夏合宿 SIDE麻生花純②

 うおおお、と、突然聞こえてきた絶叫に私はビビり倒した。ただでさえ肝試しの話の最中だったのだ。心臓を吐きそうだった。

「先崎くんだね」

「せ、せん……?」

「うちの男子。また何かやらかしたんじゃないかな……やんちゃな子だから」

 やんちゃだからっていきなり叫んでいいもんじゃないでしょ……。

「多分、女の子と『いいなりじゃんけん』で負けたんじゃないかな」

「な、なにそれ……」

「じゃんけんで負けた方が勝った方の言うことなんでも聞くの」

 なっ、なんていう……! 

 すると私の表情から察したのか、松下さんはかわいらしく笑った。

「大丈夫。先崎くんじゃんけんめちゃくちゃ弱いし、勝ってもビビって変なこと言ってこない。あの人おかしくてさ、くじ運とかもすっごい悪いの」

「はぁ」

 だからって女の子相手に意味わかんない勝負ふっかけちゃだめでしょ。

 うーん、苦手なタイプ……。

 先崎くん、だっけ? 顔は知らないけど、名前だけ覚えておこう……。


 明日の実験の準備をするべく、私は三部活会議の後、昼間に実験を行った研修室Aに向かった。備品の類を全部ここに置いて鍵をかけてある。私はスカートのポケットから鍵を取り出すと解錠し、中に入った。暗い床に、私が落とした光が四角く刻まれた。

 ホワイトボードの前に行く。教壇の前にある大きなテーブルの下に、実験道具一式をしまってあるのだ。室内照明の、ホワイトボード前のところだけをつけて備品を確認する。染料、シャーレ、顕微鏡、スケール、それから今日行った実験の検体細胞をしまってある冷蔵庫の鍵、それからDMSOの……。

「あれ?」

 私はDMSOの入った瓶を手に取り、目線の高さに持ってきた。気のせいだろうか、少し減っている気がする。

 試しにスケールに乗せてみる。数値。〇・数グラム、軽い。

「えっ」

 私は声を出した。もしかして、盗まれた? でもこんな少量? 

 私が実験終わりに測り間違えたのかもしれない……。

 いや、でも、少量とはいえ……。

 しかし盗むとしたら瓶ごといくよな?

 色々な考えが頭を巡った。そして私は、今スケールで測ったこの重さを記録しておいて、また減ったら先生に相談することにした。

 多分、測り間違いだよね……。

 そんな希望的観測をしながら研修室を後にした。


 肝試しに行く前にシャワー浴びることになった。この夏は記録的猛暑、そしてセミナーハウス内のエアコンはどうにも弱かったこともあり、みんな汗だくだった。あまりの不快さにシャワーを……となるのも頷けた。私も浴びた。

 セミナーハウスにシャワー室はひとつしかなく、しかも男女兼用だった。セキュリティの問題上、女子が入ってから男子が入る。この日、暑さに負けた私たちは、シャワータイムを一時間前にずらした。夜九時から女子、十時から男子としていたスケジュールを、八時から女子、九時から男子とした。肝試しとかぶってしまったが、肝試しの時間をほんの少し遅らせることで解決した。スタート時間までに、私たちは入浴を済ませなければならない。何せ肝試しには先生の引率の元みんなでぞろぞろと行くのだから。

 シャワー室の脱衣所は当然ながら共用。私は、部活仲間の前で肌を晒すことに少し抵抗を覚えたが、しかしそんなことを言っているのが馬鹿らしいくらい、汗だくだった。私は素直にシャワーを浴びた。

 シャワー室の中は、ドアを開けてすぐ左側に大きな鏡があり、洗面台が設置されている。正面にはちょっとした仕切りがあり脱衣所となっている。右手側に段差があり、タイルの廊下へと続いている。その廊下にはシャワーを浴びる個室が左右合わせて十ブース。分かりやすいイメージとしてはちょっと大きめのトイレの個室が並んでいると思えばいい。

 タオルで身を隠した私は、左右並んだ個室のうち右側の列の真ん中に入った。ブースに入ってすぐ、振り返って閂をかける。金属のスライドをずらすだけの、よくトイレにもあるような造りのものだ。

 シャワーのスピンドルを握って、お湯を流す。ちょっと冷たくて、私は水泳の授業を思い出した。だがすぐ熱々のお湯に変わっていき、私のそんな連想も排水口へと流れて消えた。

 素早く全身を洗った私は誰よりも早くブースを出て誰よりも早くジャージに着替えた。うちの高校のジャージは「ちょっとオシャレ」と県内でも有名で、割と支持する人間が多い。特に私たちの学年色である赤のデザインは秀逸らしい。そんなジャージに私は袖を通す。

 持ち込んだドライヤーで髪を乾かしていると、同じ化学部で同期の高松琴子が裸で私の後ろに立った。私はすぐに告げた。

「服を着なさい」

「はーい」

 ベリーショートの琴子がタオルで顔を拭きながら脱衣所へと向かう。彼女、素っ気なくて気が強くて、多分女子といるのより男子といる方が気が楽なタイプの女の子なのだろう。だから、化学部に? 

「花純さー、シャンプー何使ってる?」

 と、タオルで体を拭いている琴子が訊ねてきたので私は答える。

「プレミオール」

「うっそ。高いやつじゃん」

「お母さんが使ってるやつ私も使ってるの。でもシャンプーがどうしたの?」

「いや、ほら、排水口詰まってるから」

 と、琴子の言うことを確かめるべく振り返った。タイル床の通路の真ん中。小さな排水口があるのだが、そこには大きな水たまりができていた。シャワーやボディソープの泡が滞留していて、何だか汚い。

「誰か変なの使ったのかなーって」

「シャンプーが詰まるなんてことある?」

「いや、ああいうのって大抵石鹸カスが詰まるもんじゃん? カスが出やすいシャンプーとかもあんのかなって」

「うーん、どうなんだろ」

 と、髪の毛を乾かし終えた私は立ち上がった。

「先に女子部屋行っとくね」

「はーい。すぐ行くー」

「私出た後鍵かけといて」

 シャワー室入り口のドアには鍵がある。まぁ、当然っちゃ当然。シャワー利用時はこの鍵を内側からかけることになっている。利用者が一人でも、私たちみたいな団体でもそれは一緒。つまり、中に利用者がいる時他の人は入れないことになる。ちょっと面倒だが、防犯意識上、仕方なく。

「OK」

 そんな会話をして私たちは分かれた。誰もいない女子部屋に入ってすぐ。電気をつけて影を追い払ったのだが、しんとした部屋の中が怖くて、私は廊下に出てすいすいとスマホをいじった。しばらくして、化学部の数少ない女子、田中さんと瀧川さんが来たので、私は「お疲れ様」と短く挨拶してから部屋の中に入った。田中さんと瀧川さんは、私のひとつ下、一年生。彼女たちはくすくす笑って肩を寄せると、男子の話をこそこそしていた。あら、お目当ての人がいるのかな? と、私はゆかりのことを思い出した。


「花純は気になる男子、いないの?」


 いない。

 まだ、恋が何かも分からない。

 縁の感じを見ていると、それは何もかもがどうでもよくなるようなことで、解像度が上がることらしいけど。

 何もかもどうでもよくなんてならないよ。私は何もかも知りたい。この世の全てを解き明かしたい。そんな野望だけは、ずっと、小学生の頃からあった。そこに来て、この間面白い本に出会った。

『アメリカのシャーロック・ホームズ』

 シャーロック・ホームズってイギリスだよね? と思って読んだ本に、私は夢中になった。

 一九二〇年のアメリカ。未だ直感や状況証拠でのみ行われていた犯罪捜査に、初めて科学を応用した人物がいた。彼の名はオスカー・ハインリッヒ。アメリカにCSI(科学犯罪捜査)を誕生させるきっかけとなった男。そのノンフィクションだ。

 私は彼の手続に惚れた。細かな手がかりから理論を組み立て、推定し、仮説を検討し、実証する。目の前の現場から犯罪発生時といった「過去」を再現する。残された手がかりから目に見えない誰かを特定する。犯罪現場という小さな宇宙に法則性を見出し、答えを明らかにする。死んだ人の声を聴く。夢中になった。私もオスカーさんのようなことをしてみたいと思った。

 それに、オスカーさんのやっていることは科学知識全般が必要になる仕事だった。生物だけ。化学だけ。物理だけ。それだけをやっていればいいわけじゃない。いや、もちろんオスカーさんは化学の専門家ではあったが、弾道追跡や血痕分析といった物理や、遺体に湧いた蛆虫の成長度から死亡推定時刻を割り出すなど生物分野にも明るく、正に「科学」を体現しているように見えた。私の、「博士になりたい」と思っていた小さい頃の私の、ある意味での理想形だった。

 さて、この合宿にも。

 私は『アメリカのシャーロック・ホームズ』を持ち込んでいた。寝る前にお気に入りの箇所を読むのだ。付箋もいろんなところに貼っている。あちこちからカラフルな尻尾の飛び出た、ちょっとした生き物みたいになっている本の表紙を撫でて、感じる。

 幸せ。

 もしかしたら、これが恋なのかもしれない。

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