第9話 実験室のビーカー①
《ビーカー?》
通信が入る。
俺は、表情を変えずに、作業に没頭する振りに徹した。
高等部学長室の応接スペースは、所狭しとパソコンをはじめに、計測機器が設置され、簡易の
相方役の研究者・シリンジは、サンプルデータの測定に夢中になっている。アイツがこの暗号化を解読できるワケがないとは言え、気は抜けない。研究者や企業から、データを
シリンジを前にして、油断はできなかった。
《転校生と対象が接触したみたいだけど、本当に僕は、そっちの茶番をお相手するで、良いの?》
《通信への第三者の接続は?》
《されてないね。多重暗号を瞬時に解読できる
通信しながらクスクス笑う。
遺伝子研究サンプルが、微弱に発信する信号。それをナンバリング・リンクスと言う。それをサンプル同士の通信に応用したのは、先輩研究者だった。実験室のデーターベースで、この論文を見つけた時は、目から鱗だった。
《俺からの指示に変更はない。普段通りに過ごせ。登録してある、優秀だが特化型ではない、通常の支援型サンプル。それ以上のデータは絶対に見せるな》
《了解》
通信は途絶えた。
シリンジはデータ検索に夢中になっている。シリンジはまだ、どのサンプルが特化型サンプルか、
(それで良い)
俺の唇の端は、思わず綻んだ。
■■■
――忘れてないか? 俺も遺伝子研究特化型サンプルだってこと? 実験室にいたんだぞ、俺?
――火傷ならたいした事ない。自身の能力をうまく使えなかった授業料だと思ってる。何より、ひなたの消息を失った【今まで】の方が何より辛かった。
――ずっと探していたって事だよ。
水原爽の声がスピーカーから、校長室に反響する。
実験室の研究者――シリンジと俺の二人は、すでに提出済みの遺伝子データとともに、生徒の様子を
個性は武器だ。突出した「何か」は特異性遺伝子情報を示唆している可能性がある。
集中的な負荷、同一遺伝子の勾配等、手段はごまんとある。その過程で、失敗作を産む可能性の方が多いにしても。
「これは、どういうことだ?」
シリンジが苦々しそうに、呟いた。俺は無言で、キーボードを叩く。実験室が開発したサンプルであれば、データーベースに保存されている。もっとも、特化型サンプルは管理者権限が必要だが、ビーカーはその認証権限を保持しているので、ログインは問題ない――はずだった。
"ENTER "
"file doesn't exist(データは存在しません)"
思わず、俺は眉をひそめる。この時期の転校生が気になり、データ採取をあいつらに指示していたわけだが。
(ふむ)
管理者権限を有する自分が排除された理由。考えられることは二つか。一つは、そもそもデータが存在しないか。もしくは上位管理者認証が必要である可能性があるか。
濃厚なのは後者か。実験室の研究者とはいえ、一枚岩ではないという証左だ。忌々しさと好奇心が込み上げてくる。
と、そこでノックの音。シリンジは見向きもせず、データを漁っている。俺は小さく息をつき「どうぞ」と声をかけた。
入室してきたのは、眼鏡をかけた生徒だった。
「失礼します。高等部生徒会を代表して
「あ、あぁ、神谷君。いまはちょっと間が悪いというか――」
校長がフォローしようとした声は、シリンジによって打ち消される。
「ジャマだ。てめぇらケツの青いガキの相手をしているほど、コッチは暇じゃなねぇ。しゃしゃり出てくるんじゃねぇっ!」
聞く耳をもたないというのは、こういうことを言うのかもしれない。ビーカーが肩をすくめると、彼と視線が絡む。
「こんな状況だ。もしもの時は、よろしく頼む」
「はい、もしもの時はご指示をください」
そう生徒会長は、特に気にするでもなくペコリと頭を下げて、それから微笑んだ。
■■■
どんなに検索しても、"file doesn't exist "
シリンジに苛々はつのるばかりで、キーボードを乱暴に叩く。でも、表示されるコードはやっぱり"file doesn't exist "だった。
「……あのガキが特化型サンプルだって言うのか」
「わざわざ高校生が特化型サンプルなんてワードをトレンドにしているとも思えないから、多分そうだろうな」
「そんなトレンド、あってたまるか!」
再度、キーボードを叩きつける。
「落ち着け、シリンジ。興味深いじゃないか?」
俺はにんまりと笑んでみせる。
「実験室の
俺がが小さく笑むのを見て、シリンジはバカにしたように鼻を鳴らす。
「詭弁の可能性だってある。たまたま特化型サンプルというワードを知って……」
「サンプルはリスクを背負って契約している。ましてサンプルの行動は監視システムがチェック済み。シリンジだって、その恩恵は得ているだろう?」
「あんな欠陥システム――」
「……実験室が非公開にしているサンプルの
「あ?」
不機嫌そうにシリンジは無視を決め込もうとするが、その目は監視カメラ越しの少年少女に釘付けになっていた。
「実験をしようじゃないか? シリンジの手持ちのサンプルは?」
「テメェのサンプルを出せよ、この実験狂がっ!」
「特化型を出したら実験がすぐ終わっちゃうじゃないか。それじゃ検証にならない。それに手持ちは、シリンジの方が多いだろ?」
「嫌味かよ」
そう言いながら、別の端末を操作する。と、シリンジは目を細めた。
「……丁度いい、処分対象の
「どうしたんだ?」
ディスプレイと睨むシリンジの表情に緊張が走った。
「……これだから
シリンジは舌打ちをした。
正常稼働が困難。暴走、能力上限稼働、理性による制御が不可。陥る結果は様々だが、どのサンプルにも共通しているのは短命で――コントロールできない。
シリンジは苛立たし気にキーボードを叩く。俺も画面を覗き込んだ。位置情報システムが、実験対象に急接近する
「実験は中止だ。量産型サンプルに
「いや、続行だ」
俺は、静かに宣言をする。キーボードを打ちながら、廃材のデータを収拾する。
その刹那、耳をつん裂く轟音がスピーカーから鳴り響く。ディスプレイの向こう側の光景に、思わず目を丸くした。
(実験としては期待通り……いやそれ以上か)
正体不明のサンプルを稼働試験。
廃材をあてがうのは、絶好のタイミングと言える、
そんな俺の歓喜をヨソに、シリンジは忌々しそうにキーボードを叩き続けていた。
上司に実験を指示されたら従うほかない。この実験を多角的に記録し内密に処理。同時並行で
実験は、研究者にとって使命だ。探究心をなくした、研究者に価値はない。
そして何より、この研究過程を世間に一切、公表してはならない。
この二律背反を同時に遵守することが、求められる。
「
「ふむ。レベルDも想定して監視システムを強化、情報収集に務める必要があるかもな」
そう首肯した、
■■■
――本当にバケモノの片棒担ぐつもりあるの?
■■■
凛とした声とともに。ディスプレイ越し、彼女の掌から火種が弾けたことを視認する。
「熱反応だと?!」
シリンジが混乱している姿を尻目に、俺はゆっくりと息を吐く。思考を巡らすまでもない。
実験室のシステムをハッキングして辿り着いた、機密情報級《レッド・レベルのサンプル研究論文が、瞼の裏側にちらつく。
(あれが【限りなく水色に近い緋色】なのか……?)
そんな俺の思考を打ち消すように、シリンジは叫んだ。
「データを再検索しろ! バグの可能性も!」
「実行。だが大きな変化は無い! あの少年も監視対象に――」
あの少女、宗方ひなた――彼女まで、"file doesn't exist(データは存在しません)"
そうデータベースは、検索拒否のダイアログを突きつけてくる。
(……面白いっ)
きっと、俺は今、満面の笑顔を浮かべている。
それは、刹那の活劇だったが――研究者二人の予想を裏切るのに、充分な5分間だった。
■■■
――"file doesn't exist(データは存在しません)"
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