第6話 保護フィルム

 翌日の朝、教室でネームを読んだヒカリは「これはこれで面白い」と言った。太郎は少しだけ安心したが、「ただし」と続いたのでそれだけではないらしい。


「飛び込む理由からは逃げたでしょ」

「逃げた? 逃げたかな……」


 ヒカリはため息を付いた。


「だって結局、飛び込む人を見たから飛び込んだってだけで、内発的な理由があったわけじゃない。これだったら、題材が電車に飛び込むことである意味がない」

「それは確かにそうだけど」


「やり直し」


 と言って太郎にノートを突き返した。太郎が「ううむ」と唸っていると、ヒカリは「楽しみにしてるよ」と笑った。「私は今生こんじょう太郎のファンなんだから」


 唯一のファンであるヒカリがそういうのであれば再び頑張って考えざるを得ない。


 中学生のときのこと。太郎はそのときもクラスの隅でせっせと漫画を描いていた。そして描き上げた漫画をクラスメイトに読んでもらうと、みんな面白いと言って喜んでくれた。ただそれは一方で、彼らが桃娘だからすべてを好意的にとらえてくれただけかもしれなかった。


 そんな中で、桃娘地区の外から転校してきたナチュラルのヒカリは太郎の漫画を手にとって言った。

『なにこれ?』

 太郎は初めてもらった感想に戸惑った。その漫画がどこまで彼女に響いたのかはわからないが、彼女は様々な感想を言った上で最後にこう結んだ。


『これからはネーム描いたら私が読んであげるよ』

 その時から太郎は、ヒカリが面白いと思う漫画を描こうと、彼女のために漫画を描いているのだ。


 確かにその意味で考えれば、今回の漫画の視点はすこし自分過ぎたのかもしれない。きっとナチュラルには別の感覚があるに違いない。

 もっと別の着想を得る必要がある。


 田所は電車に飛び込むとしたら理由は絶望だと言っていた。しかし、太郎からすれば電車に飛び込むことで頭が埋め尽くされる経験はむしろ熱中であり、好奇心であり、エンタメにさえ感じる。感情の振れ幅がエンタメだ、と太郎は聞いたことがある。

 売れる小説はそういう傾向があり、それは文中に登場するポジティブワードとネガティブワードの場面ごとの密度から把握できるらしかった。


 面白さにはポジティブとネガティブが必要だ。その見方をすれば、電車に飛び込むことは田所からすればネガティブで、太郎からすればポジティブだ。


「エンタメが……混在している……?」


 同じものでも複数の見方ができ、現にヒカリと太郎は別の受け取り方をした。これはこれで面白い、というのは田所やヒカリにとってはネガティブなものの中に、同時にポジティブな側面を発見できているからではないだろうか。


 そういえば、と太郎は先日出会った派手な人物のことを思い出す。


 ナニカは面白さがわかったら教えて欲しいと言っていた。彼女がなんというかも気になるし、ぶつけてみることにしよう。早速ナニカにメッセージを送り、放課後に会うことはできないかと伝えた。


 返事は数秒後には返ってきた。

 じゃあ太郎くんのお家で聞かせてください、とのことだった。



 放課後。リビングでお茶菓子を出す源太は、何故かとてもうれしそうだ。源太は父親業なので、基本的にいつもうちにおり住居を整え、家事を行っている。だから来客もお手の物だし、出されたきんつばも地域では名のしれた銘菓だ。ナニカはそれを口に運ぶと、思いのほか美味しかったのか「オオ」と感嘆の声を上げた。


 そんなナニカにニヤニヤしながら源太は尋ねた。


「太郎が年上の女性を招くだなんて珍しい。どういうご関係かお聞きしてもいいですか?」

「先日出会いまシタ。まだ語るほどのものはないのデスが……」


 ナニカはチラリとこちらを見た。その意味をなんとなく察し、僕から話す。


「電車に飛び込んだときに出会ったんだ。話が聞きたいって」


 僕の言葉を引き取って、ナニカは続けた。


「フィールドワークで色々な人にお話を伺っている中で出会ったのが太郎さんデス。本日はお邪魔致しマス」

「いえいえ! 太郎で応えられることならなんなりと! 太郎は昔から突飛なことをするもので、親としても困ったものなんですよ。漫画を描くのが趣味らしくて、だから題材になりそうなことを自分で試すクセがあるらしくって――」


「父さん! そういうのは僕が自分で話すから、黙っててよ」

「ははは、悪い悪い」


 珍しい来客で妙なテンションの源太に、太郎は気恥ずかしい。


「楽しいお父様デスね。ナニカは先日太郎くんが電車に飛び込む場面に遭遇し、お話を伺いたいと思いまシタ。普段は大学で研究の方を」

「ああ、大学生ですか! それは素晴らしい」


「ところでお父様は、太郎君が飛び込んだことが心配にはならなかったのデスか?」

「突拍子もないことではありますが、息子のことなので、何か理由はあったのでしょう。信頼していますから」


 源太の笑顔は太郎にとって誇らしいものだ。その笑顔を見ていると、太郎の心まで熱くなる気がした。しかし、ナニカの言葉は一滴の冷水だ。


「でも、命が心配とはならないデスか?」

「命? どうしてです? 電車に轢かれた程度でどうなると?」


「……いえ。ワタシは昔の本が好きなので。昔の人は簡単に死んだようデス。それに死なないにしても、体の痛みはあるし、恐怖だってあるデしょう」


 ナニカが言うと、源太は納得して手を叩いた。


「ナニカさんは、ナチュラルなのですね! 桃娘は恐怖の感覚はあまり……。だからあまりわからないかもしれません」


 太郎は恐怖に思いを馳せながら聞いていた。太郎はそれが物語の中のものだと思っていた。


「ナニカさんはどこに住まわれていますか?」

「桃娘市内デスが」


「ご出身は?」

「東京デス。確かに、もともとナチュラルの居住区に住んでいまシタ」


「ほほう。ではナニカさんも地区の福利厚生である高度予防治療を受ければいい。住民票を桃娘に移すのも簡単です。そうしたら、より楽しく生きることができますよ。保証します」


 桃娘地域の高度予防治療は、メンタルヘルスを整えられる。桃娘地区に生まれた人間は自動的に適用され、外部からの移住者も希望があれば受けることができる。

 それにより前向きになったという話は枚挙にいとまがない。


「結構デス」しかし、ナニカはきっぱりしていた。きょとんとする源太に対して、更に続けた。「ナニカは自分の感じ方を信頼していますのデ」


 太郎は興味が湧いた。恐怖の払拭を否定するナニカの感覚がわからなかった。もっと言えば、恐怖がわからないのだから、彼女の話は雲をつかむようなものだ。恐怖は、ネガティブだ。だからこそ、ほとんどの物語に登場する感情である。もしそれがないとすれば。太郎はふと考えた。ひょっとすると自分は、片手落ちの人生を送っているのではないだろうか。


 源太は買い物があるのでと席を外し、ナニカと二人きりになった。


「いいお父さんデスね。太郎くんに似ていマス」

「似ていますか」

「ええ、もっと言えば桃娘は多くが同じ」


 同じ、という言い方が引っかかったが太郎は続けた。


「どうして会う場所がうちだったんですか?」

「他人の家は気になるのデス。ここにきたから素敵なお父様がいるのだとわかりまシタ。せっかくデスので、ご家族について聞いてもいいデスか?」


「そう言われても、うちには父と僕しかいないので」

「ああ、すみません」


「いえいえ、ぜんぜん。母も五年ほど前まではいましたが、ある日を堺に何処かに行ってしまいました」

「……不思議デス」


「そうですか?」

「ええ、だって桃娘なのデしょう。だとすればMSI精神安定インプラントや処置により、基本的に安定を求めるようになりマス。だから高跳びしたって言うのは不自然で」


「そういうもんなのですか」

「ええ。それに……こういう話になっても、本当に太郎さんは感情の揺れが感じられないデス。それはナニカのような外の人にとって不思議なことなのデス」


 そうだ、と太郎は本題を思い出した。


「ナニカさんの言う通りかも知れないと思いました。感情の揺れが、あるとは思うんですが、上にあるだけっていうか。確かに『絶望』だとか『高跳び』だとか、そういう単語を聞いても全然ピンとこない。ああ、いえ。『面白さってなんなのか』の話なんですけど」

「へぇ。太郎さんなりに答えにたどり着いたってことデスか?」


 ナニカに出された宿題に対する、太郎なりの答え。


「死。なのではないでしょうか」


 ナニカは興味深そうに太郎を覗き込んだ。それでも言葉を発することがなかったので、太郎は続けた。


「僕は『死』がとても遠くにあると理解しています。現代の医療技術では、『制限』がかからない限り百三十プラマイ五歳程度まで生きる。それは当たり前だし、ということはこれから百年以上死ぬことはありません。僕を含め、桃娘はそうじゃないかと思います。いや、どちらかというと、MSI精神安定インプラントを埋め込んだ人に関してはっていう方が正しいかもしれませんが。でも、ナニカさんは理解できてないんじゃないですか」


「理解できてない、というのは?」

「だってそうじゃないと、電車に飛び込む僕に心配なんて思い浮かぶはずがない。それによって何かが起こるだなんてことはないんです。僕は医療パックで修正される以上のことが起きないって知ってる。でもナニカさんはそうじゃないから、僕に尋ねたりしたんでしょ」


「ナニカが理性的じゃないと疑っているわけデスか?」

「というよりも、理性を超えたものがあるんだろうなと。多分、理性の上位に、感情があるんです。だから、理性的に物事を考えても、僕はナニカさんや外の人が面白いと感じるものが作れないんじゃないかと」


 ヒカリのことが頭の中に思い浮かんだ。彼女は太郎よりもずっと感情的で、非合理だ。だからこそ、太郎の物語は彼女に刺さらないのではないのだろうか。


「死を意識しているから、それが脅かされると『錯覚』して不安になったり、絶望したり。あるいは、生を強く感じることがより際立って素晴らしいことに感じるんじゃないでしょうか。これこそが、面白さの中身なんじゃないかと」

「……すごいデス! 理性的に考えるだけで、そんなことを考えるんデスね! 太郎さんはすごいデス!」


 手放しでそう言われ、太郎は少し照れた。


「だから、電車に飛び込む人って言うのはきっと『退屈』しているんだと思いました」


 言うと、かすかに興奮を見せていたナニカの表情が、フッともとに戻った。


「僕、変なこと言いました?」

「そんなことはないデス。続けてください」


「ええと、生を強く感じたいって思ってるって、要するに現状が生きているかどうかわからないっってことかと思ったんです。それは言い換えると『退屈』かなって。以前、電車に飛び込むときはどういう感情かって、ナチュラルの人に聞いてみたんです。そしたら『絶望』だって言ってて……それは少し『退屈』とはニュアンスが違うかなって」

「疑問に思ったのデスね」


「退屈過ぎて絶望したってことなんですかねぇ。ただこの時代、時間をつぶす方法はいくらでもあるからそう簡単に退屈できるものなのかな……」


 ナニカは真剣に太郎の言葉に耳を傾けていた。


「それはそれは難しい問題デスね。よかったら、試してみマスか?」


 あまりにも気楽な表情で紡がれた言葉に、太郎は一瞬何を言っているのか意味がわからなかった。


「試してみるっていいました?」

「ええ」


 試すって、何を? 太郎が何か言うのを待つようにナニカは黙った。しかし、太郎には全くなんのことかわからない。無理やりに言葉を探す。


「それは、退屈できるってことですか」


 例えば監禁でもされて、何もできず放置されるようなことで。


「いいえ、まったく。目と脳は直接つながっており、だからこそ桃娘は目から作られていマス。そして作っている道具はそれデス」


 ナニカが指差したのは太郎のスマホだった。


「ディスプレイの発光はただの光ではない。それは脳に影響する信号で、特定のホルモンを活性化させたり、あるいは不活性にしたりしながらあなたをコントロールしていマス」


 太郎はスマホを手に取った。


「光の話はわかります。いつもヒトハンの前後でやられてるので。でも、スマホは普段普通に使っているだけですよ? 特段なにかがあるわけではないでしょう」

「微弱なものだから、そう思うのデス。桃娘は、頭にMSI精神安定インプラントを埋め込むことで、光の受容高めた人々デス。だから、普段使っているスマホから発せられる特殊な発光程度で受容してしまいマス。太郎さんは中毒なのデス。いいえ、すべての桃娘がそうだといえマス。気がついたら意味もなく画面の見ていることはないデスか?」


 太郎が思い返すと、気がつくと天気予報を見ている自分の姿。しかしいわゆる中毒者のように、それがないと禁断症状が起きたりだとか、そういった状況になっているわけではない。だから別に中毒で見ているわけではなくて、癖で見ているだけのはずだ。


「実は心地よくなっていて、ただただ画面を見るだけで太郎君は報酬を得ているのデス。気づかないうちに」


 すべてを信じるだけの材料はないが、ただナニカが嘘を言っているようにもみえなかった。


「分からないわけではないですが、ではスマホを使わないようにすれば外の人と同じ感覚になるってことですか? それはなかなか……」


 確かに漠然と見てしまうこともあるが、しかし連絡やスケジュールの管理など不可欠な存在なこともまた間違いない。個人的なことばかりでなく行政の手続きなどにも利用するため、完全に切り離すことに現実味を感じなかった。


「いいえ、もっと簡単に」


 言うと、ナニカはグレーの半透明な板を取り出してみせた。


「これは、スマホの一部の発光を遮断するフィルムで、これをつければ徐々に君は桃娘特有のコントロールから外れることになりマス。別に普通にスマホは使えマスし、問題なく生活できマスよ?」

「それは、簡単ですね。でも」


「いいたいことはわかりマス。別に興味は持てないんデスよね?」

「それはまぁ、そうですね。もしコントロール下にあったとしても、それは必要だからそうなっているんだと思うし」


「そういうふうに解釈するようになってしまっているのデス。でも太郎さんはどちらがいいかとは違う基準で動くはずデス。なぜなら、何が面白いかわからないと、納得の行く漫画が描けないのデスから」

「それはまぁ、そうですねぇ」


 ナニカはテーブルの上のフィルムを太郎の方に押し出した。


「まぁいいデス。お守り代わりに。使いたいと思ったときに使えばいいのデスから」


 もらっておく分には問題ないだろうと思い、太郎はそれを受け取った。

 その後、いくつかまったくない関係のない雑談をしてナニカは帰った。

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