第7話 絶望の足音

 フィルムをひらひらとゆする。


 それはあまりにも普通で、本当に一般的なスマホの画面を守るフィルムだ。なんとなく画面に合わせるとサイズもピッタリ。もっとも、桃娘の利用できるスマホは決まっているので、そのサイズのものを持ってきたのだろう。と、そこまで考えて確かにスマホが決まっているというのは妙だなとも思った。


 確かに、これでナチュラルの感覚になれるとすれば面白いかもしれない。もしこのフィルムにナニカの言う通りの効能があり、桃娘の感覚を失うのであればまた違った漫画のストーリーを思いつくかもしれない。


 しかしそれはそれとして。


 先程ナニカに話した方向で一つ、まだ自力でストーリーを考えられそうだ。つまりは退屈で飛び込む線である。


 退屈はもしかすると、死に向かう毒なのでは。太郎は自分がどんなときが退屈か思い返す。基本的に気がつくとスマホを触っているため退屈にならない。


 ただ逆にスマホを触れない状況になったときは退屈な気がする。


 お風呂に入っているときなどは、早く出てスマホを見たいと思ってしまう。基本的にスマホは防水ではあるが、風呂場に持っていくと故障率が上がると聞いているため持ち込まない。そして風呂に入っていると余計なことを考えるのだ。

 それは明日の出来事から始まって数年後の未来。最終的には漠然とした将来に落ち着く。漠然としている、と言っても太郎は父親になる目標を叶えるために日々努力を怠らないし、まず間違いなく源太のようになれると思っている。そして、源太のような日々を送ることもほぼほぼできるに違いない。


 それは自然に過ごせば確定的な未来であり、確定的だということはこれからの人生は予定調和だとも言えた。それは幸せな予定調和。しかしそれが頭によぎるといつもスマホが見たくなった。


 その退屈をストーリーにするとすれば。


 主人公は誰よりも未来が明確に見えているのでは。頭が良すぎるがゆえに未来に起こることがすべてわかってしまう。だからこそ理解できない変化を求め、電車に飛び込んだのだ。そしてぐちゃぐちゃに轢かれて気を失い、医療パックから出たときに思うのだ。

 こうなることさえ予定調和だったのではないか、と。昔は、すべての粒子が観測できれば未来が完全に予測できる、なんて物理学の与太話があったらしい。その与太話よろしく、主人公はすでに決まった人生を型どおりに歩いているのだと気が付き、そこから外れないといけないという強迫観念に陥ってしまったのだ。


 なんて話を頭に巡らせ、なんだこれはと思い執筆アプリを閉じた。


「これじゃあ破綻してるよなぁ」


 太郎は結局想像しきれなかった。退屈なんてものは、スマホを見ることで簡単に避けられるものだ。


「ううむ。まぁいいか」


 悩みは一瞬、即行動。

 太郎はスマホにフィルムを貼り付けた。多少画面が暗く見える気がするが、大きな違いはないらしい。斜めに傾けたり近くで覗いてみたりしても大きな違和感はまったくない。


「これでナチュラルになるんだろうか?」


 ナニカはこれで桃娘特有のコントロールから外れると言っていた。その言葉の意味するところは正確にはわからないが、やってみればわかるのだろう。もっともフィルムに効果があれば、だが。詐欺にあったのだとすれば、まぁそれも経験だ。


 そんなことを考えながら太郎は一日を終えた。



 翌日。目をさますと大雨が降っており、太郎はスマホで天気予報を確認した。

 いつもより若干だが暗い画面に、先日フィルムを貼ったことを思い出す。しかし、感覚としては何が変わったかわからなかった。


 今日はランニングに出られないので部屋でストレッチと筋トレを行う。シャワーを浴びて食卓につくとそこにはトーストとサラダとコーヒー。


「太郎、今日も精が出るな」


 源太は毎日満面の笑みで迎えてくれる。


「いつもおいしい朝食をありがとう、お父さん!」


 太郎はスマホをいじり天気予報を確認すると、今日は一日中悪天候のようだった。


「たくさん食べろ! それで太郎も立派な大人になるんだぞ!」

「任せて! お父さんに負けない立派な父親になってみせるよ!」


 と、言ったところで太郎は唐突に先日の記憶が蘇った。退屈とは予定調和だとして、それは毎日が同じことの連続であるとの認識が生み出すとすれば。


「ところでお父さんは、父親になったことで退屈に感じたりはしたことはないの?」


 それはまさに源太に生じる感覚のはずだ。


「なんだ急に。何か悩み事でもあるのか?」

「……まぁ悩みといえば悩みなのかな。お父さんは僕の将来像なわけだし」

「なるほど確かに、人生の先輩の話を聞くのは大切だからな。いいだろう。なんでも答えてあげよう」


 源太はぽんっと自分の胸を叩いた。

「正直退屈、だなんて感情は感じたことはないな。毎日やることはあるし、時間が空いているときはスマホを見れば解決するだろう? この人生に退屈を感じる余地なんて残されていないよ」


「でもさ、毎日やることがあるって言ったって、それは同じことの繰り返しでは?」

「同じ一日なんてまったくないよ。なぜなら太郎は毎日成長しているからね」


「一日で成長がわかる?」

「わかるさ」


「じゃあ、僕は昨日から何が成長したかな」


 太郎が言うと、父ははっはっはと笑った。「それよりどうだ? 今日のパンはうまいか?」どうやらごまかす方向になったらしい。

「うん、美味しいよ。で、成長については?」

「昨日と違って悩み事があるらしいじゃないか。はっはっは、若者よ、大いに悩みなさい!」


 豪快に笑う源太にこれ以上聞いても無駄かもしれない。

 太郎はさっさと食べ終え、そして学校に向かった。



 埃を吸った雨の匂い。

 傘は足元を守りきれずに、家を出てすぐにローファーがぴちゃぴちゃと気持ち悪い。


「雨が強いな……」


 駅まであと五分程度だが、太郎は気がついたらスマホを取り出して天気予報を見ていた。一時間毎の天気予報で、相変わらず傘マークばかりが並んでいた。嫌だな、と心の中で太郎はつぶやいた。


 電車に乗ると満員で、少し揺れるだけで押しつぶされそうになる。なんとか降りて改札を通ると、そこで声をかけられた。


「太郎くん!」

「あ、人形さん!」


 こんな大雨にも関わらず、人形は晴れやかな笑みを浮かべた。


「おはよう! 今日もお会いできて嬉しいですっ! お互い素敵な一日になるといいですね」

「ああ、うん」

「……どうしたんですか?」


 人形は不思議そうな表情を浮かべ、太郎を下から見上げた。


「あぁいや、すごい雨だし、満員電車も大変だったのに、人形さんは元気だなって」

「ふふふー。私は元気だけが取り柄ですからね! 太郎くんにもおすそ分けします!」


 人形は太郎の背中をバチンと叩いた。

 あまりの元気の良さに太郎は何故か距離を感じた。どこか人形が別の人になってしまったのではないかというような不安にかられた。それは言いようのない不安だった。何故か心臓がドキドキしていた。


 なんだろう、このドキドキは。それは例えば人形に出会えて嬉しい、というようなドキドキではなかった。もっと不安とか、不快感を伴う動悸だった。なんとかしなければ。


 思わずスマホを取り出して画面を眺めた。


 本当になんの気もなしに、気がついたら太郎は保護フィルムを剥がしていた。

 画面に映し出されているのはなんでもない天気予報だ。だが太郎はそこから視線が外せなくなった。


「太郎くん、どうかしましたか?」

「いや、今日もきっと素敵な一日になると思って!」


 太郎の鼓動はいつの間にか平常に戻り、そして前向きな気持ちで満たされていた。



 気持ちは前向きになったにも関わらず気がそぞろだった。太郎は授業に集中できず、ずっと自分に起きた心境の変化について想いを巡らせていた。確かに自分が感じた不安は、味わったことのない状態だ。


 ただ、冷静になればこういった感情の変化は普段も起こっていた気がした。いつだろう。そうだ。それはヒトハンが始まった時だ。そういうときに太郎は確かに不安になって、そして終わった瞬間に元に戻っている。

 だから、それと同じ気がするのだけれど、しかし不思議とヒトハンの時の自分はまるで自分が自分でないように感じ、終わった後に残っている映像的な記憶はあれど、感情的残滓は一切ないのだった。それは狩りの前後に行われる、目元に光を当てる処置の結果なのだろうか。

 仮に、スマホによって自分自身のホルモンなり脳なりが影響を受けていたとする。だとすれば、保護フィルムを貼って何やら不安を感じた時こそ本来の自分ということなのだろうか。


 などと考えていたとき、バシンと頭に衝撃が走り太郎は椅子から転げ落ちた。


今生こんじょう君。さっきから君は授業に集中していなかったみたいだけど、そんなに偉くなったのかな」


 先生が持っていた巨大な定規を見て、それで叩かれたのだとわかった。その暴力は桃娘に対してより強くなる。桃娘の感覚は鈍いからだ。


「いやいや先生。僕はいつだって謙虚です。すみません」


 太郎が注意されると、相変わらずクスクスとみんなが笑った。叩かれたところと、落ちたときに打ちつけた腰が痛かった。


 でもその瞬間の痛みも。

 不快感も。

 スマホの画面を見ていたら自然と消え去っていった。



「太郎が授業中ボーッとしてるなんて珍しいね」


 授業間の十分休みに話しかけてきたのはヒカリだ。


「そうかなぁ。だとすればこんなに注意されることはないんじゃないかな」

「いいや、いつも太郎はボーッとしてないよ。集中して漫画を描いてる」

「確かに!」


「悩み事でもあるなら聞いてあげようか?」

「いや、実はさ。僕っておかしいのかなって思って」

「はぁ? おかしいに決まってるじゃん」


 真顔でそう言うヒカリに対して、太郎は相談相手を間違えたと思った。


「いやいや、僕だけの話じゃなくてさ、要するに桃娘全般が、なんだけど」


 そこまで言うと、ヒカリは興味を持ったように表情が変わった。


「どうしてそう思うの?」

「桃娘はMSI精神安定インプラントを埋め込んでいるわけじゃん? てことは、もともとの人間とは違う状態に持っていっているわけでしょ?」なおかつ、スマホでメンタル面の影響を受けている。「ということはさ、外の人から見るとやっぱりだいぶ変なのかなぁって」


「はぁ? 変に決まってるじゃん」

「ううむ」

「でもそんなの悩むだなんて普通だね。まるでナチュラルみたい」


 そんなことをヒカリに言われるのであれば、それは保護フィルムの影響なのだろう。


「ヒカリはやっぱり、ナチュラルの方が面白い漫画を描くって思う?」

「私にとってはそうかもね。まだ正直、全然桃娘のことよくわからないし」


 ヒカリが引っ越してきたのは二年前とはいえ、それが外の人が中の人を理解するだけの時間には足りないらしい。すこし考える素振りを見せたあと、ヒカリは続けた。


「太郎の描く漫画はやっぱり感情移入できないことが多いかな。まあ、それが面白さでもあるんだけど。でもそれはストーリーが面白いわけじゃなくて、珍味を食べている時みたいな感じっていうか」


 珍味といわれ、太郎は少し複雑な気持ちになる。


「もし僕が外の人の気持ちをわかるようになれば。もっと面白い漫画が描けるようになるかな」

「ストーリーは面白くなるかもね」


 だとすれば改めてやってみようかなぁと、太郎は思った。

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