第12話 ナニカ

 薄着のまま外に出てしまい、ひどく寒い。

 固まる指でスマホを操作して、ナニカの連絡先を開いた。病気のように鼓動が早く不快だ。そしてこんな状態にしたのはナニカの責任だ。とにかく会って話を聞いて欲しかった。

 ナニカに電話を掛けると、すぐには無理だと言われたので公園で一時間ほど時間を潰した。ずっとベンチに座っていると雪がちらつき始めた。いつも天気予報を見ているのに雪の予報なんてまったく覚えていなかった。


 凍えながらナニカのマンションを訪ねると、温かい部屋から薄着の彼女が出迎えた。


「太郎さん。大変でシタね」

「ええ……あなたのせいで」

「おかげ、の間違いではないデスか?」


 リビングにたどり着くと、タンクトップ姿の彼女が正面に座り琥珀色の飲み物を飲んでいた。太郎はその姿を見ていると自分まで喉が渇くようだった。なぜか勃起していたし、頭に血が昇っているのがわかる。


 基盤むき出しのコンピューターと、扇状的な格好と、アルコール。それらが複雑に絡み合って、部屋全体が厭世的に思えた。


 ナニカは太郎の前にグラスを置いて、そこになみなみと同じ液体を注いだ。


「飲みマスか?」

「いえ、未成年なので」

「未成年だからなんデスか?」


 太郎はグラスを手に取り、一気に煽った。それはすぐさま太郎の血液を温めて、頭にぼんやりと靄を与えた。


「何か思うところがおありデスか?」

「最悪です」


 はっきり言ったが、ナニカは特に表情を変えることもしない。

 この人はおそらく性格が悪いんだろうなと思ったが、人形や源太と違い話が通じる感覚がある。それは確実に自分が桃娘の感覚から外れているからで、だからこそいまナニカと話したかった。


「あの、夜遅くにごめんなさい」

「律儀デスね。どんなお話デスか?」

「……自分がおかしくなって、誰かに話を聞いて欲しくて」


「それでナニカにデスか? 他に話せるご家族もお友達もいるのではないデスか?」

「わかるでしょう」

「まぁ、わかりマスが」


 この人と話したかったのは確かだが、ナニカは相談に向いていないのだろう。自分の頭の配線がこんがらがるのを感じる。


「それで何があったのデスか?」


 恨みがましい目でナニカを見てしまったが、彼女は話を促した。そして、自分も話したい衝動に抗えなかった。


「さっき、父親に鍋をぶちまけました。沸騰していたので、とても大やけどを負ったと思います」

「それは大変デス」


「大変ではないです。医療パックで治るから。父親は鍋を被った後に鼻歌交じりでスマホを眺めていました。そもそも、僕は父に怒りをぶつける必要なんてなかったんです」

「いいえ、あなたは怒りをぶつけたのデスから、そうする必要があったのデス」


 優しい言葉に不意をつかれる。

 その優しさに、先を促される。


「今日の昼にヒトハンがありました。僕はそのとき同級生と図書室で勉強していて、学校に残っていたから友人と一緒に巻き込まれたんです。……その時は保護フィルムを貼っていなかったので特に疑問も抱かずに参加しました。それで、終わったあとに気分が良かったので保護フィルムを貼ったんです。それで……二人で帰宅しているときに田所……ナチュラルの男に絡まれて、それで一緒に帰っていた友人が胸を触られました。そうしたら、友人はそれを拒否せず、受け入れていたように見えたんです」


「その女の子は、そのナチュラルが好きだったデスか?」

「まさか!」


 言った後、太郎は少し考え込んでしまうことになる。好きではないだろう。田所との接点なんて殆どないし、暴力的な醜男だ。ただ、桃娘の多くは人を嫌いにならない。むしろ出会った人に関してはたいていポジティブな印象を抱く。だからこそ人形は嫌がらなかったし、拒否しなかった。でもそれは本当に彼女自身の想いなのか? それらすべてを見透かしたように、ナニカは続けた。


「君はその女の子のことが好きだったデスか?」


 それは、わからない。初めて会ったときから好感を持っていたし、ずっと可愛い女の子だとは確かに思っていた。しかしそれは、おそらく処置による影響での好感と紙一重であって、僕は自分の気持さえ雲をつかむような不確かなものになっていた。


 黙ってしまった。自分の中で湧き上がるものすべてを、太郎は疑わざるを得なかった。

 黙った僕を見ながら、ナニカは続けた。


「大丈夫デス。人を好きとか嫌いとか、よくわからないものなのデス。それは外の人だってそう。自分の気持ちっていうのは形のあるものじゃないのデスから」

「それでは、どうやって生きて行くんですか? 自分の気持ちさえわからないのに」

「気持ちはその時々で形を変えるのデスから、生き方だって変えればいいのデス」


 そんな、曖昧なもの。

 それは長年MSI精神安定インプラントを埋め込んでいる自分にはわからない感覚だった。僕にはまず父親になるという目標があり、その目標に向かって進むことを勝手にポジティブに捉えられた。だからこそそれに関して疑問を抱かないし、なったあとの生活について深く考えることもない。


 迷いがないし、単純だ。

 自分はそういう生き物だから、それに応じた生活をするのみ。でも、処置から離れた自分はどうもそうではないらしい。そんな基本的なことを今更ながら知ったのだった。


 要するに自分は、からっぽなのだ。


「僕はどうすればいいですか?」


 太郎は本当の自分に絶望し、そんな漠然としたことを口にした。

 ナニカは、迷わず答えた。


「受け入れるのデス。何もわからない太郎さんを」

「そんな自分は、肯定的に捉えられない」

「自信のない太郎さんもまた、太郎さんなのデス。あなたはそれしか、選べないのデス」


 そんな自分を、受け入れろと?


「ゆっくりで大丈夫デス。いずれそれが君になりマス」


 僕はアルコールを口にした。すると、スマホの光とは違う感覚で体の輪郭が溶けていった。それは心地よく、なんだかとても温かかった。

 アルコールには慣れておらず、いつの間にか寝てしまった。多分僕は、ただ家に帰りたくなかったのだ。

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