第10話 君も

 最初に処置を受け、太郎は感覚を取り戻す。

 ヒトハンが始まると、怒りと恐怖で頭がおかしくなる。

 そして最後に処置を受け、太郎は一瞬で晴れやかな気持ちになる。



 ヒトハンが終わり 、そういえば図書館だったのだなぁと太郎は思い出した。司書室では生徒たちが順々に処置を受け終わり、そして帰り支度を整えていた。


「太郎くん! ふふふ、またまた私を助けてくれましたね! 格好良かったです!」

「いやいや、別に! 当然のことをしたまでだし、なんの助けにもならなかった」


 図書室は逃げ場がなく、ハンターの数も多かった。人形は男にのしかかられていたから太郎は飛びかかったのだけど、その男を一度どかすことができただけですぐさま別の男に足を撃たれてどうしようもなくなった。その後、太郎の目の前で人形は恥辱を受けたのだった。


「ふふふ、気持ちが嬉しいんですよ! 一緒に帰りましょう、太郎くん!」


 太郎と人形ばかりではなく、多くの同級生が同じように処置を受け終え帰るところだった。中にはまだ処置を受ける前の生徒もいて、それが目元に光を当てられると一様に生気を取り戻していた。


 太郎も気分が良かった。

 今日、人形に勉強に誘われてよかった。その後ヒトハンがあって更に人形と仲良くなれた気がするし。ふと思った。これは自分にとって楽しい出来事だった。だからヒトハンを漫画にすれば、それは結構面白いかもしれない。


 面白い、たくさんの人に伝わる漫画を描きたい。

 だから太郎は、スマホからフィルムを剥がした。これで徐々にナチュラルと同じ感覚になっていくだろう。


 二人で帰り道を歩きながらも、陽気な人形は言葉を止めない。


「私は将来、運が良ければ母親になると思うんですが、実は映画作りに携わるような仕事もやってみたいなぁって思うんです」


 人形は楽しそうに将来の夢を話した。それはいつもと同じ陽気で朗らかな表情だ。


 少し意外な、人形の言葉。なぜ意外かといえば、桃娘の将来はだいたい決まっているから、それ以外の職業に関心を向けること自体が少ないのだ。太郎であれば父、人形であれば母である。


 漫画を描く太郎は、映画も好きではあった。

 ただ、ナチュラルが作った物語はたいてい太郎の理解が及ばないところがあり、完全に楽しめるものかといえばそうではない。


「まぁ思っているだけで、実際に携わる方法なんて見当もつかないのでどうしようもないんですけどねー」


 ただ、楽しそうに話す人形は輝いて見えた。


「そうなんだ! それは素敵だね! 携わるっていうのは、俳優さんってこと? それとも裏方? まさか監督!?」

「俳優さんは憧れちゃいますが、でも携われるならどれでも素敵なことだと思います! だって人を楽しませる何かができることって、素敵だと思いませんか?」


 太郎は人形をマジマジと見てしまった。太郎は人形が映画に登場し、俳優然とセリフを話すことを想像するとそれはとても絵になるように思えた。見てみたいなぁ、などと思って、同時に太郎は彼女を主人公とした漫画を描くのであればどんなヒロインにするだろうと想像した。


 そんな幸せな脳内図。

 それは、こんな声にかき消された。


「じゃあラブシーンの練習もしなきゃな」


 どこからかやってきたのは田所だ。彼は、そう言って人形を後ろから抱いて胸を弄り、顔を後ろに回した彼女に口づけをした。


「もー、田所さん何するんですか!」

「いや、そこの喫茶店にいたんだけどよー、知った顔が見えたから出てきたんだ」


 そういえば前回田所とあったのはそこの喫茶店だった。よくここにくるということだろう。


「相変わらず良いおっぱいだなー。なぁ、これからホテルに行こうぜ」

「えー、なんでですかぁ」


 田所のだらしない表情に、まるで人形は喜ぶかのように応じた。

 起きた出来事を前向きに捉える。それが桃娘だから。


 太郎はなぜか先程のヒトハンの記憶が蘇ってきた。人形が知らない男たちに凌辱される映像だ。そのときの彼女の苦悶の表情と、太郎の内臓を焼くような強烈な不快感だ。


 気づいたら、拳と手首が痛かった。

 なんだろう、とそれを眺めたあとで、自分が田所を殴っていたことに気がついた。

 田所は声を上げるでもなく尻餅をついた。


 僕は。

 僕は人形の手を取った。


「行くよ」

「え、なんでですか?」


 え、なんで? 田所の近くから離れることの、どこに疑問を持ったの?

 人形の言葉に恐怖を抱いた。


 いや、でも逆に……。

 僕はどうしてここから離れるべきだと思ったんだっけ?


 わからないけれど、でも体の中にある不快感に従い、僕は人形を連れて駅に向かった。その間二人は喋ることもしなかった。電車に揺られ、説明もせず彼女を太郎の家に上げた。彼女は黙って上がった。源太は買い物に出ているようで、家にはいなかった。


 人形をテーブルに案内し、太郎は言った。


「……ごめん、急に」

「え、いえいえ! 助けてくれたんですよね! ふふふ、嬉しかったですよ太郎くん!」


 彼女は本当に嬉しそうにそう言った。

 起きた出来事を好意的に捉えているからで、つまり感覚に合わせて適当な言葉を紡いでいるだけ。それが桃娘だから、それが本心なのだ。それはこの地区にいる人間全員の本心だ。


 だから、人形がそのまま田所とホテルに行ったとして、何らかの行為をしたとして、おそらく人形は田所にお礼をいうのだ。気持ちよかったですよ、ありがとうと。


 それはよかった、と、太郎は人形に手を伸ばしかけた。彼女の体に触れ、そして今までよりも少しだけ親密になるようなことを想像した。


 桃娘地区の人間は、嫌なことがあったとしてもそれは一瞬で過ぎ去るものだと知っているし、様々な出来事に対して前向きな解釈を加えられるようにできている。そう、できているのだ。


 太郎は手を引っ込めた。


「……助けたわけじゃない」

「いや、助けてくれたじゃないですか! 何言ってるんですか太郎くん!」


 太郎は気持ち悪くて吐きそうだった。太郎はその作られた人形の純真さを見ていられなかった。駄目だ、これでは。彼女は知らないのだ。それがどういうことなのか。人形は自分の状況を知らないのだ。


 それがどれほど絶望的であるか知らないのだ。


 だから。


 だから。


 それを知ることができるようにしてあげなくちゃ。


「そういえば人形さん、そろそろお手洗いに行ったほうがいいんじゃない?」


 唐突な言葉に、彼女は首を傾げる。


「……そうですか? まぁじゃあ、お借りしてもいいですか?」


 人形が席を立った。

 それを見て、彼女のスマホの保護フィルムを張り替えた。

 逆に自分のスマホの保護フィルムを剥がしたくて仕方なかった。いつもの光度で、ただ漠然と天気予報が見たかった。


 でも、それをなんとかこのいっときは我慢した。人形が帰ってきたときに、そろそろ父が帰ってくるからと帰ってもらうことにした。


 彼女はぽかんとしていた。

 それはそうだ。ただ家に呼んだだけ。それですぐさま帰れとは、一体何なのだろう。しかしそれさえも、彼女は良いように感じてくれるに違いない。


 人形はこれから正気に戻る。


 それを人形自身は、まだ知らない。

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