第8話 ずっと探していたってことだよ
チャイムが鳴って、授業の終了を告げる。
私は、再び緊張してしまう。
安堵の吐息。抑えきれない解放感。もう堪えきれず、声に出している子もいる。
そんな当たり前の日常。ずっと遠巻きで見ていただけだったのに、今はこんなにも近い。
これまでは、無造作に投げつけられる悪意に警戒していれば良かった。でも爽君にしても、クラスのみんなもそう。手厳しい言葉を投げてくる人は誰もいなかった。
優しく、笑顔を向けてくれる。
だから、怖い。
暴走しないだろうか。
そんな人達に向けて、
それが、怖い――。
くるっと前の席の金木涼太――金木君が振り返って私を見る。
眼鏡をかけた彼は真面目で、でも私が不安にならないように、配慮と気配りをしてくれていることを感じる。爽君が【動】なら、金木君は【静】というイメージだった。
「宗方さん、勉強は大丈夫そう?」
本当に心配してくれているのが分かる。私は曖昧に笑顔を浮かべながら、小さく頷いてみせる。
正直なところ、範囲が違うことの壁はあまりに大きかった。それに、私は転校を繰り返してきた。お世辞にも、成績は下から数えた方が早かった。
授業の途中、爽君がアドバイスをくれるから少しずつ理解できて気がする。でも基本、サンプルとしても高校生としても私は落ちこぼれ――どうしても、そう思ってしまう。
「転校ってツライよね。分からないことがあれば、聞いてね?」
「え……?」
金木君はニッコリそう微笑む。私は言葉を失ってしまう。
「優等生が教えてあげたらいいじゃん」
隣の席の野原さんが、欠伸混じり、気の抜けたように言う。でも、その目は私を見ている。野原さんだけじゃない、爽君だって。私はこれまで、こんなに優しい眼差しで見守られた経験が――
ザッ――。
ノイズ。
彼の笑顔を見た気がした。
笑顔が、砂嵐で覆われてしまう。
「まぁ僕でよければ、喜んでだけどね」
「ま、でも後日ね」
この会話に割り込んできたのは、爽君だった。
「へ?」
「ひなたとの先約があるから。学校、案内してあげるって約束したからね」
「それなら僕も……」
「涼太は案内しなくても知ってるでしょ?」
「誰が、爽に案内しいてくれって言ったのさ? 僕が宗方さんを案内してあげるって――」
金木君が言いかける、その途中で爽君は私の手を引いた。
とくん。とくん。
網膜の向こう側――砂嵐が消えて。爽君の笑顔に吸い込まれそうになる。
「み、水原君?」
「爽って呼んでってお願いしたでしょ?」
ニッコリ笑って、彼は言う。
「じゃ、涼太。野原、また明日ね」
「お、おい、爽――」
「やれやれ、だね」
ひらひら、私に向けて野原さんは手を振る。かろうじて、私も手を振り返した。
「ま、勘弁してあげてね。ずっと探していたんだから、ね」
野原さんのつぶやきが――教室を出てなお。喧噪に飲まれてなお。もう聞こえるわけがないのに、私の鼓膜を震わせたのは、どうしてなんだろう。
■■■
「あの……水原君?」
手を引かれながら、校内を走る。
――あれって水原くんじゃない?
通り過ぎる人達が目を丸くしているのがわかった。やっぱり爽君が、この学校で人気者なのだと知る。でも、そんなのお構いなしに、彼は無邪気に笑みを私に向けて溢す。
そんな爽君だったが、流石に走り続けて石に息が上がったのか、ステップを緩める。イタズラめかした笑顔を私に見せた。私も、軽く息を整える。最近、負荷試験に取り組んでいなかったから、運動不足は否めない。
「呼び方が戻っているよ。爽でいいって言ったよね?」
ニッと笑んで、そう言う。
「でも、やっぱり呼び捨てっていうのは……」
「俺、ひなたを呼び捨てにしてるけど、変えないよ?」
「あ、それはいいんだけど、あの――」
「なに?」
「学校の中を案内してくれるのは嬉しいけど、その手を離してくれると――」
「なんで?」
「あの、ちょっと恥ずかしくて」
「でも、初めての学校で迷子になっても困るでしょ?」
「ま、迷子って、私はそんな迷子になんか――」
「ならない?」
「なら――」
そういえば
あの時間は本当に幸せだった。あの子は何の予備知識もなく接してくれたから。まるで、今の爽君
のように。
その少年をひなたは
焼いてしまった――その記憶がまた明滅するようにフラッシュバックする。
保健室、体育館、視聴覚室、家庭科室、職員室、そして図書室と案内してくれる爽君を見やりながら。
その間に。
実験室の白で覆い尽くされた、研究室のイメージが、何度も何度もノイズまじりでクロスフェードしていく。
あの子の笑顔と、爽君の笑顔が重なるのはどうしてか。
何の気なしに、爽君が制服のシャツを少し捲った。
見えた。深く焼きついた痕が。爛れた火傷が目に焼き付く。
(ウソ?)
私は息を呑む。
それは間違いなく、灼かれた痕だった。
あの少年と水原君が重なる。焼かれてなお、苦悶の顔を浮かべながら、それでも笑顔を絶やさなかった彼。あの笑顔が今も頭から離れない。
「……ご、ごめんなさい――」
口を抑える。感情が制御できない。どうしたら? どうしたら? どうしたら? このままじゃまた爽君を焼いてしまう。また傷つけてしまう。
(壊してしまう――)
私は衝動的に、爽君の隣から逃げ出したんだ。
■■■
慣れない校内をガクシャラに走り回っていた。もうどこを走っているのか分からない。運動不足で酷使した体も心臓も気管も悲鳴をあげている。それでも、足を止めることができなかった。
やっと見つけた居場所。そんな場所を壊してしまったのは過去の私自身。
泣きたい。泣けない。泣きたい。
(私はバカだ――)
どうして、一瞬でも同じ高校生として、生活ができると夢見てしまったのか。
すべてがガラガラと崩れていく。
もともと、渡すに居場所なんか無い。
私は距離を置く。誰かに疎ましく思われるか、いないものと片付けられる。今まで繰り返してきたことを、また繰り返すだけだ。
(でも、変じゃない?)
これだけ心が揺れているのに、今のところ
(どうして?)
でも、心は揺れている。感情は押さえられない。涙になって、溢れて。押し止めることがどうしてもできない。
(やっと居場所を見つけた気がしたのに――)
あてもなく学校の中を歩く。ただ、当たり前にみんなと話しがしたいのに。その勇気を少し貰ったのに。
今日一日の事を思い出して、時間よ戻ってと思ってしまう。
なんでだろう、外から来た人間なのに。みんなが暖かいと感じてしまうのは……?
やっぱり水原爽という男の子を中心に、あのクラスは回っている気がする。
でも、彼を灼いたのは宗方ひなた。
遺伝子研究特化型サンプルl【限りなく水色に近い緋色】
その現実は変えることはできない――。
「見つけたッ」
もう耳慣れた声に、私は目を見開いてしまう。
息を切らしながら、爽君が駆けてきた。
誰もいない体育館で、爽君の足音がやけに響く。
「何で逃げるの? 俺が何かした?」
とん。気づけば、背中にはステージ。もう行き止まりだった。
「な……何もしていないけど……」
言えない。私があなたを焼いたサンプルです、なんて。
「だったら何で?」
「来たら、ダメ――」
「だから、どうして?」
爽君は、一歩一歩、歩んでくる。ゆるやかに。穏やかに。
ただただ、私との距離を詰めてくる。
もう息遣いが聞こえそうなくらいに。頬と頬が触れてしまいそうなくらい、私と爽君との距離は近かった。
「思い出したから。私があなたを焼いてしまったから……」
言ってしまった。懺悔しても許されるわけがなかった。私は唇を噛んで――。
「え?」
爽君は目をパチクリさせる。
「へ?」
二人の反応が微妙に違う。視線を逸らしたいのに、私は、彼の双眸に吸い込まれそうだった。
「……違うの?」
なんとか、そんな言葉を紡いで。
私は爽君を見やる。彼は満面の笑顔を浮かべ、私を見ていた。
「違わない」
爽君が言う。肯定――私は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「君と過去に会ってるという事実なら違わない。俺は君を知っている」
私は目を大きく見開く。
「ずっと会いたかったから」
爽君から漏れた言葉は、まったく私が予想をしない一言だった。
「もしかして、これを気にしてた?」
そう腕を捲る。爛れた焼け跡が肘まで。多分それは全身にわたっているはずだ。私は思わず目を逸そうとして――でも、ぐっと堪えた。
これは、贖罪だ。
私が、目を背けることは許されない。
でも、爽は笑みを絶やさない。
「……私が怖くないの?」
憶えているはずだ。私が水原君を焼いたことを。忘れているはずがない。私が遺伝子研究特化型サンプルであることを。知っているはずだ、私が実験室を潰した事を。私はそれができる【バケモノ】だっていうことを――。
爽君の手が伸びる――私の首へ。
窒息させてくれたらいい。爽君にはその権利がある。彼には苦悶と傷跡を残してしまった。
どう謝罪しても、彼への償いには足りない。
私が彼の人生を奪ってしまったようなものだから。
そして未だ制御できない
自分の意思とは関係なく、また誰かを焼くことになるのだろうか? もしそうなら?――そう考えたら怖い、怖すぎた。
「これでいい」
爽君が微笑む。私の首元には銀鎖のネックレス。爽君が指先で触れる。青い石の礫が妙に際立っていた。
「え?」
「忘れてないか? 俺も遺伝子研究特化型サンプルだってことを。実験室にいたんだよ、俺?」
笑みを絶やさず、言葉を続ける。
「火傷ならたいしたことないよ。
この人は何を? ナニを? 私の思考はクルクル回る。爽君が紡いだ言葉の意味が理解できない。
「ずっと探していたってことだよ」
爽君はニッコリと笑って言う。
混乱する私に向けて、爽君は優しく手をのばし――。
気付けば、私はその手に触れていた。
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