日そのあまりの素晴らしさに戦慄を覚えてばかりだった。誰もが輝くような笑顔を浮かべて、私に善意でいっぱいの挨拶を投げかけてきた。桃娘は規律があり、善良で、常に自信と謙虚さを同居させて生きているように見えた。


 クラス内のナチュラルは私だけで、まるで私がとても育ちの悪い下品な人間になったような感覚に陥ると同時に、まったく見えない他人の内面が恐怖で仕方なかった。

 授業の時間では誰もが手をあげて差されるのを待ち、予習も復習も完璧にこなしている。


 もちろん、外の学校でもそういう生徒もいるにはいた。しかし、桃娘のクラスは誰も例外なくそういった生徒だった。私は明らかに異物だった。そして異物だったのにも関わらず、皆私を心配したり、あるいは輪に加えようとたくさん話しかけてくれる。


「ヒカリさん、一緒にお昼を食べようよ」

「空乃さんて本当に綺麗な銀髪だよねぇ羨ましいなぁ」

「今度の課外活動のグループ一緒にどうかな? ねぇ良いでしょ? 私たち、ヒカリちゃんと仲良くなりたいんだ!」


 善良で、自分たちが善良であることを疑わず、善良であって良いと信じる、誰もがまっすぐな好意を私にくれた。その好意はまるで皮膚を舐め回すような執拗さで、それは本当に申し訳ないと思うが、とにかくクラスが不愉快でたまらなかった。


 私は降り注ぐ善意を一つづつ丁寧に袖にしていた。それでも善意の雨は一向に止みはしなかった。そんな繰り返しだから、私は徐々に言葉を失い、転校前と同じように酷い孤独になっていた。好きで孤独になったわけじゃない。そうしかならなかったのだ。


 ただ、少なくともそんな現状に慣れ始めたころに、実は桃娘は完全に統制のとれた軍隊ではないことがわかった。


 それは一人の少年の存在だった。

 その少年は、クラスで一人だけ私に話しかけてこなかった。転校してから二週間が経とうとしていたときの話だ。


 彼の名前は今生こんじょう太郎で、窓際の席でずっと静かに作業している少年だった。身長は普通だと思うが猫背気味で低く見え、マッシュヘアは目元を隠している。私は彼の席の隣までよって見た。タブレットに線を引いてコマを作り、その中に絵を描いている。漫画を描いているようだ。



 そんな人とは違う行動。

 私はそんな何かに、とても飢えていたのだ。


「ねぇ」


 桃娘市に来て初めて、私は自分から他人に話しかけた。しかし、私の言葉は空中で霧散して少年まで届かなかったみたいだ。私は改めて大きな声で言った。


「ねぇ!」

「あっ!」


 驚いた彼はペンを大きくずらして、描かれていた女の子の顔に大きく線が横切ってしまった。


「ごめん!」

「ああ、大丈夫だよ。気にしないで」


 少年がタブレットをトントン叩くと、その線は消えた。


「手順を戻すのはすぐできるから」


 桃娘特有の明るい声が耳朶を打つ。それに戸惑いつつも、私はもう少し話を続けた。


「漫画描いてるの?」

「うん。癖なんだ」


「癖? 趣味じゃなくて?」

「うーん、でもなんていうか、好きで書いているというよりも描いていないと気持ち悪いって感じがするから、癖に近いかなぁ?」


「珍しいね。他にそういう感じの人いないから。あなたもナチュラルなの?」

「いいや、桃娘だよ」


 他のクラスメイトを見たら、クラスにいるときはおしゃべりしている人が多くて、他にはスマホをいじったり、教科書を開いているひとはいても、彼のように趣味……もとい癖に没頭している人はいない。


「ふーん」


 私は気のない返事をしたが、この善意で窒息しそうな教室の中で唯一の気泡を見つけた。彼は桃娘であっても、私に息をさせてくれるだろうか。


「あんた、名前は?」

今生こんじょう太郎だよ」


「たろう? 変わった名前」

「よく言われます」


「私は空乃ヒカリ」

「知ってるよ」


「よろしく。今日から友だちになってあげる」

「……え、うん。ありがとう。えへへ」


 太郎はだらしなく笑った。


「新しい友達ができて嬉しいな! これから素敵な毎日が続きそうだねぇ、空乃さん」


 本当にげんなりする、善意の悪夢。


「次、それやったら友達やめるから」

「……え、何が?」

「私には悪口を言うこと。悪役キャラになりきって、私を罵倒すること」


 他の桃娘と同じような善意はいらない。彼も他の桃娘と同じなのかもしれない。でも、この地域に来たばかりの私にとっては彼だけが希望なのだから。


「うん、わかった。善処するよ」


 それがハリボテだったとしても、私は太郎にすがるしかない。


「じゃあ友達になった記念に、早速お家にお邪魔していい?」

「え?」

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