第15話

「……もう!」

 藍は前を向いたままハンドルから片手を離すと、ノイズばかりを流して直る気配のない通信装置を叩いた。数分前、突然砂嵐のような音を発したかと思うと、それきり通信が不可能になったのだ。

『まだ駄目か?』

「はい。……っ、まさか……」

 守矢の声に返事をしかけて、藍はその言葉を途中で飲み込んだ。悪い想像ならばいくらでも浮かんでしまう。本部が陥落したなどとは、冗談でも言えなかった。

 法定速度を超過したまま、霞ヶ関までの距離を示す標識の下を通過する。先刻通り過ぎた表示よりも距離が近くなっている。そろそろあるはずだと思った時、藍の視界にそれが見えた。

 東京の地下を何本も走っている、霞ヶ関からの緊急避難用の地下連絡通路。平時であれば閉鎖された通路のように偽装されている出入り口だ。しかし今は流石に開きっぱなしになっている。

 藍は強引なドリフトを決めて、車を通路へと滑り込ませた。

『っと……何だ、おい!?』

「すみません、緊急用の通路を使いました。大丈夫ですか?」

『大丈夫だが……緊急用?』

「官庁の人達が逃亡する時に使う、地下通路です。これなら本部のある地域まで一直線ですから……」

 言いながら藍は違和感を覚えていた。

 本当ならば灯っているはずの電灯が、全て消えている。頼りになる光は車のライトだけだ。

『地下……烏丸は?』

 守矢に言われて思い出し、藍はちらりとサイドミラーに目を向けた。先程まで車を追跡していた鳥女の姿がない。姿を消しているという考えが頭を過ぎったが、すぐに否定する。今更透明になる意味などないのだ。

「いません。恐らく本部の方でしょう。仲間と合流したのかも――」

 話ながら一つの考えが思い浮かんだ。現在守矢と話している車内通信は有線式だ。しかし不通となっている通信機は無線式。そちらが使えないということは。

「……妨害電波」

『何か言ったか?』

「あ、ええ。……推測ですが、本部周辺に、通信を妨害する電波か、それに似たようなものが発生しているのかもしれません。だから受信も送信も出来ないのでは」

『もしそうだとして、お前等の通信だけが影響を?』

「いえ、恐らく周辺一帯全てが通信不能になっているはずです。自衛隊やレスキューにも影響が出ていると思います」

 本部陥落よりマシとはいえ、かなり悪い状況だった。

 相互の連絡が取れないとなると、特災機関と他機関との連携はまず成功しない。特に瀬尾の戦闘部隊と、機動隊や自衛隊との連携行動は不可能に近いだろう。元々仲が良くない上に、指揮方法も違っている。

『どうする?』

「原因を取り除く他、どうしようもありません。もっとも、その原因が不明ですが。私達に出来ることは、一刻も早く本部に到着することだけです」

 藍はアクセルを踏む足に力をこめた。既に限界までスピードを出しているので、これ以上速度は上がらない。しかし焦る気持ちが抑えられなかった。

 やがて前方に光が見え始めた。出た瞬間に待ち伏せを喰らうかもしれない、という恐怖に襲われる。緊張で乾いた唇を軽く湿らせた。

「地上に出ます。気をつけてください」

 坂を一気に走り抜け、瞬く間に地上に出た。勢いがつきすぎていたため、文字通り車体が飛び上がる。バウンド後の車体の立て直しをしながら、藍は素早く周囲を見回した。

 右手の離れた場所に、防衛省の建物が見えた。特災機関はそこから対角線上の位置にある。直線なら数百メートルだが、その道はない。それでもかなり近い位置だ。

「この辺りは、異常は無いようです」

 当たり前だが人の姿はなかった。しかし戦闘があったような形跡もない。アクセルを踏み込んで加速を始めた時、視界の端、建物の向こう側で黒煙が上がっているのが見えた。

「あれは……」

『何だ?』

「……いえ、別に」

 事故か戦闘か。とにかく何かがあったのは間違いない。

 どれだけの犠牲が出たのか気にはなった。しかし藍は唇を引き結んで怒りを抑え込んだ。気持ちが急く。角を曲がるのももどかしい。

 上り坂のカーブを曲がろうとした時、通信機のノイズに変化が現れた。一定だった砂嵐が途切れ途切れになり、その合間に人の声らしきものが混じり始める。

「まさか直った!? ――本部? こちら弓埜、応答してください!」



 地下鉄構内の暗闇に炎が上がり、同時に悲鳴が響いた。

「あと八人」

 炎と悲鳴が消えると、歌うような女の声が聞こえた。残酷さを孕んだ静かな声。瀬尾の部下を殺す度に、ご丁寧にも残り人数と自分の居場所を教えてくれる。

 腕の傷の痛みを忘れたふりをして、瀬尾は声のした方向に銃口を向けた。しかしそこには既に誰の姿もなかった。グリップを握る手に力が入る。

 黄田との戦闘を避けて瀬尾達が逃げ込んだのは、霞ヶ関の地下を走る緊急避難用の地下鉄構内だった。しかし何故か全ての電気が消え、暗闇になっていた。

 一度体勢を立て直して、別ルートを探して本部へ行こうとした時、無数の火の玉と共に一人の女が現れた。灰色のスーツを着た女の、瀬尾達を見る目は異様に冷たかった。

 何をしていたのかは分からないが、敵であることに間違いはない。すぐに陣を組んだ。

 女が指を鳴らした瞬間、女の周りに浮かんでいた火の玉が消えた。ヘルメットの暗視機能を作動させた時、既に女の姿は消えていた。

 その直後から、狩りが開始された。

 本部との通信は雑音だらけ。途切れ途切れの声が聞こえることはあるが、まともな会話は出来ない。救援の可能性も無い。弾数は減っている。先の戦闘で受けた傷の、応急処置もままならない。

 またもや爆発が起きた。炎が、叫びを上げる人の姿になる。逃れたい一心で、狂ったように手足を振り回して、やがて地面に崩れ落ちた。

「あと七人」

 腕を伝って流れ落ちたのが、汗なのか血なのか、瀬尾には分からなかった。



「通信、一部回復! これは――弓埜博士です!」

 部下のオペレータの一人が叫んだ。ハッと顔を上げた柳井が、復活した回線を自分に回すように指示を出す。一拍を置いて、インカムから雑音混じりの音声が聞こえてきた。音声だけは全体に聞こえるように、手元で操作する。

「こちら特災機関司令室。応答願います」

『――柳井さん!? こちら弓埜です』

 多少聞き取りづらいものではあったが、返ってきた音声に、司令室の中は瞬間的に喜びに包まれた。自分達の状況に絶望しかけていた職員も、生気を取り戻して動き出す。普段は冷静な柳井も、思わず拳を握りしめていた。

「弓埜博士、今どちらに?」

『本部の近くです。何もなければ、後数分で到着します。こちらの部隊の状況は? 瀬尾さん達が先に戻っているはずですが』

 藍の問いに、柳井は形の良い眉を僅かに顰めた。

「それが……敵のグレイラーと遭遇、撃退はしたのですが……それ以降は分かりません」

『分からない?』

「撃退の報告があった後、この地域一帯で、全ての通信が使用不能に陥りました。こちらの部隊だけでなく、他機関との連絡も取れません」

 現場の状況が、全く分からないのが現状だった。

 それまでの状況は、ほぼ互角といったところ。幾つかの場所から、分散して襲撃してきたグレイラー達の総数は、百人前後だろう。数だけで言えば、自衛隊や機動隊、SATの方が十分に勝っている。それでもオルカを送り届けるまでは、ひたすら劣勢だった。

 しかし報告を聞いた藍の声は、意外なほどに冷静だった。

『そうですか……恐らくですが、敵による妨害電波だと思われます。無線ではなく有線を使用すれば……』

「有線……何とかやってみます」

 柳井は心が次第に落ち着いていくのを感じた。年の割に幼い外見をしている藍だが、頭を働かせている時の声音は妙に迫力がある。

『もしも外部と連絡が取れたら、電波の原因を探るよう指示を出してください』

「了解しました」

『それと、生化学担当の鵜飼(うかい)さんを第六研究室に待機させておいて欲しいんです』

「鵜飼博士を第六に、ですか?」

 柳井は困惑して確認した。

 鵜飼と言えば、技術開発部の中でも変わり者で有名な人物だ。

 以前の戦いのおりに、手に入れたキマイラの肉体を嬉々として解剖・分析し、その結果、彼らが人間であると断言した張本人である。戦いが終わった後も様々な動物実験を繰り返しており、そのため技術開発部内でも、本物のマッドサイエンティストだと噂されている。

 再び雑音が増え始めた。藍の声が段々と聞き取りづらくなっていく。

『そう――と伝――使用する――起、準――』

「っ! 博士!? 今何と!?」

『――準備――説――かくお願――』

 音声は途中で唐突に切れた。柳井が慌てて呼びかけるも、完全に回線は途切れてしまっている。とその時、天井のライト、コンソールパネル、正面の巨大な表示画面、全ての明かりが消えた。

 すぐに非常用の予備電源が作動し、それまでよりも光量の弱い灯りが点く。いきなりの状況に、司令室内がざわめき始めていた。

 柳井は部下の混乱を抑えるように、声を張り上げた。

「オペレータが騒いでどうするの! 冷静に行動を! ――各員、全部署に有線で連絡、事故や異常が無いか確認しなさい」



「何だ? とうとう負けたか?」

 自室でもある研究室にいた鵜飼栄(うかいさかえ)は、突然明かりの消えた天井を見上げて言った。

 テーブルを挟んだ対面に座っていた間宮は、鵜飼の不謹慎な冗談を聞き流した。再び灯りが点いたのは、数秒後。予備電源に切り替わったらしく、それまでの光よりも光量が幾分落ちている。

 何かの機具が台の上に置かれ、主任の机や二人が挟んでいるテーブル、果ては床の上にまで書類が散乱していた。到底研究が行われる場所とは思えない。

 特災機関本部・技術開発部の生化学班フロア。生化学班の主な仕事は、キマイラの研究と実体、およびそこに使用されている超技術の解明である。

「……まだ負けたわけじゃあないらしいですな」

「あまり簡単に負けた負けたと言わんでくれ」

 間宮の言葉に鵜飼は、喉の奥を詰まらせたような笑い方を見せた。相手を不快にさせる笑い方だが、間宮は慣れているのか相手にしなかった。間宮の無反応が気にくわなかったらしく、鵜飼は一つ鼻を鳴らした。

 無精髭を生やした顔は、いつ見ても顔色が悪い。ひょろりとした体型に皺だらけの白衣を纏い、人を小馬鹿にするような上目遣いをよく見せる男だ。いかにも適当に切った髪を整髪料で撫でつけていた。

 孤高の天才。それが間宮の鵜飼に対する評価だった。

 鵜飼は元々、藍と同じ大学院の出で、生化学を専攻していた先輩にあたる。歳は三つ上。院を出た後は各地の研究機関や、有名企業の開発部を点々としていた。

 一つ所に留まってじっくり研究を続けていれば、いずれ歴史に名を残すような発見をしたかもしれない。誰もが天才と認めている藍をして、そう言わしめるほどの頭脳の持ち主だった。それが何故あちこちに移動しているのか。

 人間関係が理由だった。同僚に対する態度は最悪に近く、記録ではどこの職場でも問題を起こしている。いつも組織側から解雇される前に、自分から辞めていた。藍の推薦で特災機関に迎え入れた時、間宮は生化学班の人員を鵜飼に決めさせようとした。

 しかし彼はそれを断り、「阿呆が何人もいるより俺一人で十分だ」と言い放った。その瞬間、やはり周囲からの人間的評価は最悪となった。

 しかし実際に、鵜飼はたった一人でキマイラのDNA情報の分析を行ったのだ。

 あまりに超人的な働きに、一週間で一時間しか寝ないという噂も立ったほどだ。さすがに噂ではあるだろうが、確かに鵜飼の寝ている姿を見た者は機関内にはいない。

 研究室の内線電話が鳴った。ちらりと間宮を見てから立ち上がった鵜飼は、芝居がかった動作で受話器を取った。

「はい、鵜飼」

『司令室の柳井です。鵜飼博士、弓埜博士からの要請です。第六研究室で待機してください』

 聞こえてきた言葉に、鵜飼は不快そうに眉をしかめた。

「第六ね。間違いないか?」

『はい。それと……これははっきりと聞き取れなかったのですが、準備、と』

「準備。確かにそう言ったのか?」

『はい。何をなのか、までは分か』

 まだ何か言いかけていた柳井を無視し、鵜飼は受話器を本体に戻した。その姿勢のまま暫く肩を忍び笑いで振るわせていた鵜飼は、突然肩越しに間宮を振り向いた。

「長官、一応確認しますけど、いいんですね?」

「今さら反対はせんよ」

「なら結構です」

 鵜飼はひらひらと手を振ると、白衣を翻して扉の方へと向かった。ノブに手をかけた瞬間、その動きを間宮の声が止めた。

「鵜飼博士。さっきの話は」

「疑り深いですね。あれだけ長々説明したのに……。もう一度実験データを見ますか?」

「……しかし、弓埜博士は分からない、と」

「そりゃそうでしょう。人間で実験するわけにもいかなかったんですから。ただね、こういうもんの最終的な問題は、作った奴の自信と確信なんですよ。で、弓埜博士はどうか知らないが、俺にはそのどっちもがある」

 たいした自信家ぶりだった。軽薄な感じのする声音も、相手の気持ちを逆撫でする。しかし鵜飼が天才だというのも間違いない。

「そろそろ戻った方がいいですよ。司令官が司令室にいないんじゃあ話にならない」

「……そうしよう」

 間宮は席を立つと、鵜飼に続いて部屋を出た。

 フロア全体が薄暗くなっていた。エレベータホールではなく、階段の方へと向かう。非常電源に切り替わっている状態なので、エレベータが止まるという可能性もあるからだ。間宮は上り、鵜飼は下りと、踊り場からは別方向に変わる。

 特に挨拶もなく下りていく鵜飼の背に、間宮の声が飛んできた。

「鵜飼博士」

 鵜飼は足を止め、手摺りの隙間から見上げた。

「何です?」

「……頼むぞ。これ以上、犠牲を出したくはない」

「……了解。頼まれました」

 戯けた調子ではあったが、鵜飼いの声にはどこか嬉しそうな響きが含まれている。一度手を振ると、鵜飼は急ぐ様子も見せずに階段を下り始めた。

 階段を上る間宮の耳に、鵜飼の吹く口笛の音が聞こえてきた。核実験で目覚めた怪獣にでも立ち向かえそうな勇壮な音色が聞こえなくなるまで、間宮は階段を上らなかった。

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