身を尽くし
割烹料理屋『登竜門』。
山西が言っていた通り、ここは従業員の女性が客の隣に座り、会話を楽しみながら料理や酒を楽しむ店である。
割烹料理、と銘打っているだけあり、机の上に並んだ料理はどれもこれも彩り鮮やかで、味も良い物ばかりであった。
紡はまさか女体盛り等が出て来るのではないか、と警戒していたが……実際に出てきた上品な味付けの料理と温かい緑茶に、少しずつ気を緩めていた。
「お兄さん、こっちの小鉢も美味しいよ。食べてみない?」
「あ、はい……頂きます。」
通された個室内で紡は、隣に座った薄黄色の着物の女性が目の前に小鉢に入った和物を勧めて来るので、受け取ろうとした。
しかし、紡が手を伸ばすとそれはひょいと取り上げられてしまう。
「え?」
「あはっ、やっと顔を見てくれた〜!お兄さんたら、ずっと下向いたまま喋るから、寂しかったんだよ?」
そんなふうに悪戯っぽく笑う女性に、紡はたじたじになりながら、すみません、と小声で謝った。
彼女は少女のあどけなさを残しながらも、口元の小さなほくろが色っぽい女性だった。
女性は何かを思いついたと言うふうに、自分の前に配膳されていた箸を手に取ると、片手に持ったままであった小鉢の中身を紡の眼前に差し出す。
「はい、あーん。」
「……。あの、自分で頂きます。」
「そ、そう……?」
明らかに困惑した表情の紡に、流石に女性も苦笑気味であった。
紡は渡された小鉢を口に運びながら、共に入店した物たちを見る。
山西と佐野はごく自然に女性の頬や肩に触れて楽しげに話をしているし、瓢助も何やら冗談を言って隣の女性を笑わせていた。
何だこれは、皆どうやって楽しんでいるんだ。
紡は困惑するが、相手も仕事上自分の相手をしなければならないという事は理解していた。
だから余り無下にするのも失礼かと思い……必死に話題を探す。
「あの、恋愛感情ってどうやって相手に伝えれば良いのでしょうか……。」
「女遊びの場でまさかの本命の相談!?」
大真面目に話し始めた紡と、目を丸くした女性。
彼女はすぐに声を上げて笑い始めた。
「へ、変な事を言いましたか?」
「いや、うーん。お兄さんが私に一切興味ないって事がわかって、何だか可笑しくって!」
女性は先程までの猫撫で声をやめて、脚を崩すと目元に浮かんだ笑い涙を拭った。
「んじゃ、もう営業はおしまい。まだ他の人たちは帰らなさそうだし、もっと気楽にお話ししましょうか?」
「何だか、すみません。俺……こういうのに慣れていなくて。」
「良いの良いの。同じ賃金貰うんなら、助平親父の相手するより万倍マシだから。」
比較対象が余りに酷いのだが、女性が気を悪くした様子はないので、紡はほっと息をつく。
「それで、お兄さんには好きな子が居るの?」
「……はい。」
「相手はいくつ?」
「十五です。」
「へぇ、歳下かぁ」
紡は女性に尋ねられるままに絃の事や、彼女との間にあったことを話した。
それなら小一時間ほど、女性はころころと表情を変え、時々質問を交えながら紡の語る言葉を聞いていた。
「うーん、なんて言うか……お兄さんって、男とか女とか、自分は何々だから、とかそういう枠組みに囚われすぎなんじゃない?」
「枠組み、ですか。」
「そ。例えばあたしとだって、今こうして『女』の皮を脱ぎ捨てて接すれば、ちゃんと顔を見て話をしてくれてるでしょ?」
紡は入店してすぐの自分の態度を思い出し、どうしようもなく情けない気分になる。
確かに、それがこういった業態の店員としては正しいのだと理解していようとも、紡は媚びた接客をされるとどうしても相手から距離を取ってしまうのだ。
「あたしもお兄さんも、そこの街ゆく軍人さんだって、一枚皮を剥げば人間っていう本能剥き出しの動物に変わりないと思うの。」
「それは……そうかもしれません。」
「現に、話を聞いていると……相手の子はお兄さんの表面じゃなくて『心』に向き合ってくれてたんでしょ?それに体裁を整えた言葉を返すのって、何だかチグハグじゃない?」
紡は女性の言葉に、頭を強く殴られたような気持ちになる。
絃に送った手紙もかけた言葉も、自分なりに一生懸命に考えたものだったが……それは言い換えると、『耳障りの良い言葉になるよう、体裁を整えた』ということに他ならない。
言葉の真意が伝わらない理由を幼気な絃に押し付けて、自分は格好つけたまま逃げていたのだと、紡は悟った。
「まぁ実際に見た訳じゃないから、あたしの想像に過ぎないんだけど。」
「……いや、参考になりました。自分でもよく考えてみます。」
「真面目だなぁ……でも、良かったかもね。こういう話って案外身近じゃない人間からの方が、必要な言葉を聞けたりするもんね。」
にしし、と笑う女性。
「でも、良いなぁ。あたし達にとっては恋って商売道具だから……純粋な恋愛話って、聞いてて凄く新鮮。」
「すみません、もしかして嫌味に聞こえていましたか?」
「そんな事ないってば、面白かったよ!」
頭下げようとする紡を、女性は慌てて手で制した。
改めて、紡は目の前の人物を見る。
町娘と比べると化粧はやや濃いが、どこにでも居る、人の良さそうな女性であった。
「うん。お連れさん達もだいぶ出来上がってるみたいだし、そろそろお帰りかな。」
「そうですね……その、無礼を働いたにも関わらず、相談にまで乗ってくださり有難うございました。」
「良いのよ。まぁ、気に入ってくれたのならまた来てあたしを指名してくれたら嬉しいなって。」
「それは、どうでしょう……ええと」
紡は、そこでようやく女性の名を知らないことに気が付いた。
女性もあらやだ、と口元を抑えて驚いでいる。
「ごめんなさい、自己紹介すらしてなかったのね。あたしは『あかり』。お店の中だから、源氏名で許してね。」
「はい、あかりさん。俺は紡……朝夕紡、と言います。」
「朝夕さんね。そういえばそういう名前のお屋敷が通りにあった気がするな」
紡があかりの言葉に、その家の人間です、と応えようとした時……ふと、少し離れたところに座っている、佐野の相手をしていた女性が急にこちらを振り向いた事に気がつく。
気になってそちらを向くと、綺麗な女性がじっと紡の顔を見つめていた。
その女性が、呆然とした様子で呟く。
「紡ちゃん……?」
辺りが騒がしいのにも関わらず、はっきりと届いたその声。
余りにも聞き覚えがあるその声に、紡は凍りついた。
さっと顔から血の気が引くのがわかる。
「ちょっと。朝夕さん、どうしたの?……『つくし』さん、どうかした?」
どうやら、紡の視線の先にいる女性はここでは『つくし』と名乗っているらしい
紡はその言葉に応えたいのに、咄嗟に声を出すことができなくなっていた。
あかりは困った顔をして、紡と『つくし』の顔を見比べている。
「……ごめんなさいね、佐野さん。ちょっと用事ができちゃって……別の子を呼んでくるから、代わってもらっても良いかしら?」
「ああ……?そんなぁ、その用事ってのは俺より大事なのかよぉ……」
「こら佐野、見苦しい事はやめろ。すみません、もうそろそろ退店しようと思っていましたので、お気になさらず。」
「そうですか、最後までご一緒できず申し訳ありません。」
女性は佐野と山西に頭を下げると、立ち上がって個室から出てゆこうとする。
……その時、最後に紡の方を振り返った彼女は、酷く寂しそうに微笑んでいた。
「……っ、待ってください!姉さん!」
今を逃せば、きっと今後彼女と顔を合わせる事はないのだろう。
根拠はなくとも、そう確信した紡は弾かれたように立ち上がり、背中を向けた女性を追いかける。
紡の言動に驚いた顔をしたあかりを含め、個室にいた人々を残して……紡は廊下で女性の肩を掴んだ。
「姉さん……朝夕、澪さん、ですよね?」
「……。」
女性は何かを思案していた様子だったが、そっと白魚のような指で肩から紡の手を離させると、身体ごと背後を振り向いた。
「久しぶりね、紡ちゃん。随分大きくなって、名前を聞くまで気づかなかったわ。」
「……お久しぶり、です。」
やはり寂しげに微笑む澪は、紡の中にある彼女のイメージとは随分違っているようだった。
幼い頃の紡が恐怖の対象としていた彼女は……目の前にしてみると体格は自分よりも一回りも二回りも小さく、ひどくちっぽけで弱々しい存在に見えた。
ただ、紡とは似ても似つかない艶やかな美貌だけは変わりないようで、現に向かいの個室に座っていた男性が熱っぽい視線を彼女に向けている。
「まさか、あなたの方から追いかけられる事があるなんて。世の中って、分からないものね」
「……幾つか訊きたい事があります。出来れば、腰を据えて話がしたい。」
紡の言葉に、澪は少し何かを考える素振りを見せたが……諦めたように小さくため息をついた。
「こんな所で縁があるなんて、よっぽどの事だもの。きっと、そういう風に導かれているんだわ。」
「じゃあ……」
「ええ、私の部屋で話しましょう。お店の方に話を通してくるから、紡ちゃんもお連れの方に伝えてちょうだい。それで、そのままさっきの部屋で待っていて。」
そういうや否や、澪はその場から足早に立ち去ってしまった。
後に残された紡は、手のひらにじっとりとした汗をかいている事に気づいたが……嫌な動悸や恐怖は感じていないようだった。
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