夏合宿 SIDE麻生花純①
「ジメチルスルホキシド、通称DMSOは、毒素自体は低いのですが完全に無視できるものではありません。低濃度でも細胞毒性はあります。また、ジメチルスルホキシドに他の物質が混ざっている場合、それが皮膚に付着するとジメチルスルホキシドと一緒にその物質が経皮で体内に入る可能性があります。皆さん扱いには気をつけて」
化学部の夏合宿。私は、セミナーハウスの一室で部員たちに説明する。
「このジメチルスルホキシドに染料を混ぜ、細胞に浸すことで着色します。ジメチルスルホキシドは水溶性が高く、すぐ水に溶けてなくなってしまうので注意が必要です」
私は説明しながらシャーレの中に染料入りジメチルスルホキシドを垂らした。細胞への透過性が高い薬品が、混ぜられた染料を細胞壁の中へと導く。
「染料にはアゾ染料を使っています」
私の背後のスクリーンには、私が覗いている顕微鏡の中の映像が投影されている。
「細胞が染まりました」
映像を見て、部員が小さく「おお」と声を上げる。
「培養実験開始です」
「いやー、いいもの見たね」
食堂で、隣の席に座っていた生物部部長の加佐見典代、通称のんちゃんが伸びをする。
「実験、うまくいくといいなぁ」
「ね」
私は夏合宿中食堂で出る特別に安いきつねうどんを食べながら頷く。と、向かいに座っていた島田先生が、同じく特別に安いたぬきうどんを啜りながら笑った。
「今日の感じだと、良さそうじゃないか」
先生もさっきの実験に参加して、様子を見ていた。
「この分なら成功かもな」
「まだ分からないです。細胞の培養に成功するか分からないし」
「ま、失敗したら失敗したでまたやり直せばいい」
合宿は三日あるしな。
そう、先生はひと息つく。
「次成功させればいいさ」
なんてのんびりしていたところに、ぞろぞろと生徒の集団が入ってきた。先頭に、かわいい女の子。松下美希さんかな……ということは、園芸部。
「島田先生」
と、生徒の後からごほごほと咳をしながらやってきたのは、生物部と園芸部の顧問を兼任している高槻先生だった。島田先生がうどんの器から顔を上げて訊ねる。
「夏風邪ですか」
高槻先生が頭を掻きながら頷いた。
「ええ、すっかり」
「無理せず。合宿担当なら僕が生物部と園芸部の分も受け持ちます」
しかし先生は笑った。
「今日の肝試し終わってから様子を見ます。熱は今のところないのですが」
「高槻先生、無理せず」
のんちゃんが心配そうな顔をする。
「健康第一で」
「ありがとう、加佐見」
先生は若手らしい、溌剌とした感じを……出そうとしながら微笑む。
「健康管理、しっかりしないとな」
それから料理の注文をするべくその場を去った高槻先生。その背中を見て、島田先生がつぶやいた。
「熱心なんだが、体が弱いみたいでな」
ずずっ、とうどんを啜る島田先生。
「無理はしてほしくないんだが」
「心配ですね」と、私は同調した。
「今夜、何事もないといいのですけれど」
この心配が、杞憂に終わればよかったのに。
昼食後の午後の時間は二部活合同のレクリエーションタイムとした。化学部と生物部の親交を深めるべく、みんなでワードウルフをして盛り上がる。しかしこの席にも高槻先生はいなかった。聞くところによると保健室に行っていたらしい。
レクリエーションタイムの後、私とのんちゃんは連れ立って保健室へと向かった。ドアをノックして中に入ると、養護教諭の遊佐
「くーみん先生。高槻先生いますか?」
のんちゃんが訊ねる。若い女性の養護教諭はぽかんとした顔を見せてから、「いるけど静かに。今休んでるから」とつぶやいた。私ものんちゃんも息を潜めた。
「高槻先生は早退した方がいいかもだね」
くーみん先生がベッドの方を見て困った顔をする。
「喉もすっかりやられてるし」
「うーん、そうしてほしいのは山々なのですが……」
と、のんちゃんが困った声を出した。
「生物部の部室の鍵は高槻先生がいないと持ち出し不可で」
「あら、どうして?」
くーみん先生が首を傾げる。私は口を挟んだ。
「以前に盗難事件が。盗まれたもの的に、内部犯かなって話が、ね」
「あらら」先生がまたぽかんとする。
「それは大変ね」
「それで生物部室の鍵を持ち出す時は履歴を残すべく顧問の先生のところのノートに記名することになったんです。だから先生がいない間に作業するのが難しくて……実験に必要な細胞片を冷蔵庫からクーラーボックスに移すのに少し時間が要りますね。今日はいてもらわないとしんどいかもです」
「あら、じゃあ、私が代わりにその役を……」
「ちょっと扱いが難しい材料なので、できれば高槻先生に見てもらいたいです」
「うーん……」
と、言いかけたところで、不意にベッドの方から声がした。
「公美子先生、俺、大丈夫です」
高槻先生の声だった。カーテンがさっと開けられる。
「そろそろ、合宿に戻るかな」
少し顔色がよくなった高槻先生がいた。彼はベッドから降りると上履き代わりのスリッパを履いた。
「休ませていただきました。どうもありがとうございました」
「いえ……」
くーみん先生が心配そうな顔をする。それから、意を決したように口を開いた。
「私、今日の退勤時に先生にお薬持っていきますね」
高槻先生が顔の前で手を振る。
「いや、それには……」
しかし遊佐先生がそれを言わせなかった。
「市販の咳止めと痛み止め程度ですが。ないよりマシです」
「先生、もらっておいた方がいいんじゃないですか」
私が進言すると、先生は少し黙ってから、「では、お願いします」と頭を下げた。くーみん先生がいえいえ、と笑った。
「合宿監督、大変ですね」
今度は高槻先生が笑った。
「ええ。でもいい経験です」
明るい人だな、と思った。こんな先生に顧問をしてもらえば、部活としてもいい雰囲気だろう。
レクリエーションタイムの後の夕食。
肝試しを共にする園芸部と生物部と、私たち化学部の部長が集まって話をした。化学部部長の私としては、肝試しの参加は不本意だった。そもそも私、ホラーとかドッキリ系は苦手で、心臓がミジンコレベルなのでどうにかこの肝試しとかいうイベントだけは……。
「化学部男子多いから肝試し参加してほしいー」
ノリノリの松下さん園芸部長。え、いやいや……。
「わかるー。怖い時頼りになる男子いいよね!」
ちょ、ちょっとのんちゃんまで……。
「夏合宿で芽生える恋。いいかも!」
よくなーい!
「せ、せめて二人一組にしましょう」
それが私にできる最大限の抵抗だった。こうすれば男女のコンビも生まれて、色恋沙汰に敏感なのんちゃんと松下美希ちゃんの二人もトキメキを持つに違いないし、私の恐怖心も(微々たるものだが)和らぐ。波風立てずに要望を通す。最悪、私だってのんちゃんと二人なら肝試しもなんとか乗り切れそうな気がするのだ。……気がするだけかもしれないけど。っていうか女子同士でペア組んで平気な流れなのかな。話の雰囲気的に男子と組めみたいな感じあるけど。いや、よく知らない男子の前で私の醜態を晒すわけには……。
「そういえば」
園芸部部長の松下さんがニヤっと笑う。この子こんな笑い方するんだ……。
「学校裏の林道って、出るんでしょ?」
「で、出るとは?」
よせばいいのに、私は訊ねる。
「戦争で死んだ憲兵の幽霊。なんでも、いきなり怒号が飛んでくるみたいよ」
「え、あんな暗い道で?」
学校裏手の林道は、そもそも木が伸ばし放題枝を伸ばしているし、崖の下にあることもあり昼間でも暗い。いわんや夜なんて……。
「あそこで肝試ししよ」
松下さん、悪魔の微笑み。
「えっ、いやいやいやいや! あんな暗いところじゃ危ないよー。生徒の安全第一……」
「平坦な道だし平気だよ。一直線だし。しかも呪われるとかじゃなくて、急に怒鳴られるだけだよ? 大丈夫大丈夫」
いやいやいやいや。あんな暗いところで大声出されるだけで十分怖い。心臓止まってもおかしくない。それに真っ直ぐ進むだけというのも怖い。逃げ道が後ろしかないし、多分後ろからは何かが来ているような気配もするだろうし……。
「二人一組ならいいでしょ。お互いがお互いの安全を守る」
そ、それなら、あるいは……などと思っていたところにのんちゃんが追い打ちをかける。
「置いてかれたら悲惨だねー」
「おおお、置いてかないで!」
のんちゃんが笑う。
「まだ始まってもないのに大袈裟な……」
と、言いかけた時だった。
絶叫。
それも、男の。
思わず隣にいた松下さんに抱きつく。怖。何今の?
「あー」
私に抱きつかれた松下さんが笑う。
「先崎くんだね」
「せ、せん……?」
「うちの男子。また何かやらかしたんじゃないかな……やんちゃな子だから」
や、やんちゃって……。
しかし思えばこの時、私は紹介してもらえばよかったのだ。
あのとんでもない、不良男子のことを。
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