調査 SIDE麻生花純③

 さて。調べると言っても……。

 私はまず、途方に暮れた。何をすればいいだろう。

 次に、深呼吸をした。落ち着こう……。

「OK、分かってることと分かっていないことを整理しよう」


 合宿は中止となり、私たちは翌朝早い電車で家へと帰された。

 帰りの電車、まだ眠くてクラクラしている頭で、考えた。

 私は時宗院のシャーロック・ホームズになれるだろうか。

 ううん。シャーロック・ホームズになれなくてもいい。

 私は私の才能を試そうと思ってる。

 いつか、「亡くなった人の声を聞きたい」と思っていた、その夢の力で、悲劇にあった高槻先生の声を、想いを、拾おうとしている。

 吊り革に捕まってボヤボヤしている内に電車が私の最寄り駅に着いた。私は電車から降りると、コンビニに立ち寄ってノートを一冊買った。

 そして、そう、それを家に持ち帰り。


〈時宗院高校夏季合宿事件〉


 ノートにそうタイトルをつけた。真っ白なページを開く。それから冒頭の独り言、というわけ。

「分かってること」

 つぶやきながらメモを取る。

「高槻先生――死亡前の症状: 嘔吐、強直」

 うーん、と記憶の鍋をひっくり返す。そういえば、ユニークな特徴がひとつあった。

「現場の状況: 三重密室」

 さらに書き記す。

「床に水――浸水?」

 まだあったかな……。そういえば。

「床に水――浸水? 排水口が詰まっていた」

 再び、うーん。

 手がかりが、少ない。

 私は少し目線を変えてみることにした。事件に関係なくとも、あの合宿中にあった不思議な……不審な出来事はなかったか思い出してみることにした。

 ――ゴリラってかわ……

「やめろ」

 ――かっこいいぜ。夢があるの……

「やめろ」

 ――わぁーっ!

「やめろ」

 気づくと記憶の中で足刀蹴りをしている自分がいた。どこかで壁にぶつけられたトマトみたいな音がした気がして、あいつが地面に叩きつけられる。駄目だ。あいつが、先崎秀平がイレギュラーすぎて事件前の不審な出来事が思い出せない。何か、何かなかったか……あった気がするのになぁ。

 仕方がないので、頭を切り替える。

 合宿が中止になったことで、やりたかった実験まで中止になってしまった。

 細胞培養実験。

 私はカバンの中から実験用ノートを引っ張り出す。

 ジメチルスルホキシド。

 別名、DMSO。

 やっと手に入れたのに。

 細胞片。

 染色液。

 シャーレ。

 顕微鏡。

 ノートに事細かに書かれた研究計画を見て、ため息をつく。

 あんな事件さえなければ、今頃はこの実験に着手していたのだと思うと悲しくなる。せっかくみんなも、興味深そうに見ていたのに……。

 ふと頭に浮かんだのは、私がシャワールームで髪を乾かしている時、後ろに立った高松琴子だった。あられもない姿で突っ立っていて、その後ろでは詰まった排水口が処理しきれない水を飲み込もうと……?

 あれ? 

 それより前に何かなかった? 

 研修室Aで何か……。

 全身の毛穴がゾワゾワと泡立つ。

 何だろう。この感じ。

 頭の中に糸が垂れている。それを辿っていくと……? 

 あ、ああ……。

 声が、出そうになる。

 そして出る。

「DMSO!」

 私は大慌てで〈時宗院高校夏季合宿事件〉のノートに飛びつく。そして、記す。

「DMSOが盗まれた疑惑! ――ほんのちょっぴりだけど!」

 肝試しの前、実験の備品を確認してた時に気づいたことだった。

 DMSOが〇・数グラム足らない!


 ただ、しかし。

 DMSO自体の毒性はすごく低い。ないわけではないし決して安全なものではないのだが、殺人に使えるかと言われると首を傾げざるを得ない。しかも仮にDMSOを使ったとして、どこで高槻先生に盛ったというのだろう?

 現場は密室だった……というのは、理解できる。しかも先崎くんが言うには、セミナーハウス、シャワー室、シャワー個室の三重密室。毒を盛る機会がない。

 いや、逆に「毒だからこそ」密室になり得るのか……? 

 高槻先生が三重密室の中に入る直前に毒を盛っておいて、時間差で発現するようにすれば……筋は通る。

 となるとやはり、どんな毒を盛ったか、だ。

 DMSOで殺そうと思ったら相当な量が必要になる。事件の前に高槻先生が大量に何かを摂取したタイミング……食堂? ご飯に混ぜて食べさせる……にしたって、そんな量のDMSO飲ませることなんか……一応、DMSOの致死量を調べてみるか。

 検索する。すぐに環境省のページに辿り着いた。ラットでの経口致死量17,400mg/kg。このmg/kgとは、体重1kgあたりの薬品のmg数だ。仮に高槻先生が身長170cmだとして、同身長の男性の平均体重は63.6kg、まぁざっくり64kgとして、先程の致死量に当てはまると、1,113,600mg……1.113kg。多い。一度の食事で一キロも液体を摂取させるなんて不可能だ。そもそも盗まれたDMSOだってごく少量、1mg足らず。帳尻が合わないし、学校が手に入れたDMSOだって100ml単位が一本だ。一キロは無理がある。やっぱりジメチルスルホキシドで殺害したとは考えにくい。

 ただ、高槻先生の死とDMSOの(少量)盗難は無関係ではない気がする。いや、盗難としたのが間違いなのか? 実はあのDMSOには誰も触れていなくて、ただ単に私の管理不足で数ミリ程度蒸発しただけなのか? 

 現実問題としてはその線が濃い気がする。私の注意不足。でも私、ちゃんと薬品管理を行なったと思うんだけどな。どんどん自分に自信がなくなる。

 ふと、合宿に持ち込んだ鞄からひょっこり顔を覗かせている、『アメリカのシャーロック・ホームズ』が目に止まる。

 アメリカのシャーロック・ホームズこと、オスカー・ハインリッヒはやや男尊女卑的な思想のある人だ。女性がふしだらな存在だと思っている人だ。でもそれは時代がそういう価値観を持たせたからであって、彼の仕事そのものとはあまり関係がない。私は彼の仕事が好きだった。確かに人間性はイマイチだが、物事をつぶさに調べる、丁寧な仕事ぶりは本当に人として尊敬できる。毎日自分の尿を採って検査にかけ、数値を記録するような記録魔なところは確かに気持ち悪いけど、でも日常に発現するほどの丁寧思考は素晴らしいと思う。私も彼みたいになりたい。採尿はしないけど。

 さて、考える。

 記録をとってみてはどうだろう。

 私の中のオスカーがそう提案してくる。

 記録。

 私はペンを取った。

「ジメチルスルホキシド――1g足らずの減少」

 そう、記した。まずはここからだ。ここから、考えるんだ。


 それから少し休んで、ブランチなんて優雅な食事をして、足りない睡眠を補うために昼寝をすると、私はしゃっきりした頭で再び机に向かうことにした。何か冷たいもの……アイスが欲しかったが、冷蔵庫になかったので代わりによく冷えていたきゅうりを手にして部屋に行った。帰ってきてから着替えていないので制服のまま。きゅうりをかじってペンを動かす。

「ジメチルスルホキシド致死量――17,400mg/kg。仮に高槻先生に摂取させたとしたら1.113kg」

「学校が購入したDMSO――100ml」

「事件発覚――昨日午後九時十五分。女子の入浴時間(八時〜九時)、男子の入浴時間(九時〜十時)」

「死亡推定時刻――詳しくは不明。だが男子の入浴時間になってすぐ先生がシャワー室に入ったのだとすれば、九時〜九時十分あたりが妥当か」

 きゅうりを噛む。

「毒物の曝露――九時頃に最初の症状が出たのだとすると、毒に曝露された時刻もその時刻に近いことが想定される。仮に日本国内で比較的簡易的に入手可能な(野生のフグから採取するとする)テトロドトキシンだとして、最短二十分で症状が出るとすれば午後八時四十分頃には曝露されていたことが想像できる」

 時宗院高校は海が近い。フグ毒は入手しやすくかつ利用しやすい毒物だろう。薬品を購入したのと違って入手経路も辿られないし、証拠という点では非常にクリーンな毒物だ。

 ただ、実際にテトロドトキシンが使われた可能性について検討すると、その確率は低いような気はする。

 というのも、テトロドトキシンの初期症状のひとつに「嘔吐」は確かにあるのだが、続く症状は「筋肉の弛緩」である。高槻先生の身に起きていた「筋肉の強直」ではない。生体の反応から見てもテトロドトキシンである可能性は低い。

 なんで私がこんなに毒物に詳しいかというと、『アメリカのシャーロック・ホームズ』に憧れを持つということは、ある程度推理モノに対して肯定的な反応を持つということで、つまりは日頃からそういう本ばかり読んでいるというわけで、要するに好きなのである。振り返って私の部屋の本棚を見ると、『毒と毒殺の歴史』『毒と薬』などなど、『アメリカのシャーロック・ホームズ』のオスカー・ハインリッヒが化学を得意としていたように、私も化学物質を用いた殺人について興味関心を持っていたのである。

 毒で殺したのは間違いないか……?

 私は自問する。高槻先生の命を奪ったのは毒か? 他の手段、例えば絞殺なんかの可能性はないか? 

 ――事件と事故の両方を視野に入れて……。

 絞殺や撲殺なら明らかに「他殺」つまり「事件」だ。「事故」が視野に入っているということは明確な殺傷痕が体に残っていなかったことになる。やっぱり毒。そう、あれが殺人なら……毒。

 私は考える。

 一体どんな物質が、先生の命を奪ったのだろう?

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