四、聴取と調査

聴取 SIDE麻生花純①

 事件が発覚してすぐ。

 私たち化学部、生物部、園芸部の面々は警察に呼ばれて事情聴取となった。私は三番目に、つまり生物部部長、園芸部部長の後、化学部の部長として呼ばれた。島田先生は大人枠ということで別の警官が聴取をした。私は何を訊かれるのだろうと思いながらあの現場のことを思い出した。

 高槻先生の死体。

 周りに吐瀉物が浮かんでいた。吐いたんだ。ということは、その前段階として、吐き気に襲われた。

 指が虚空を掴んでいた。つまり、体が硬直していたんだ。死後硬直にしては早い気がする。おそらく死ぬ前の現象。つまり死ぬ直前に襲われた症状として、吐き気の他に、体の硬直があったということだ。

 私は『アメリカのシャーロック・ホームズ』を思い出していた。オスカーもこんな風に犯罪現場を見たのだろうか。オスカーもこんな風に考えたのだろうか。オスカーもこんな風に謎に立ち向かったのだろうか。オスカーは、オスカーも……。

 憧れが近づいている。

 人の死に対して不謹慎なのは分かってる。でも、私の夢のひとつに、「もう話せなくなった人、つまり死んだ人の声を聴く」というものがある。科学犯罪捜査はその耳となる分野だ。私は知恵を絞っていた。これから警官と話す。何か、何か手掛かりになるものを渡さないと……。

 あと、他に、分かることは、ないか……。

 高槻先生は裸だった。シャワーを浴びた、と考えるのが妥当だが、浴びたように見せかけたのだと考えることもできる。しかしどちらにしてもあの状況下から判定する手立てはない。身体を隅々まで見れば、犯人が死体から服を無理やり剥がした時の爪の跡や、脱衣するには不自然な痕跡なんかを見つけられるかもしれないが、私が置かれたあの状況からじゃ何も分からない。分からないことは検討しても仕方ない。

 私は自分の聴取の時間を待ってる間もずっと頭を働かせていた。自然死? そういえば体調が悪いような話は聞いていた。急な心臓発作とか? 脳溢血とか、そういうのも死因としては考えられる。

 でも、もし、これが、犯罪だったら……。

 くだらない話だった。私が考えるべき話でもなかったし、検討する意味のない仮説だった。でも、ただ……。

 私の中に芽生えた、あの現場での違和感。

 根拠はない。ただの勘だ。だが本能が告げていた。

 あれは、殺人だと……。


「肝試しから帰ってきたら床に水が」

 多分、おまわりさんとしてもこの話は何回も聞いたものなのだろう。

 聴取を担当していた女性の警官はいくらかうんざりしたような顔をして私の話を聞いていた。どういうタイプの人間か、私は少し観察した……。

 多分、あまり考えることが得意じゃない人だ。さっきから私の話のメモを取るフリをして、ペンのお尻でこめかみを掻くことばかりしている。あるいはメモを取らなくても頭の中で整理ができる人間か……でもそんな人は人口の上位五パーセントくらいにまとまるだろう。今目の前にいるこの人がそうである確率は低い。

 空き教室。本校舎一階。おそらくかつて社会科準備室だった部屋。

 机が四つ、向かい合って並べられていて、椅子が三つ、これも同じように向かい合って、二対一の関係で並べられていた。二つの椅子にはおまわりさんと、島田先生。それに向かい合うひとつの椅子に、私。

「浸水に気付いたのは男の子だって聞いてるけど?」

 私は記憶を辿る。確かに、あのナンパ男が最初に気がついた。

「ええ。えーっと、彼の名前は……」

 頭の中をぐるぐる探す。

「なんとか秀平……せ……せん……先崎秀平!」

「先崎秀平くんね」

 警官が、今度こそメモを取る。

「何部? この合宿にいた子?」

「園芸部だったと思います。この合宿で一緒になる部活です」

 私はため息をついた。

「あの人、肝試しでいきなり脅かしてきたから、私キツイ蹴りを入れちゃって。彼の体、怪我があるかもしれませんが気にしないでください」

 すると警官がふふっと笑った。

「蹴り?」

「ええ」

「空手か、テコンドーでも?」

「空手です」 

 はぁ。と、警察官が笑う。多分同じく空手をやっている……のかな? 

 島田先生は疲れているのか黙っていた。静かに私を見ていた。

「現場を見て何か気になったことは?」

 来た。この質問を待っていた。

「高槻先生ですが、吐瀉物が周りに浮かんでいました。多分死ぬ前の症状として吐き気に襲われたんだと思います。他にも、指が硬直していたので、死ぬ直前に体の硬直があったのかな、と。わずかな時間で見ただけですから、その程度のことしか」

 女性警官がぽかん、とする。

「よく見てるね。他に気になったことは?」

「うーん」と、私は唸る。

 少しの間考えて、あっ、と、ひとつ思い浮かぶ。

「排水口……」

「排水口?」

「ええ、排水口が詰まっていたんです。足首まで水浸し……私たちがシャワーを浴びた時からああだった」

「あなたたちシャワーを浴びたのね」

「ええ。肝試しに行く前に。女子の入浴時間と肝試しの時間とがかぶっていたので、急ぎ足でしたが。あの時も排水口は詰まっていました。誰かが詰まりを解消してくれたかと思ったけど、誰もやらなかったんですね」

「……そのことが事件とどう関係が?」

「いえ、分からないのですが」

 私はぼんやりと、事件現場を思い浮かべる。

「何か意味があるような気がします」

 すると私の言葉に何か感じるところがあったのだろうか、女性の警官はため息をつくと、こう告げた。

「本件は、事故と事件の両方を視野に入れて捜査をしています。これが意味するところは分かりますか?」

 分かる。これは殺人の可能性もあるということだ。

 しかし女性警官はそのことを明言しない。彼女は告げる。

「お疲れ様でした。あなたの聴取は終わりです」

 私は椅子から立ち上がる。

 それからゆっくり、部屋を出た。

 夏の夜。蒸し暑い夜だった。


 合宿は中止になった。本来ならもう二日あるはずだったのだが、翌朝、早朝の電車で各自帰宅という運びになった。とりあえず今夜は遅いから合宿所で就寝。不安なら本校舎の一室を確保するという話になったが、事情聴取で疲れ切った私たちは本校舎まで布団を運ぶのを嫌がった。仕方なく、セミナーハウス四階の宿泊所で一晩過ごすことになる。女子部屋。薄暗い部屋の中、誰かが言った。

「幽霊とか、出ないかな」

「や、やめてよ」

 私は神経質に反応する。とは言いつつ、いずれ科学犯罪捜査をする人間が人の死を怖がっているようじゃ務まらない、なんて声も自分の中ではしていた。私はひと呼吸つくと化学部女子に告げる。

「明日も早いのでもう寝ましょう。三十分後に消灯します」

 それに倣って生物部ののんちゃんも、小さく一言。

「同様です。全員三十分以内に寝る準備をするように」

「短いな」

 誰かがつぶやいた。分かる。女子って寝る前の儀式が多い。でも早く寝なくちゃ。この悪夢みたいな現実から逃れるためにも。

 全員が手早く寝る支度をする。私も同様に。いつも寝る前に読んでいた『アメリカのシャーロック・ホームズ』は枕元で沈黙していた。全員が布団に入ったことを確認すると、私は壁にあったスイッチを切った。すぐさま布団の中に入り、足先まですっぽり覆われていることを確認してから、夕方からずっとつけっぱなしだった眼鏡を枕元に置く。目を瞑る。眠気が襲ってくる……。

 はずだった。


 眠れなかった。刺激が強すぎた、というのもあるかもしれない。頭の中ではあの、『アメリカのシャーロック・ホームズ』のページがぱらぱらとめくれていた。死の現場。その解明。私が持っている知識でどうにかならないだろうか。それは邪悪な好奇心だった。きっと、歴史のマッドサイエンティストもこうやって暗黒面に吸い込まれたんだな、と思うような。だが私は試したかった。自分の可能性を。知識を。経験を。いや、経験なんてものはないに等しかったが、だが読書だって立派な経験だ。知識だ。可能性だ。私は小さく呼吸をすると、耳を澄ませて寝息を探り、何人かが既に眠りの淵に沈んでいることを確認した。それから、意を決した。

 トイレに行くだけ。それだけ。

 ハッキリ言おう。

 夜のセミナーハウスをうろつくのは、本当に怖かった。ましてや人が死んだ後だ。ちょっとしたお化け屋敷、いや、遊園地のアトラクションなんかかわいく思えるくらいの生きた恐怖だった。私はそれに立ち向かおうとしていた。そうして布団から出た私は、ゆっくりと、誰も起こさないように立ち上がった。枕元に置いていた、『アメリカのシャーロック・ホームズ』を手に取る。眼鏡は……置きっぱなしでいいや。私は女子部屋を出た。

 廊下は暗かったが、完全に電気を消されたわけではなかった。

 エントランスホールの照明がつけっぱなしになっているおかげで、吹き抜けを通じて四階の廊下も明るかった。私は足音に気を配りながら廊下を歩いた。そして、階段を下りた。

 セミナーハウス、二階。

 シャワー室があるフロア。

 ゆっくり下りていく。ここは玄関フロアでもあるので、エントランスホールの明かりが照らしている。つまり明るい。私は目がちかちかするような薄明りの中、ゆっくりシャワー室を目指した。そうして、気づいた。

 誰かいる……。

 シャワー室に行くには、エントランスホールから伸びている廊下の曲がり角をひとつ、左折しないといけない。ただその廊下の曲がり角の向こうから、明かりが漏れていた。懐中電灯みたいな明かりだ。その明かりはふらふらと、頼りなく揺れては時折静止していた。私の胸は凍った。一瞬、迷った。

 逃げるべきだろうか。

 しかしそうやって逡巡している内に、廊下の向こうの明かりは揺れながらこちらに近づいてきた。逃げなきゃ! でも足が動かなかった。心は「今すぐ逃げろ!」と言っているのに体が追い付いていなかった。「動かない!」脚の筋肉がそう言っている。そうして躊躇っている内に、その明かりは角を曲がってきた。私は覚悟を決めた。

「だ、だれ……」

「誰だ」

 低い声だった。明かりの向こうだから顔が分からない。でも、その影はすぐさま明かりを消した。それからつぶやいた。

「メガネ女?」

 こんな呼び方をする男は一人しかいない。

「先崎くん?」

 曲がり角の向こうからやってきた人物。

 それは、あの時水漏れの異変に気付いた、先崎秀平くんだった。

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