第4話 近づきそうで縮まらない二人の距離
報告書を書こうと考えていた夜勤は思ったよりも早くやってきた。しかもその日は不運にも先日その業務を妨げてきた河野との勤務日であった。
今度は何を言われるのだろうかと怯えていたが、予想に反して河野は特に作業に水を差すような言葉は発さなかった。黙々と記録の確認や次の行事の準備を行っている。それがかえって物足りなく感じて、小夜子はついつい河野のほうを見やってしまう。別に邪魔されたいわけではないのだが、普段が普段だけに、無言でいられるとかえって落ち着かない。できる限りの集中力でパソコン画面を見つめる。何度か文章を打ち直してようやく思うものができ、印刷ボタンを押す。コピー機に書類を取りに行こうとして彼女は食堂のテーブルで作業に勤しむ河野に視線を向けた。
どうやら来月の敬老の日に関する行事に向けて、お祝いのカードを作っているようだ。真剣な眼差しで色紙にはさみを入れている姿はいつものふざけている河野とは異なり、声を掛けづらい。小夜子は見ていなかったふりをして通路奥のコピー機へと向かった。
印刷物は予期に反して思ってもみないところで改行して二枚出ている。一枚でおさめなければならない資料が妙なところで切れていまい、頭を抱える。こういう時はパソコン操作に詳しい人間に聞くのが一番で、まさにその詳しい人間が今ここにいる。ただし教えてもらうには皮肉めいた台詞を一、二聞かなければならないのは必須だ。どうしようかと考えていると思っていた人物がやってきた。
相手はコピー機までやってくると印刷物を確認する。大きく頷くと印刷物を片手にその場を去ろうとする。
「あ、あの、河野さん!」
自分でも思ってもみなほどの大きな声が出て、小夜子は唇を噛んだ。
河野は言葉を発さず、視線だけで何の用だと尋ねてくる。
「あの、モニタリング印刷したんですけど、変なところで二枚になってしまって」
今度は蚊の鳴くようなか細い声。相手は目を細め首を右に傾ける。暗にもう一度言えと促されているのが分かって、慌てて右手で握っていた紙面を差し出す。
口を開く前に
「ああ」
河野は納得したように頷いた。
「それやったら印刷範囲が間違ってんねん。ページレイアウトのタグの中の印刷範囲の設定を一回クリアにして」
ここまで言って小夜子が理解していないことを悟ったのか口を噤む。首の動きと目線だけで付いてくるように指示して速足のまま詰め所へと戻る。パソコン前の椅子を大きく後ろに引いて座るように促す。小夜子は大人しく席についた。河野はその横の椅子に腰かけるとマウスを右手に操作を始めた。
「ええか?まずここをこうして、次にここを押す。そうすると今までの印刷指定が消える。それからもう一回こうやって設定し直す」
「はい」
流れるような説明にあまり理解できていないにもかかわらず、見栄を張ったような返事をしてしまう。河野は何度がマウスをクリックしてから
「あかんな」
と零した。
もしや分かっていないことに気付かれたのかと焦るがどうやらそのことではないらしい。
「これでも二枚になるっちゅうことは。……しゃあない、地道に行の高さを狭めるしかないな」
呟いて何やらマウスで選択したり打ち込んだりし始めた。
「これで何とか入りそうやな。ほら」
体を少しだけ左にずらして、小夜子に画面を見せる。何がなんだがよく分からないが作業がうまくいったことだけは理解できた。
「ありがとうございます」
言って再び印刷機のほうへ向かう。思った通りの出来栄えになってようやく今月の仕事が終わったかと思うと肩の力が抜けた。
「ありがとうございました。うまく一枚におさまったみたいです」
再度お礼を言って紙面を見せる。
河野は口を半分ほど開けて少しだけ意識の遠のいたような表情を浮かべた。
「河野さん?」
「あ、ああ。いや、別にこれくらいのことでそんなに感謝されるとは」
「だって私パソコンあんまり得意じゃないんです。若いからできるでしょうみたいな雰囲気あるから、ちょっと言いづらいんですけど」
「……しゃあないな。もう一回座り」
河野は気を取り直した様子でパソコン前の椅子に手を掛けた。
「さっき俺がやったやつもう一回自分でやってみ」
「え」
言うなり画面を先ほどの失敗作へと戻してしまう。
「印刷範囲の設定からな」
「え、そこからなんですか」
「そら、そやろ。ええか、人にばっか頼って自分で動かへんからいつまで経っても覚えられへんねん。自分の指に記憶させるんや」
「そんなあ」
「情けない声出したかてしゃあない。早よやり」
鋭い目つきに仕方なくマウスを握る。記憶を辿って画面をクリックしてみる。
「そこちゃう。一段下や」
何回か注意を受けてからようやく訂正後の画面に辿り着いた。思わず長いため息が漏れる。
「出来たやん、上出来」
「ご指導ありがとうございます」
「こんなん指導言うほどでもないけどな」
河野がふっと笑みを零す。まるで小さな子どもの成長を喜ぶ保育士のような表情に小夜子は息を呑んだ。
「河野さんってそんな顔もするんですね」
「は?」
途端に眉間に皺が寄って、自分の余計な発言に後悔したが、河野からはそれ以上何も返ってこなかった。
「それより消毒の時間ちゃうの?」
相手の視線に柱に掛かった時計を見やると午後八時を指している。
「きゃっ、いけない!」
慌てて立ち上がって処置室へと移動する。振り返ると河野は何事もなかったかのように再び食堂へと歩いて行った。意地悪なのか、優しいのか全くよく分からない人だ。
昼から作ってある消毒液を容器に入れ干してある布を掴む。今から十年近く前に流行った新型コロナウイルス感染症、そのときから定期的になされている一日数回の消毒はウイルスの流行に人々がさほどの関心を示さなくなった今でもルーティンワークとして取り入れられている。ひどい時は一日に十回も消毒をして回ったという話は、いつだったかサービス担当責任者の高遠から聞いたことがある。全館の消毒が終わったかと思うと、その数十分後に誰かが消毒している。そんな異様な光景があったのだと、当時まだ介護士をしていなかった小夜子にはまるで本の中の話を聞いているような感覚になりさえする。当時学生だった自分もマスク生活を強いられ、急に全てが解禁になった生活に困惑したことは覚えている。進学は地元に決めたが、ただそれは外へ出ても良いという突然の許諾に戸惑いを覚えたからというよりは、好んで外に出なかった言い訳に過ぎなかった。
一日三回程度になった消毒は朝・昼・晩と、利用者の食堂利用が終了した頃に行われている。本日最後の消毒を全館三十分ほどかけて行う。消毒液が手すりに伸びて辺りに漂う塩素の臭いが小夜子は好きだった。なんでも洗い落としてしまうような漂白剤の香り。一日の心の汚れを一気に落としてしまえるようなそんな気さえする。
作業が終わって処置室のほうへ向かうと遅出の職員が
「お先に失礼します」
と、爽やかな挨拶を残して立ち去っていくところだった。
「お疲れ様です」
河野が応じてからこちらへやってくる。視線を上げたところ小夜子と目が合った。
「お疲れさん。消毒が終わって早々に悪いけど、俺二階の見回りしてくるからここおってくれる?」
「私三階行きましょうか」
「いや、三階は遅出が見回ってくれてその間に一階の就寝準備も終わってるから。最近不穏な利用者もおるし、詰め所は空けんほうがええ。待機お願いできるか」
「分かりました」
相手は頷いて職員用の階段へと向かっていく。その後ろ姿を見つめながら小夜子は大きく息をついた。利用者の就寝準備が終わり二十一時台後半になると、大きな問題が起きない限りは詰め所は静かな空間へと変わる。時々眠れない利用者が電話の代わりのようにナースコールを連打しない限りは穏やかなものだ。大抵夜勤のときにはコールを押しまくっている利用者からも要請はない。奇妙なくらいに静かな空間に、決して望んでいるわけではないが、物足りなさを感じるくらいだ。
そういえばいつかの夜勤のときも妙に静まり返っている日があったことが頭をよぎった。その日も確か河野との夜勤の日だった気がする。奇妙な偶然だと思いながら、小夜子は大きく伸びをした。昼間職員が訪問して記入した訪問記録に目を通そうと、関係書類を二、三手元に集め、記録を一枚一枚確認する。そうこうしているうちに扉の開く音がして河野が降りてきた。
「ありがとうございました」
「ああ」
短い返事をしてこちらを一瞥すると
「特に変わったことはないか」
聞いた。
「はい。静かなものです。コールもなりませんし、降りてくる利用者もいません」
「そうか」
それから体の向きを小夜子のほうに直してから
「落ち着いてるなら一息入れるか」
と自分の引き出しから何やら包装された焦げ茶色のものを取り出した。
「何ですか、それ」
「コーヒー豆。俺のオリジナルブレンド」
「オリジナルブレンド?」
変に声が裏返ってしまって咳払いをする。
「ブレンドって、河野さんが自分でしたんですか」
「今言うたやろ。俺以外に誰がすんねん」
「はあ。っていうか河野さんにそんな特技があったなんて。コーヒー相当お好きなんですね。好きでもなかなかブレンドとかできないんじゃ」
「ごちゃごちゃうるさいな。飲むんか、飲まへんのか」
小さな声で凄まれて
「いただきます」
小さく返す。
河野は
「ちょっと待っとき」
言うなり職員用の休憩室へと入っていった。しばらくして二人分のマグカップを持って出てくる。
「私のカップよく分かりましたね」
「そりゃ名前書いてあるからな」
言われてみれば簡単なことだ。辺りに香ばしくて甘い香りが漂った。
「いい香り」
思わず呟いてカップに手を伸ばす。
「ありがとうございます」
「ああ」
カップに鼻を近づけて確認すると、いつものインスタントコーヒーとは違う芳醇な香りがする。一口飲んでその味わいに驚く。
「何ていうか、すごくコクがありますね。コーヒーに詳しくない私が言うのもなんですが」
「なかなか分かってる」
「え?」
「これは香りとコクを強めにした配合」
よく分からないが、自分の言葉が相手の満足するものだったことは確かなようだ。
いつもふざけた態度ばかりとっているこの男が、こんな繊細な作業をしているなど信じられない。ブレンドまでしているということは、趣味の領域をかなり超えているはずだ。まかり間違っても機嫌を損ねるような感想は述べられない。下手なことを言おうものなら今後の勤務に差し支えかねない。小夜子は背筋を伸ばしてもう一度コーヒーを啜った。
「本当おいしいです。これは河野さんにしか出せない味ですね」
「今日はやたらとおしゃべりやな。これでも食べて静かにしとき」
急に口の中に何かを押し込まれる。口内に甘みが広がった。
「おいしい!」
甘みの強いチョコレートだ。にんまり微笑んでいると
「話すときはもっと小さな声で」
左耳に顔を寄せて河野が囁くような声を出す。耳の中に息を吹き込まれたような感覚になり、首筋が熱くなる。慌てたように隣を見やると気にした様子もなく河野が体を離したところだった。
「どしたん、いっつもむすっとした顔して必要以上にしゃべらへんのに」
「そんなことはないですけど」
言われてみれば夜間こんなに河野と会話をしたのは初めてに近かった。おどけた調子の河野は日中はつっこみどころ満載で話しかけやすいのだが(とはいえこちらから話しかけることもないが)、夜になるとその様子は影を潜め、背筋の伸びるような皮肉ばかり目立つのでこちらもどことなく話題をふったりなどもしていなかった。今日はなぜ普通に話せるのだろう。きっと勝手に思い込んでいた相手の意地悪な口調ばかりを思い起こしていたせいで、実は親身に仕事を教えてくれる人物だったことに今更ながら気づいたためかもしれなかった。
「河野さんだって今日はおしゃべりですよ」
「基本的に夜間の勤務の日は必要以上にしゃべらんようにしてる。利用者を起こしたら悪いからな。通路ってこっちが思ってるより結構響くんやで」
そう言う河野は確かにかなり声を落として話している。そのことに気付いて先ほどとは違う意味で顔を赤くした。今までそんなことをあまり気にせず普段通りの音量で話していたかもしれなかった。小夜子は大きなため息をついた。
「どしたん」
「私まだまだだな、と思って」
今度はできるだけ小さな声で答えた。相手が問いたげな表情を浮かべたのを見て
「何でもないです」
すぐに打ち消す。何にも考えてなかった、などととても恥ずかしくて言えなかった。たった三年しか違わないのにどうしても縮められないような距離を感じて閉口する。
「河野さんってどうして介護士になったんですか」
自然とその問いが口をついて出た。
河野は左の眉と目を少しだけ上げて完全にはこちらを向かないままに
「知りたい?」
と尋ねた。その答え方がなんとも言えず甘美に映って、小夜子は慌てて顔を背けて正面を見据えた。
「河野さんはいつもちゃらちゃらしていて仕事とか真面目にしそうにないのに、ここぞという場面ではきっちりしていて、ただ一生懸命しているだけの私にはとても追いつけそうにないところがあるというか。でも不思議と悔しいという感情も沸いてこなくて。今もそうです。今日のは私だけだとは思うけれど、でも、他の誰かが気付かないようなさりげないところに手を差し伸べてくれる。だから皆分かってないけど、そういうのって大事だなって。見えるところだけの仕事じゃなくて、見えないけど、皆が動きやすいように、利用者さんが生活しやすいように働くって簡単そうでなかなか難しいから。そういうことが自然にできる人は、どうしてこの仕事に就こうと思ったんだろう。ただ、そう思っただけです」
気付けば先ほど自分から逸らした視線を上げ、河野を正面から見つめるような体勢になっていた。河野は視線を引き剥がすように顔を逸らすと、掛けている椅子に深く沈み込んだ。
「特に理由なんてない。就職難や、就職難」
はぐらかされた。そう思った。
今しがたまで、他には見せない河野の一面を垣間見た気がしていたのに、肝心なところで避けられたような感覚だった。
「お前らの時はどうかしらんけど、俺らのときはまだなかなかの就職難やってんで。そん時は超高齢社会に突入するかってときやったし、介護はまだ引く手数多。そういうもんちゃうの。本気でこの世界目指してくる奴もおるやろけど、生きてくためになりふり構ってられへん。そういう就職の仕方もあるやろ」
河野の口からそんな台詞は聞きたくなかった。きっとものすごく熱い想いがあるのだろうと勝手に予想して裏切られた。何でこんなに傷ついているのか自分でもよく分からなかった。
「お前変わってんな。俺みたいなダメ人間にそんなん、真面目な顔して聞いてきたんはお前が初めてや。普通聞かへんやろ、同業者に」
「そんなことはないと思いますけど。……でも河野さんの場合は何か気になるんです」
「そんな気にされ方は迷惑や」
「何ですか。職業選びの理由を聞いただけでそこまで罵倒されなきゃいけません?」
河野は答える代わりに通路に響くような舌打ちをした。
「やっぱり河野さん嫌いです」
「何やて?」
眉間に皺を寄せ、目を軽く見開いてこちらを見やる。
「訊いた私が馬鹿でした」
先ほど反省した声量を全く忘れ、少し声高に言い捨てる。河野は手の中のチョコレートの包み紙を開くと、また無理やり小夜子の口に押し込んだ。
「にゃんですか」
「黙っとけ」
「吉川さんだったらこんな風に言ったりしません。どんな些細な質問もこれでもかっていうくらい誠実に答えてくれるのに」
「何でそこで吉川さんが出てくるんや」
河野も夜間帯だというのを忘れたのか、日中のボリュームに戻っている。今まで見たこともないほど頬が強張っている。本気で怒らせた。一瞬で分かったが止まらなかった。
「同じ内容でも言い方ってものがあると思うんです。相手を傷つけないような最低限の心遣いとか。そういうのないんですか」
「……悪かったな、吉川さんみたいな心遣いがなくて」
言うなり椅子から立ち上がり食堂のほうへと歩いて行ってしまう。
言い過ぎたことは理解していた。ただなぜこれほどまでに苛立ってしまったのかは分からなかった。吉川の事を出すつもりは特になかったのだが、ここ最近会話して一番印象に残った「誠実」の代表格としてつい口走っただけだ。
重々しい溜息をついた途端、目の前にあるエレベーターの扉が開いた。中から歩行器に身を任せた利用者の松山さんが降りてくる。
「松山さん、どうなさいましたか」
高齢の女性はよろよろとした足取りで小夜子の近くまでやってくると
「だって朝でしょう?そろそろご飯かなあ、と思って」
小夜子ははっとして利用者に近寄る。もしかしたら河野との言い争いが階上まで響いていたのであろうか。
「まだ夜ですよ。ほら外が暗いでしょう?」
「あらあ、本当ねえ。でも誰かご飯だよって起こしに来た気がするんだけど」
「本当ですか、でも、まだ朝ご飯の時間じゃないんですよ。ご飯ができるまでお部屋で過ごしましょうか」
「そうねえ、ご飯がないんじゃ、だめねえ」
松山さんは言われるままにまたエレベーターの中へと歩みを進める。
「河野さん、私三階に上がってくるので」
返事はなかった。
小夜子は構わず中へと足を踏み入れる。恐らく自分たちの声が聞こえたわけではないだろうが、こんな夜間に職員同士で喧嘩じみたことをして声高になってしまったことが申し訳なく感じられた。無意識に松山さんの背中を優しく擦って三階へのボタンを押す。
「あなたも大変ねえ」
「え?」
「こんな夜中にお仕事なんて。若い女の子が危ないわ。本当に早くおうちに帰らないと」
「私は今日は泊まり込みの職員なので大丈夫ですよ」
「そうなの、大変ねえ」
「いえ、お気遣いありがとうございます」
一瞬静かな時間が流れた。そして
「ねえ、そういえば朝ご飯の時間でしょう?皆起こしてあげないといけないんじゃないの?私お手伝いするわよ」
松山さんの台詞で、小夜子は今夜はとても静かな夜にはなりそうにないことを悟るのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます