地獄への因縁
第9話 フィルムを貼らなくちゃ
太郎はそれから度々保護フィルムをつけて生活することを試してみた。
そうすればきっと、いつかナチュラルの気持ちがわかり、より面白いストーリーの物語が生み出せるはずだ。
しかしそれはそう簡単にはいかなかった。何か出来事があるたびに、太郎はすぐにフィルムを剥がしたくなってしまい、実際そうしてしまった。そのたびに、ああなんで自分はフィルムを貼っておくことさえできないのだろうと幻滅するも、しかしそんな気持ちは天気予報でも見ていれば決まって落ち着くのだった。
決めたことさえできないウジウジした数日を過ごした後だった。授業終わりの廊下で、人形に声をかけられた。
「太郎くん!」
「ああ、人形さん! どうかしたの?」
「噂で聞いたんですけど、太郎くんってものすごく成績がいいって本当ですか?」
目を輝かせ、人形はそんなことを聞いてきた。
「すごくって言うほどではないけど、まぁ、それなりには」
勉強は得意という自覚はあったし、将来立派な父親になるために努力を惜しまなかった。
「よかったら勉強を教えていただけませんか? わたし実は、ちょっと頭のほうが弱くって……」
学年末試験に近い季節だった。
太郎は人形と一緒に勉強することを想像して顔がニヤけそうになる。
「どどど、どこで?」
「この後、図書館はどうですか? 微分、意味不明です!」
二人は図書室に向かった。
男女二人で廊下を歩くなんてまるでカップルみたいだ。図書館はそれなりに空いていて、四人用のテーブルを二人で使うことができた。対面の席に座るのかなと思ったら、人形が横の席に腰をおろしてきたので太郎はドキリとした。
「ナチュラルは塾に通って学校より高度な勉強をするんですって。羨ましいです」
バッグから教科書を取り出しながら人形が言う。
「それは大変なんじゃないのかなぁ。学校の勉強だって十分大変だよ」
人形の言う通り、桃娘は塾に行くことや、家庭教師に勉強を教わることはほぼないと言って良い。書物やニュースを見ると、ナチュラル々は過酷な受験戦争に巻き込まれて大変な思いをしているらしいが、こと桃娘地区においてはそういったこととは無縁だった。
それは、桃娘の多くが父親、もしくは母親を、あるいは付加的にインフラを将来の職業として選択するからだろう。クラスの下位三十パーセントにならなければ、問題なくその将来を手に入れることができる。もっともその中で序列はつくわけだけれど。
ではどうして定期試験の勉強を頑張るかといえば、そういう気質だからとしか言いようが無い。一方で人形は、僕とは違うことを考えている様子だった。
「ナチュラルの人にはいろんな選択肢があるってことですよね。だから、勉強することが将来につながるからって一生懸命勉強するんですよね? 確かに桃娘地区は落ちついていて、将来もほとんど約束されていて楽は楽ですけど、ちょっと憧れちゃいます」
こうやって二人で勉強することになったことも、区外への憧憬からだろうか。それで一緒にいられるのであれば得をしたものだな、と太郎は思った。
太郎は勉強よりも、近い距離で太郎に質問してくる人形のことが気になった。でもそれを気にしないようにして、太郎は数学を噛み砕いて人形に教えた。
時折太郎の右手と人形の左手がぶつかり、慌てて太郎は手を引っ込めた。人形はそれをどう思ったか、太郎の顔を覗き込んでにこりと笑った。
太郎はこんな時間がずっと続けばいいなぁと思った。
そんなときだった。
「ヒトハンが始まります。皆さん図書室カウンターに集まってください」
いつも通り唐突に始まるイベント。そのアナウンスが図書室に響いた。
「太郎くん。ヒトハン始まるみたいですね。勉強も興が乗ってきたのに、残念ですねぇ」
太郎は一旦教科書をしまおうと閉じかけた。そのときに、不意にハンターに羽交い締めにされ服を脱がされる人形のことが頭をよぎった。それはおそらく実際に以前のヒトハンで見た映像だった。
ただ、それは一瞬で頭から消え去った。
太郎は教科書を閉じた。ノートも閉じて、カバンにしまう。
「そうだねぇ」
太郎は言いつつ、体から脂汗がにじむのを感じた。ふたりとも荷物をまとめ終え、そして『前処置』を受けるため列に並んだ。窓から見えるグラウンドから、かすかに部活動の掛け声が聞こえた。
「逃げない?」
無意識に太郎の口から言葉が出た。太郎は自分の言葉に驚いた。
「え? 逃げるって、なんでですか?」
人形が無垢な表情でそう答えた。彼女の手を引こうとしたが、何故かそれができなかった。いやそもそも、逃げる必要がないと思った。どうして自分が逃げようとしているのかがわからなかった。
気持ちはすごく穏やかだった。
スマホに保護フィルムを貼らなきゃ。急にそんな意識が頭に浮かんだ。
なぜそう思ったのかはわからなかった。
でも、スマホに保護フィルムを貼らなきゃ。
しかし今貼ったところで、ここまで受けてきたスマホの発光の効果がすぐに薄れるわけではなかった。でも、今そうしなきゃいけない気がした。太郎はスマホを取り出した。保護フィルムをはろうとそれもカバンから取り出した。
「何してるんですか?」
微笑みながら人形が尋ねてきたが気にしている余裕はない。なぜその余裕が無いのかはわからない。
フィルムの接着面を露出させ、そしてスマホに貼り付けようとしたところで、太郎は天気予報が見たくなった。無性にそれが見たくてしょうがなかった。
太郎はスマホの画面を凝視した。そして天気予報のアプリを開き、時間おきの天気を確認した。一日ずっと晴天だった。
「次、大丈夫ですか~?」
「あ、はい!」
太郎はすでに、色々なことがどうでも良くなっていた。
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