第5話 急変、そして衝撃の発言
今月の勤務はなかなか厳しく、次の夜勤はすぐにやってきた。夜勤をすると自ずと次の日はお休み、その次も休日になるように勤務が組まれているのだが、今回は夜勤明けの翌日休みの次に夜勤、という不規則なシフトとなっていた。
今日のシフトの相手は吉川、遅出の職員に体調不良が出たため、日勤帯のサービス担当責任者の高遠健吾が残業をして対応することになっている。利用者の夕食も終わり、それに繋がる排泄介助、口腔ケアも終わって、辺りは幾分静けさを取り戻している。冷房の効いた館内は、訪問がない夜間帯むしろ寒さを感じるくらいであるのに、高遠は
「いやあ、暑いねえ」
と十分に一回は口にしてやたらと額にハンカチを当てている。
「それにしてもこの間は大変だったみたいだね」
急に話題を振られて何のことか分からず瞬きをする。
「ほら、一個前の夜勤。松山さん朝までずっとエレベーターを行ったり来たりして大変だったって聞いたよ」
「ああ」
小夜子はようやく合点がいき大きく頷いた。
「そうなんです。エレベーターを行ったりきたりしてたわけではないんですが、一階に降りてきては『もう朝ご飯の時間かしら』って何度も。コールも頻回で『どうしました?』って訊くと、『どうってわけじゃないけど寂しくなっちゃって。皆静かね』って。私が夜勤のときで多分一番とまではいかないにしても、それに並ぶぐらい壮絶な夜でした」
「はは、そりゃ大変だったね」
高遠は同じ言葉を繰り返して汗を拭っている。もはや暑くて流れる汗なのか、冷や汗なのか分からない。そこへ夜間の消毒をしていた吉川が作業を終えて戻ってくる。
「でも珍しいですね」
先ほどの話が耳に入っていたらしい。自然と会話の中に紛れ込んだ。
「珍しいですかね。松山さんが不穏になられるのは最近よくあることに思いますけど」
「いや、だって夜勤のペアは河野さんですよね」
「ええ、それが何か」
「僕の記憶のある限り、河野さんの夜勤のときは基本的に静かです。日中は不穏な利用者も、なぜか河野さんの夜勤の日は落ち着いて眠っておられることが多いように思うんですが」
吉川が同意を得るように高遠を見たが、相手は苦笑しながら頭を振った。
「僕に訊かれても分からないな。夜勤がないから」
サービス担当責任者は、利用者の介護支援の計画を立てるケアマネジャーへの連絡調整や、利用者に関わっている他事業所の管理者などと密に連携を取る職種のため、基本的に夜勤はしてはいけないことになっている。サービス担当責任者が多数いる職場ならいざしらず、この事業所で唯一の責任者である高遠が夜勤ばかりして、日中に不在となると事業所の運営に大きな影響が出るためだ。
「いやあ、河野君、利用者さんに睡眠薬でも盛ってるんじゃないか?」
高遠が責任者とは思えぬブラックジョークを口にしたため、二人はどちらともなく彼を睨み付ける。
「河野さんはそんなことをする人じゃありません」
強く言ってから、なぜ自分がそこまでむきになって否定する必要があるんだろうと小夜子は自分ながらおかしく感じた。
「いや、冗談だって。僕だって本当に河野君がそんなことしてるとは思ってないよ」
ハンカチを額から離して手振りを交えて否定する。
「いや、本当に思ってないよ」
繰り返したことで却って変な空気が漂ってしまい、高遠は
「いやあ、しっかし暑いなあ」
とまたハンカチを頭に当ててお手洗いへと行ってしまった。
小夜子はその後ろ姿から目を離すと
「でも言われてみれば確かにそうですね」
と呟いた。
「確かに吉川さんのおっしゃる通り、河野さんとの夜勤の日は何も起こらない気がします。河野さんっていつもふざけているのに、夜勤のときはものすごく無口で時々その静けさにいたたまれなくなって、誰かコール押さないかな、なんて思ってしまうくらい。本当吉川さんに言われて今気づいたんですけど」
「でしょう?僕そういうのは信じる質なんです」
「そういうの?」
「ええ。よくありませんか?この勤務者が勤務日の時にはよく利用者さんが亡くなるとか」
「吉川さんまでそんなこと言うんですか」
「いや、僕はそっちの方は信じていないです。年齢を重ねれば何が起きてもおかしくないし、そういう不幸に鉢合わせることが偶然重なることもある。でも勤務する人間によって利用者さんが何だかそわそわして寝付けないとか、それとは逆に穏やかに夜を過ごすとかそういうのあると思うんですよ」
「はあ」
「僕が思うに、河野さんは後者の人ですね。河野さんがいる日は皆落ち着いて眠っている」
「……皆さん騒ぐと、河野さんに怒られるかもって怖くて静かなのでは」
「あはは、一ノ瀬さんもなかなか言いますね。ま、その説も完全には否定できませんけど」
否定できないんだ、と小夜子は心の中で苦笑した。
でも確かに河野は利用者を起こさないように細心の注意を払っていた。必要最低限の会話しかせず、言葉を交わしてもできるだけ小さな声。そういう気遣いがさりげなく利用者にも伝わっているのかもしれない。そのことを告げると吉川はさして驚いた様子もなく頷いた。
「それは僕も一応気を付けてはいますね」
小夜子は無意識に顔を吉川とは反対方向に背けた。
(もしかして声量について意識していないのは私だけでは)
「でもそれは一ノ瀬さんもでしょう?」
心の声が口から出てしまっていたのかと思い慌てるがどうやらそういうわけではなさそうだった。
「私は恥ずかしながらあまり意識していませんでした」
「え、でもいつも夜間帯は小さな声ですけどね」
ということは自分は無意識に音量を調整していたのだろうか。結果的に利用者の害になっていなくて良かった、と胸を撫で下ろしていると
「それで、河野さんと何があったんですか」
吉川がこちらに体ごと向き直っている。
「え?」
「何かあったんですよね。松山さんが不穏になってしまうような出来事。僕は河野さんとの夜勤の日は、自分の中でラッキーデーと名付けているくらいなんです。平穏無事で事務仕事も進みますし、下手したら少しは資格の勉強もできるくらいです。少なくとも業務日誌には取り立てて他のことは書かれていませんでした。他の利用者が急変したとか、そういったことはなかったわけでしょう。だとしたら一ノ瀬さんと河野さんとの間に何かあったのかな、って」
この男のことをシャーロックホームズと呼んでいたのはあながち間違いではなかった、と彼女は思った。
「吉川さんって資格の勉強されてるんですね。ケアマネですか」
「話を逸らさないでください」
有能な検察官に調べられている気になって閉口する。小夜子は大きなため息をついた。吉川は椅子を引き態勢を変えてデスクの方へ向き直る。
「別に言いたくなければ構いません。無理に聞こうというわけではなくて、僕もちょっと興味が湧いてしまって。変な野次馬根性でしたね。すみません」
「いえ。……実は河野さんと言い争いをしてしまったんです。それでその声が松山さんを起こしてしまったんじゃないかと思うんです」
「言い争いを?」
吉川は姿勢はそのままに顔だけをこちらに向けて小首を傾げた。
「でもそれで起こすことはないんじゃないかな。松山さんは三階の利用者でしょう。いくら言い争っても三階までは届かないんじゃないかな。それに二人の夜間の言い争いは、争うと言ってもゴキブリが這い回るぐらいの音しか出てないと思うし」
文学作品をこよなく愛する割に、例えがいつもややこしい上にセンスがない。
「さすがにゴキブリが這う音よりは大きいと思いますが。でも三階までは聞こえないですよね。だから私もすごく不思議というか、でも自分たちのせいでもある気がして、あの日は色んな意味で胸がざわついたんです」
「そうでしたか。……それで、河野さんとは何をそんなに言い争ったんです?」
「……会話の流れで、どうしてこの職種に就いたのか。河野さんに聞いたんです」
「その答えは僕も興味があるな。河野さんは何と?」
「それは……」
答えて良いかどうかというよりも、口にしたくなかった。自分が訳も分からず傷つけられた回答を、状況を知らない吉川に教えてしまってよいのか。もし自分の言葉で河野に妙な悪印象がついてしまったらどうしようかと小夜子は逡巡する。あの答えは河野の本心ではない、とどこかで信じている自分がいる。だとしたら本当のことではないから言ってしまっても構わないのか。
「いいです。一ノ瀬さんと河野さんの秘密に、僕が立ち入るべきではありませんでしたね」
「別に秘密なわけでは」
誘導されるようについ言葉が口をついて出た。
「あまりいい感じの返事ではなかったんです。でもそれは河野さんの本当の気持ちではない気がしたので、私ちょっと食い下がってしまって。そしたら河野さん急に、本当に豹変したみたいに怒りだして」
「河野さんが豹変」
吉川が感情をなくしたように棒読みする。
「あ、でも怒り出したのには何か理由があったような。あの時私河野さんのことを思いっきり『嫌いです』って言ったんです」
「それは……」
吉川は左手を額に当てて下を向いた。
「あ、それに、私、吉川さんの名前を出しちゃって。そしたら河野さんまた怒り出して」
「え、僕の名前を?」
「はい。吉川さんだったら誠実に答えてくれるのにって」
「それは……」
今度は左手の人差し指をこめかみに当てて頻りに掻いている。
「あ、でも、特に他意はないんです。何というか吉川さんて真面目じゃないですか、その代表格っていうか。何であんなに怒ったのかなあ」
「それは……」
今度は両手を膝の上に落として、茫然と天井を仰ぎ見ている。
「私かなり失礼なことを連呼しちゃってますよね。失礼ですよね。ああ、それは河野さん怒るよ。もう自分が恥ずかしいです。というか、何ですか吉川さん。さっきから。それは、それは、ってゼンマイ仕掛けの人形じゃあるまいし」
「あ、いや」
吉川は一度正面を見つめてから、再び視線を小夜子へと向けた。
「それは河野さんにはきつかっただろうな、と思って」
「そうですよね」
「あ、そういう意味じゃなくて。他の誰でもなく、一ノ瀬さんに言われるとちょっと」
「どういう意味ですか!」
きっと睨みつけると、吉川は左手で頭を掻いた。
「だって言っちゃったんでしょう。嫌いですって」
小夜子は小さく顔を縦に振る。
「いや、僕も今日はショックだったけど」
「え、どのあたりが?」
「いや、まあ僕のことは置いておくとして。河野さんにはきちんと謝ったほうがいいかもしれませんね。一ノ瀬さんが全部悪いとはけして言いませんけど」
「そうですよね。……吉川さんありがとうございます。やっぱり吉川さんに話を聞いてもらって良かったです」
ぱっと顔を上げると、吉川が打たれたような顔をして小夜子を見つめている。
「どうしました?」
「あ、いや、何となく河野さんの気持ちが分かるなと思って」
「?」
「何でもありません」
「あ、私自動扉閉めてきますね。そろそろ高遠さんも帰る時間だし」
急に席を立った小夜子には、続けて言った吉川の
「……一ノ瀬さん、そういうところですよ、河野さんに彼らしからぬ行動をとらせるのは」
という台詞は耳に入ってこなかった。
玄関先のスリッパを整え、ついでに消毒液の残量を確認したり、乱れた受付名簿を直したりする小夜子の後ろ姿を見つめながら
「そういうところですよ」
と吉川は自分にだけ聞こえるような声で繰り返したのだった。
午前5時過ぎ。ここまで来ると長かった夜勤にも終わりが見え始める。そして最後の大仕事、利用者の朝の介助が目前に迫ってくる。全利用者を朝食までの時間に回りきることは不可能に近いため、少しずつ排泄介助等を行っていく。小夜子は詰め所に近い重度の利用者から見回っていき、吉川が三階から見回りを行うことにして、二人はPHSを各自持ったまま移動した。
二つ目の部屋へ移動し、排泄の確認がちょうど終わったとき、ピッチが鳴り響き、小夜子は慌ててボタンを押した。
「はい、一ノ瀬です」
「一ノ瀬さんバイタルセットを持って急いで榊原さんの部屋に来てください」
何か只ならぬことが起きたに違いない。間を空けず話し出した吉川の声色で悟った。
「分かりました。すぐ行きます」
「外部用の携帯電話も持ってきてください。急いで」
言うだけ言うと通話は途切れた。
小夜子は詰め所に速足で戻り、バイタルセット、血圧計や体内の酸素飽和度を図る器具などがひとしきり入った籠を持ち出す。詰め所に置いている携帯電話を掴んで駆け出そうとしたとき、
「何があった」
左側方から声がして振り返ると河野であった。
「河野さん!榊原さんが」
最後まで言わないうちに、
「分かった、早よ上がれ」
「はい!」
小夜子は打たれたように駆け出した。休むことなく階段を駆け上がり、部屋の前の扉を開けると床に転がっている榊原に、吉川が大きな声で名前を呼んでいるところであった。
「一ノ瀬さん、バイタルを測って」
一瞬動きを止めてしまった小夜子に吉川が畳み掛けるように告げる。
「大きな物音がしたんです。来たら床に。榊原さん、聞こえますか。榊原さん!」
「駄目です、測れません」
「出血は?」
最後の問いは背後から聞こえた。
「河野さん」
吉川は一瞬だけ止まったが、すぐに応じる。
「ありません。もしかしたら転倒の際に頭を打った可能性はありますが」
「ちょっと代わってもらえますか?」
「はい、お願いします」
河野は榊原の口元に耳を当て、それから手首を取って脈を確認し出した。
「看護師に連絡は?」
「まだです。今状況を確認したばかりなので」
「すぐに連絡を。今日の待機は亀谷ナースでしょう」
「分かりました」
「それから吉川さんはAED取ってきてください」
「分かりました」
小夜子はすぐに外部の携帯電話を取り出し、看護師に繋がる短縮ボタンを押す。
「明け方だからか、繋がりません」
「何しとんねん、カメのやつ!」
苛立ったように吐き捨てる河野は既に榊原の心臓マッサージを行っている。河野が心臓マッサージを続け、吉川が運んできたAEDを開けようとしたときだった。
榊原がむせ返るような咳をして息を吹き返した。
「榊原さん!」
呼ばれた当人は顔面蒼白のまま応じる元気もない。必死で酸素を求めて喘いでいる。そのとき携帯電話が鳴った。
「はい、もしもし。亀谷さん!今榊原さんが」
小夜子が話し出す途中でその携帯電話を河野が奪い取った。
「遅いわ、カメ!何しとんねん!」
電話の向こう側で、すぐに掛け直したわよ、と亀谷看護師の声が聞こえている。
「お前が電話出えへん間にこっちは危篤や。ヘルパーにすぐ指示出せるように待機せえよ。とにかく救急車呼ぶで」
そのまま電話を持ったまま部屋の外に行ってしまう。
小夜子と吉川は榊原の呼吸が落ち着くのを待って、無理のない態勢でなるべく動かさないようにしてから河野を待った。程なくして河野は戻ってくると
「榊原さんはどうですか」
尋ねた。
「だいぶ呼吸も落ち着いてきています。顔色も先程よりは」
「そうですか。これから救急車呼びますので。俺乗っていきます」
「でもサ高住の職員は別に同乗しなくても良いと聞いた気が」
「そうは言っても応急処置もしてるし、榊原さんには家族さんが」
皆まで言わなくても二人は納得した。
榊原は単独この建物に住むことを決めたが、彼にはこれと言って身内らしい身内もいなかった。何が原因で心臓が停止したのかは分からないが心細いのは間違いないであろうし、最初の発見者は吉川であったにせよ、この場合は応急処置をした河野が適任かもしれなかった。
「分かりました。お願いします」
「管理者には連絡入れたんで。吉川さん、悪いけど、ヘルパーの情報提供書の件と今日朝俺のいない間の業務の割り振りをリーダーにお願いしてください。今日は早出二人の日やから、朝一は困らんと思うけど」
「分かりました。……河野さんがいてくれて助かりました。ありがとうございます」
「いや、別に。それより俺は搬送に関する動きをするので、それまで吉川さんはここで待機でいいですね」
「ええ」
「一ノ瀬さんはいつも通りの動きを。時間がだいぶ押してる。手伝いたいけどそういうわけにもいかんしな」
「はい、分かりました」
あまりにてきぱきと指示を出されて、先ほどまでの緊迫した場面がまるで夢の中の出来事だったのではないか、とさえ思えた。小夜子が一階に降りて三番目の部屋の介助を行っていると遠くからサイレンの音が聞こえた。それから次の部屋の介助が終わって出てくると榊原がストレッチャーに乗せられてエレベーターから降りてくるところだった。その後ろを付いていく河野と吉川。
そしてその言葉は不意に訪れた。
「なんで助けた。……何でこのまま死なせてくれなかったんだ」
大きな声ではなかった。でも不気味なくらいによく通る声で榊原は呟いた。声の大きさとは真逆に、その台詞は辺りを恐ろしいくらいに震撼とさせた。
一同が動きを止めたのは一瞬だった。
救急隊はすぐに榊原を車の中へと運び、榊原個人の名前や病状、事態の状況に関する説明を河野に求めた。河野は淡々とそれに答える。
ただ小夜子にはその横顔が今までに見た、どの河野とも違うように見えた。頬が強張っている。でもこれは以前自分が怒らせてしまったときに見せた河野の強張った表情とは別物であった。
「河野さん!」
思わず叫んでから、この後に何を繋げれば良いのか、自分でもよく分からなかった。
河野は強張った頬を少しだけ緩めると
「大丈夫や、早出は二人おるって言うたやろ。吉川さんも手が空く。大丈夫や」
そのまま救急車の助手席に乗ってしまった。
「そういうことじゃない」
そういうことじゃないのに。
ではどういうことを言いたいのか、やはり分からなかった。長い長い夜勤が終わっても、その日はいつものようには寝付けなかった。
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