第4話 転校生
「水原君、ありがとうね」
「どういたしまして。それじゃ、俺はこれで」
担任の教師に向けて、ペコリと彼は頭を下げた。一瞬、彼と目と目があう。彼はまるで私を安心させるかのように、ふんわりと微笑んで――それから、そのまま踵を返して、職員室を出て行ってしまった。
「あ……」
ありがとうを言いたかったのに、彼は何でもないと言わんばかりに去っていってしまった。彼の柔和な空気感のおかげか、構えることなくココまで来ることができた。
でも、やっぱり「ありがとう」を言いたかった。どうしてもそう思ってしまう。
そんな私を見て、担任教師がふんわりと微笑んだ。
「同じ学校だから、きっとまた会えるわよ」
そう教師に言われて、私はコクコクと頷く。
(もう一度会いたい――)
そうしたら、その時は、ちゃんと「ありがとう」を言おう。
これは誰にも言えないけれど、
(暴走しなくて、本当に良かった)
心から、胸を撫で下ろす。
「それじゃあ、改めて。私は
「あ、はい。宗方ひなたです。改めてよろしくお願います!」
私は緊張のあまり、最敬礼で頭を下げていた。
簡単なレクチャーを受けているうちに、すでにホームルーム開始の時間となってしまった。学校内は、しぃんと静まり返っている。こん、こん。私達の歩む足音がやけに廊下を反響させる。
「先生、私が迷って遅くなったから。本当にすいませんでした」
「ん? 時間通りに来てくれたよ? 私のおしゃべりが長くなっちゃったから、むしろ、こっちがゴメンね?」
ニコニコ笑って言う。確かに学食のオススメメニューの紹介で終わってしまった。タルタルチキン南蛮定食は美味しそうだったけど……。
(そうじゃなくて!)
――折角だから、初日は学食で食べてきたら? その方が友達と仲良くなれるかもね。
朝、お母さんに言われてそう頷いてみたものの、よくよく考えれば学生食堂まで行き着く自信も、そもそもクラスメートとのファーストコンタクトをとる自信もなかった。
(最悪は、お昼ご飯抜きでも――)
そんなことを考えていた時だった。
かつん。
かつん、と。廊下に足音が響いた。
■■■
「ある程度、在校生の試験は終わったんじゃなかったのか?」
「……定期視察だ。見逃したデータがあるかもしれねぇだろ」
「AIが見逃すか?」
「こっちが抽出条件を間違えば、AIだって間違う。こちらから、
「シリンジの【懐刀】はそういう意味じゃ、興味深かったな」
「ビーカー……流石は特化型サンプルの開発者ってか? 随分と、余裕じゃねぇか?」
「そんなことはない。面白い実験ができたらって、常に思ってる。最近、ちょっと退屈だからな」
「……この実験狂が」
■■■
担任の先生が頭を下げる。慌てて、私も頭を下げるが、意に介すことなく、白衣姿の二人は通り過ぎていった。
喉がヒリヒリする。
一人は知らない。でも、もう一人の声に聞き覚えがあった。
ドクドク、心臓が胸を打つ。実験室で、私は彼に会っている。
その時のことを思い出そうとして。
頭が痛い。
瞼の裏側、砂嵐が舞う。
ただ、幾つかの映像。
あの日。彼を焼いた日。
実験室を焼き尽くした日のことを、かろうじて思い出す。
頭が
(……でも実験室は、もうなくなったんじゃ――)
ゴクリと唾を飲み込む。気付けば、爪が食い込むくらい握りこぶしを作っていた。
だいじょうぶ。
大丈夫。
指先から、火種は生まれていない。火の粉も舞っていない。
「せ、先生、今の人達って……?」
「あ、そうか。宗方さんは知らないよね。ココは教育特区だから、大学の研究機関の人や企業の人達が、優秀な人材がいないか視察に来るのよ。あの人達は、特殊遺伝子工学研究所の研究員さんだったかな? 宗方さん、は、遺伝子工学とか興味があるかしら?」
私は全力で首を横に振った。
(特殊遺伝子工学研究所……)
心のなかで、反芻した。間違いなく、あの実験室の正式名称だ。唾を飲み込んで、平常心を維持するように努めた。できれば、もう実験室とは関わりたくない。
強くそう思う。
ぐっと、作った握りこぶしで胸を抑える。自分の感情が不安定なことを自覚する。動悸が早い。自分の顔から血の気が引いていくのを自覚した。
よかった、
――材料の選別をしなければ、研究は始まらない。
――光栄に思え、研究材料ども。
――
シリンジ。間違いなく、あの人だ。実験室の研究者。
また、だ。
また。
あの声が、炎が踊り狂う音が――まるで雑音にも近い悲鳴と絶叫が。あの子を焼いたあの日のことが、目蓋の裏側、今度はで鮮明に再生された。
「……さん……たさん……むな……さん……宗方さん?」
思考を囚える幻影は消え、現実に引き戻される。先生がひなたのことを、心配して覗き込む。
「大丈夫? 顔が青いよ?」
「あ、は、はい、だ、大丈夫です……」
慌てて、心に鍵をかける。いけない、そう自分に言い聞かせた。
いつも心が乱れた時に、
すると、問題なく点火した。先生にバレちゃいけないと、私は慌ててその火をかき消す。
(自分のことなのに、まるで分からない――)
小さく息をつくと、先生がニッコリ笑う。
「それじゃ、みんなに紹介するからね」
気付けば、もう教室の前。私は心の準備が何もできていない。
深呼吸をする猶予もまるでなく。
先生は、教室のドアに手をかけたのだった。
■■■
ドアが開け放たれた瞬間、私語で賑やかだった教室内が一瞬、しぃんと静まり返った。
「お待たせー。そして、おはよう! 転校生の子、可愛いよ! みんな期待して!」
「へ?」
この先生はいきなり、何を言って――。
予想もしていなかった言葉に、私は頬が紅潮する。そして瞬く間に全身が熱い。
「やん、ちょっと。その反応、可愛すぎ!」
「むしろ新鮮。恋人を前提に友達からお願いします!」
「バカ。そんなことを言ったら、かえってドン引きじゃん」
「まずは私らと友達なろうよ!」
弾けるような歓迎の声。
「え、え?」
いつも、気味が悪いと嫌煙されるか、そもそも相手にされないか。そのどちらかだったのに、このクラスは最初から私のことを肯定してくれていると感じる。
と、私を優しく見る眼差しに気付いた。
ふんわりと微笑んで。
他の子のように、言葉にはしないけれど。
なぜか。
その笑顔が、大丈夫だよ。そう言ってくれた気がした。
私は思わず、目を丸くする。
朝、学校まで案内してくれた彼だった。教室の後ろで、小さく手を振ってくれている。
私は、彼に向かってコクンコクンと頷いてみせた。手を振り返す勇気は、とても無い。それが私にできる精一杯で。
それだけ。ただそれだけなのに。
どうしてなんだろう――?
私の胸のなかで、ずっと燻っていた不安。
そんな憂いの感情が、不思議と波が引くように掻き消えていったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます