あさきゆめみじ
「どうぞ。お茶請けを用意していなくて、ごめんなさいね。」
「いや、その……こちらこそ急に押しかけてごめんなさい。」
澪は、机を挟んで正面に座る紡へと湯呑みを差し出した。
紡が招かれたのは歓楽街で働く婦女を対象に格安で貸し出される部屋だったが、踏み入れてみると家財も簡単な物ばかりで、随分と質素な生活をしていることが見て取れる。
紡は贅沢な生活を至上と考えているわけではない。
それでも、この部屋が最低限の生活を保証する役目を負っているのに過ぎない、あまりに侘しい物であると感じた。
「……聞きにくい事ですが、お金に困っているのですか?」
「いえ、そんな事はないわ。頂いたお賃金は全て貯めておいているのよ。……寂しい部屋だと思った?」
「正直なところ、そう思いました。」
紡が頷くと、澪はくすくすと小さく笑った。
「本当は、直ぐに出て行くつもりだったから。出ていけると思っていたから……できる限り身軽であった方が、良いと考えていたの。」
「今は、それが出来ないと?」
「ええ。探し人がこんなにも長く見つからないとは思わなかったから。」
紡は、澪の言った『探し人』という言葉に目を瞬かせる。
「五年前、家を出たのはその探し人が理由ですか?」
「そうよ……どうせ母様に言っても分かってもらえないだろうから、黙って出て行く事になったけれど。」
「……皆、心配しましたよ。」
「嘘よ、紡ちゃん。気を遣わなくて良いんだから。」
目を細めて紡を見つめる澪。
「私は母様ににとっては、血も繋がらない穀潰しの腫れ物。紡ちゃんにとっては、怖い怖いひとでなしだもの。それから、繭子ちゃんだって、きっと邪魔な女が消えてせいせいしているでしょう。」
「……。」
実のところ、澪が居なくなった後……彼女の行方の捜索などはされなかった。
彼女の失踪は当然のように本人の意思による家出として片付けられ、紡の母である朝夕縹が澪について言及することは殆どなかったのだ。
……そして何より紡自身が、澪が家に戻らなくなった事に少なからず安堵を覚えていたのだから、何の言葉も返すことができなかったのだ。
「聞かせてください。俺は……姉さんに何か、恨まれるような事をしたのでしょうか。」
「いいえ。あなたは何も悪くない。」
過去の蟠りに言及する紡に、澪ははっきりとした口調でそう答えた。
「……紡ちゃん、あの頃は酷い事をしてごめんなさい。ずっと、謝らなければいけないと思っていたの。」
澪はそう言うや否や指を膝の前につくと、深々と頭を下げる。
「許してくださいとは言わないわ。けれど、もうあなたの事を怖がらせたりはしないと約束します。」
「ちょっと、やめて下さい!頭を上げてください!」
紡は慌ててそれを制止しようとするが、澪はその声を無視した。
「私は、どうしても『朝夕の子』になりたかった。そうすれば母様に、父様に……家人の誰かには、愛して貰えると思ったから。」
「そんな……」
「生まれた時から朝夕の血を持っていて……無条件に愛される紡ちゃんのことが、羨ましかった。それから、妬ましかった。殺してしまいたいと思うくらいに。」
そう言って顔を上げた澪。
紡の事を射抜くような視線は、正しく昔の紡が怯えていた彼女のそれであった。
深淵のように深い眼差しに、紡は背筋がぞっとするのを感じる。
「だけど気づいたの。母様が欲しいのは朝夕の血を引く子供じゃなくて、父様の心を繋ぎ止める『かすがい』なんだって。だから、私の行動は何の意味もない事だったんだって。」
「……どういう意味、ですか。」
「やっぱり、分かっていなかったのね。」
澪は、すうっ、と静かな部屋の中で息を吸った。
「父様は、母様……海鳴縹という女を、ひと時たりとも愛した事はなかった。」
冬の冷たい空気のような声が響く。
紡はまるで辺り一面がきん、と冷え切ったような、そんな錯覚さえ覚えた。
「でも、父様と母様は……喧嘩をしているところだって見た事はないし、それに……」
「父様は、確かに好い人だったと思うわ。誰にだって優しかったし、誠実だった。距離はあったけど、私とも親子としての最低限の関わりは持ってくれた。」
言葉を探す紡に、澪は小さく微笑みかける。
「だけど、それは母様にだけ特別な事ではなかったでしょう?」
「……特別?」
「紡ちゃんは、よく父様と桜花神社に行っていたわね。」
どうしてそんな事を言うのかと疑問に感じながらも紡は、父との思い出を随分と久しぶりに思い起こした。
紡が理想としていた父。
皇宮警察軍に所属し、立派に家長として振る舞う背中は紡の憧れだった。
そして、想起する。
その父が一番幸せそうな笑顔を浮かべていた時を。
紡が、普段とは違って楽しげに笑う父と出掛けるのを心待ちにしていたあの頃を。
桜花神社への、月に一度のお参り。
清廉な風が吹き、常に花吹雪が舞うあの幻想的な空間。
そこで紡は、大好きな父が幸せそうにしている姿を見られるのが嬉しかった。
あの頃、長い石段を登った先で二人を迎えてくれていたのは絃ではない。
春秋依という名のその女性は、その後も境内を訪れ続ける事になった紡にとても良くしてくれた人だった。
ほんの幼いある日、紡が何の気無しに言った言葉がある。
それは七歳の紡が前日に母から厳しい叱責を受け、すっかりとしょげ返っていた時のことだった。
『依さんが、かあさまだったら良かったのに。』
その時、依が酷く困ったような表情を浮かべていたのが印象に残っている。
幼い頃は特に気に留めなかったし、それ以降ふと思い出した時も他所の子供にそんな事を言われたら何と返して良いか分からなくなるものだろう、と納得していたのだが。
「まさか……そんな筈、ない。きっと誤解です。」
「誤解な筈あるものですか。」
紡の表情がさっと変わったのを見て、澪は続けた。
「だって、そうでなければ……どうして家族全員を連れてお参りに行かなかったの。どうして、実の子である紡ちゃんだけを連れ出す必要があったの。」
「それは……」
「誤解ならばどうして、母様はあんなにも桜花神社のことを……帝都中の人間が愛する桜花教の事を、憎んでいるの?」
紡は、声を出すことが出来ないでいた。
澪は自身の考えを否定出来ない彼を見て、絶望の笑みを浮かべる。
「紡ちゃん。きっと私たち、同じなのよ。ううん……私とあなただけじゃない。母様も、繭子ちゃんも。」
紡は『登竜門』で彼女を見た時、昔と変わらぬ美貌を持っていると思った。
けれど、それは間違いだったらしい。
よく見ると彼女の眼の下には化粧でも隠しきれない濃い隈があり、着物の袖口からは発疹の浮いた肌が覗いていた。
「きっと呪われているのね。朝夕の名に連なった者は、皆……呪われるのよ。」
「呪われる……?」
「人並み以上の才や幸せは手に入れられるけれど、一番欲しいものが手に入らない呪い。」
澪は呆然とする紡の前で、まるで悪い夢に魘されるように言葉を続けた。
「……愛する人に、置いて行かれる呪い。」
その声が紡の耳に届いた時、彼の意識が有りもしない記憶で塗りつぶされる。
笑顔の絃。
伸ばした手が彼女の腕を掴んだ時、一陣の風に煽られ、その輪郭が崩れ落ちる。
絃は無数の桜の花びらとなって、それで……。
「ふざけるなッ!」
紡は荒っぽく立ち上がると、幻影を掻き消さんとして怒鳴りつけた。
正面では、座り込んだままの澪が目を見開いて弟のことを見つめている。
「呪いなんて、誰が決めたんだ!そんなの、姉さんの勝手な妄想じゃないか!」
突然声を荒げた紡に、澪は珍しく動揺しているようであった。
肩が小さく震えており、怯えているのが伝わってくる。
「ごめんなさい、紡ちゃん。気に障ったのなら……」
「帰ります。」
澪の言葉を遮って歩き出すと、紡は彼女の隣を過ぎって襖を開けた。
そのまま振り返りもせずに玄関で革靴を履いていると、背後から姉が追ってくる気配を感じる。
「紡ちゃん、さようなら。」
引き留めて、謝罪でもされるのかと思ったが……澪はそう言ったっきり、その場に立ち尽すのみであった。
「お邪魔しました。」
「もう、きっと会う事はないわね。」
「ええ。」
紡は立ち上がり、玄関の戸を開く。
そのまま歩き出そうとしたが、ふと足を止めて肩越しに振り返った。
「……俺は姉さんとは違います。」
「だと、良いわね。」
紡の言葉に寂しげに微笑んだ澪は、意外にも優しげな表情を浮かべていた。
「元気でね。」
扉の向こうに隔たれた弟の影が消えるのを見届けて、澪は先程までいた部屋へと引き返す。
そして部屋の隅に置かれていた物入れの引き出しを開くと、中に置かれた小さな化粧箱のようなものを開けた。
中には血のように真っ赤な丸薬がひとつ。
飴玉のようにも見えるそれはてらてらと表面を光らせて、澪の顔を醜く映し出した。
「……最後の心残りも消えちゃった。どうしようかしら。」
澪は譫言のようにそう呟くと、指先で丸薬を摘み上げる。
「もしも私が明日死ぬとしたら……最後に一目会いにきてくれる?」
かちかち、と壁にかけられた時計の秒針の音が静かな部屋に響き、まるで澪の命を少しずつ削り落としているようにも感じられた。
「なんて、誰にも聞こえないのに、馬鹿みたいね。」
澪はそう言うと、箱に戻した丸薬をごみ箱の中に放り込んだ。
そして、仰向けに倒れ込んで可笑しそうに笑った。
「そんなに潔いひとになれないから、こんなところで春を売ってまで生きていたんでしょう?」
目を閉じる。
暗闇が彼女の視界に満ちて、より一層時計の音が大きく聞こえた。
かち、こち、かち、こち……。
貴方が突然居なくなってから、随分長い時間経ってしまった。
きっと貴方はとっくに前に進んでいて、もう私と同じ場所に戻る事はないのでしょう。
やっぱり、私。呪いはあると思うわ。
だから、手が届かなくたって良かった。
もしも私の前で貴方が死んでしまったら……想うことすら許されなくなるのだから。
澪は、懐かしい人の姿を思い浮かべる。
雨に濡れて、美しくともなんともなかったはずの自分を、家に上げて暖めてくれた人。
女としての魅力以外に価値のなかった自分に、ただ優しい居場所となってくれた人。
……その身に寄り添って心を覗こうとしたら、まるで霞のように消えてしまったひどい人。
「どうせ遠からず死ぬならば、最期まで貴方を想って……想って、
微睡み始めた澪の意識の中で……孤独だった頃の幼い彼女が、自分の手を取って笑ったような、そんな気がした。
あさきゆめみし はるより @haruyori
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