大気圏の住人

あまめ

本編

久しぶりに窓を開けた気がする。作品を書いているうちはどうも町の音が気になってなかなか開ける勇気が出ないものだ。

季節はとうに初夏だった。都市特有の生ぬるい空気と、生き残った自然であるところのアブラゼミの声がぐわんぐわんと鳴り響いてる。うん、今年も夏は嫌いだ。去年も同じことを思っただろう。

その他、話し声や工事の音などあらゆる種の日常が街を占めるなかで、かえって私の注意を引いた音があった。それは…ゴーという風鳴りで、まるで街にベールを掛けるかのように上空に広く響いていた。

私はなるべく犬の声から犬の像を頭に描かず、工事の音から工事現場を描かないようにしながら、その豊かな倍音を含むホワイトノイズにも似た音に意識を集中させた。ゴーという音には独特のリズムがあるように感じられた。それはちょうど45秒で途切れるテープのように、唐突に始まり、唐突に終わりながら同じ主題を奏で続けているようだった。むしろそれは私の意識の注意のリズムかもしれない。その区別はつかなかった。

私は何か新鮮な心地になりながら窓を閉じると、今書いている原稿を放りだして、全く新しい作品を書き始めた。


このような人たちがいたらどうだろうか。彼らは彼らの大気と同じリズムでものを考えるのである。それは彼らにとって1年、100年、1000年かもしれないがそんなことは関係なかった。彼らは暦の観念を持たなかった。

彼らにとっては全ての瞬間が暦の始まりであり、全ての瞬間が暦の終わりであった。彼らは連続したものを持たないがゆえにかえって連続していた。

彼らは春の花の香りを嗅ぐと皆が同じように思考し始めた。それは川が桜の花びらで桃色に染まるのと全く同じように自然なことだった。彼らにとって思考とは祭りであり、表現や象徴と呼ばれるほど世界から遠いものではなかった。

彼らは夏の暑い日には汗をかきながら思考したし、その額を流れる汗とそれに由来する思考は全く区別がつかなかった。彼らにとっては労働し、暑さの中に居ることが思考であったし、その汗水の化学成分こそが彼らの思考内容だった。彼らはそのように思考していた。

彼らは閉じた所を怖がった。彼らにとって、それは意識が途切れるところと同意義だった。彼らは洞窟などどうしても風の当たらないところに行くときは、自分の心音を聞くといいと教えられていた。心音は彼らに風に似た安らぎを与えた。


筆者のメモ:

(さて、しかし彼らは何かを決定し得たのだろうか。もしくは彼らはなにも決定せずに生活するすべを身に着けていたのだろうか。

彼らにとって決定することと行動することは同じだった。1とは1つの肉に食らいつくことであり、2とは2つの石を拾い集めることだった。

彼らは1+1=2を知らなかっただろう。しかし私たちは知っているのだろうか。そう言って私は指折り数える。親指と人差し指を曲げ、なるほど確かに1+1は2だ、しかしこの行動は自発的に、誰にも教わらずにしたものだろうか、いや…そうではないだろう。

我々のうちの誰かが1+1=2であることを知らずに、このような動作を行った人がいただろうか。むしろ1+1=2であるという当たり前の知識に確信を持てなくなったか…もしくはケチをつけてくるような異邦人に対してみせる目的で行うような表現、そのようなものではないか。そもそもこれは折り曲げられた指であって2ではない。これに2を読み取るのは我々の文化から一掃されたと信じられている象徴的儀式ではないのだろうか。

確かに我々は1+1=2であることを知ってるし、おそらく宇宙はそのようにできているのだろうが、しかし我々はその知を疑うことができ、その不安定な知的生物としてそのような日常に綻びができないことを絶えず呪術的に確信し直さなければならないのでないか。しかし…彼らはそうではなかった。彼らはそのような知と無縁である代わりに、それを疑い更新し続けねばならないという不安や責務からも解放されていた。彼らにとって真実とはそこにある石や小枝であって、私たちが繰り返し確信し続けなければならないもの、過去の身体的記憶とは異なっていた。

そのようにして彼らは新しい刺激が過去の身体的記憶と整合性を保つかを検証することなしに、季節に順応し、新しい事象に適合し続けていた。これは不可能ではないはずだ。彼らが言葉を持ち思考していたとしても、それが内分泌系の活動のようにあっさりしていて固執のないものだったら、もしくは風に吹かれて消えてしまうほどとりとめのないものだったら、そのようなものとして十分あり得たはずだ。)


ここまでを書いて私は筆をおき、再び窓の外をぼんやりと眺めた。

しかし彼らは滅亡した、我々の直系の先祖によって滅ぼされたに違いない。ここまで書いたならば彼らの顛末についても探究する必要があるだろう。


そのようにして彼らが風と共に生き、すべてを忘れながらすべてを新しく受け入れていた時に、彼らの子として生まれたかもしくは外からやって来たのか、彼らに似た別の人たちが現れたのだろう。彼らは大部分が元の種族とは同じだったが、一つだけ異なる場所があった。彼らは「形」を作ることができた。

彼らは木から木弓を生み出し、石から矢じりを加工することができた。彼らはまるで呪術的だった。そして彼らは衝動的だった。彼らは「形」を見たら、その一時的なイメージが失われる前に急いで加工する必要があった。

彼らは彼らの労働のために暦を数え始めた。彼らは指折り数えることを覚えた。彼らは指に数を見、また数の想起を指に求めた。彼らはそのようにして呪術を介してのみ彼らの世界とつながり、彼らのかくある「形」の堆積こそがそこにある世界だと考えた。

彼らは洞に住んだ。彼らは風に不快感を覚えた。彼らは風によって記憶が抜け落ちることを恐れた。彼らは強い風の日は魂が抜け落ちると信じ室内に避難した。彼らは古い種族を砂の民と呼んだ。砂の民は元から砂でできているために、風で吹かれて自らがすり減ることに頓着しないと信じていた。

彼らは定住したためにゴミの処理に難儀した。彼らはしだいに増えていくそれをどうしようもないために地中深く埋めてしまった。彼らは彼らの親の死体でさえ、地中深く埋めた。彼らは虫が彼らの作物でなく、彼らの親をかじってくれることを望んだ。


このようにしてわずかな違いではあるもの元の種族と新しい種族との溝は深かった。それは彼らの言葉にも表れていた。例えば、元の種族は木の年輪を木の変形の跡という捉えたのに対し、新しい種族はそれを木の記憶の貯蔵と呼んだ。また、元の種族は水辺という言葉は持っても、川という意の言葉は持たなかった。ましてや海などという語は思いつきもしなかっただろう。それは物質的・触覚的な水に対して呪術的に関わることで得られる概念だったからだ。新しい種族はおおむね今の私たちと同じ基本語彙を持っている。

さて、元の種族は新しい種族の街の発展とともに鹿や何かとともに追い払われたのだろう。むしろ十分に発達した彼らにとっては元の種族など動物と区別がつかなかったに違いない。古い歴史書には街に所属しない人間との交易の記録などがあるが、彼らは歴史書のある時点から急激に姿を消す。彼らはどこか人目のつかない遠くへのがれたのか、それとも戦争によって滅ぼされたのか。歴史書には交戦の記録はないし、おそらく彼らは体系的な争いなどできる知性は持たなかっただろう。


私は再び窓を開けた。ヒューと風が吹き入れ、依然としてやかましい日常の音ともに、低く唸るような風鳴りがゴーと街を占めていた。想像力を用いてかのホワイトノイズの発生源をたどれば彼らに出会えるかもしれない、と書いて私は筆を置いた。

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大気圏の住人 あまめ @amame_chan

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