第3話 薦められた二冊の本とお邪魔虫の不機嫌

楽しみにしていた公休はいつもどうやって過ごそうか頭を悩ますことから始まる。明日は休みだと気もそぞろになりがちだが、いざ何かしたいかというと取り立てた趣味もないので自ずと行動は同じになりがちである。

市立の図書館へやってきてまず覗くのは雑誌コーナー。貸出不可の最新刊をソファーに腰掛けてゆっくり堪能する。ファッション誌を見るのは大好きだが、実際に自分でも購入するかというとそういうわけでもない。基本的に大衆の好みそうなものを見て、大衆の好みそうな食べ物を味わい、大衆の好みそうな言葉を発する。周りから外れないように軌道修正するコツはいつから覚え始めたのであろうか。紙面のモデルが愛用しているハーブティーも真似して注文してみたが、二、三パック飲んでからそのまま食品棚の中に埋もれていた。

「こういうところが駄目なんだろうな」

 横で寝ころびながら新聞を読んでいた中年男性がはっとしたように体を起こした。自分に対して発した台詞が偶然にも男を動揺させたため、小夜子は居心地悪く席を外す。とはいえ、他の書庫に行く予定もなかったため、普段は通らない通路を意味なく歩き回ることとなる。

 ふと先日の吉川とのやり取りを思い出して歩みを止めた。日頃感情を表に出さない人物がかなり興奮気味に語った榊原さん、いや、オキタソウシロウの作品とは一体どんな中身であろうか。急に抑えきれない興味が沸き上がり、小夜子は小説の置いてある書架を探し始める。でも見慣れない分野の棚を探すには、この建物はあまりに広すぎた。こういうときに図書館員に質問をすることができないのも彼女の普段から気にしている欠点である。スマートフォンを出してタッチパネルに「オキタソウシロウ」と入力して検索ボタンを押す。しかし導かれる答えはなかった。「もしかして沖田総司ですか?」と記載される。諦めようかとも思ったが、それでも今の小夜子はそんな小さな自分に打ち勝ってでも、本を手に入れたい欲求に駆られていた。

 勇気を出して声を掛けると、図書館員の中年女性は人好きのする笑顔を浮かべた。

「本を探しているのですが」

「はい、本のお名前お伺いできますか」

「いえ、あの、本の題名を覚えていなくて。オキタソウシロウという人の本なんですが」

「オキタソウシロウ?」

 女性はインターネット検索画面に何やら打ち込むと、

「もしかして新撰組の沖田総司に関しての書物をお探しですか?」

 と尋ねた。

「いえ違うんです。オキタソウシロウです。文学作品を書いている作家さんで、デビュー作の名前は、忘れたんですけど、確かその後の作品は作風を変えてミステリーに転換した人で。有名なシリーズも出ているはずなんですが」

 ついこの間吉川が言ったままの台詞をうろ覚えのまま真似してみる。再び図書館員は真剣な顔で考え始める。顎に手をかけて明後日の方を見ている。と、急に手のひらを叩いて小夜子のほうを見つめた。

「もしかして脇田壮二郎では?」

「!」

 オキタソウシロウ、オキタソウジロウ、ワキタソウジロウ…、脇田壮二郎!どこで間違ってしまったのか。おそらく人生でかなり久しぶりに、かなり勇気を出して発した質問で、かなり恥ずかしい思いをしている。

 今自分はどれだけ赤い顔をしているだろう、と思いながら

「はい、脇田壮二郎です」

 と小夜子は相手の顔を盗み見る。

 図書館員はこんなことには慣れているのか、さほど気にも留めていない様子でキーボードを叩いている。

「脇田壮二郎の本でしたら当館だけでも五十冊近くございますが」

「五十冊!」

 思わす大きな声が出て口を両手で塞ぐ。自分が知らなかっただけで榊原さんは有名な人だったのだと改めて認識して、小夜子は一人頷く。

「どうなさいますか。特にこの本が読みたいなどのご希望がございましたら……」

 相手はそう言うと先程まで見ていた画面を小夜子のほうへ動かして見やすくしてくれた。どれかと言われても、どれも初めて目にするタイトルで困ってしまう。ファミリーレストランのメニューのように、一見して中身が分かれば良いのだが、文学作品ともなればそうはいかない。

「ええっと、人から薦められて読んでみようとは思ったのですが、特にどれを読もうとか考えていなかったものですから」

「そうでしたか。……それでしたら、脇田壮二郎のデビュー作ご覧になられますか、『赤い鳥』」

 そう言えば吉川がそんな題名を語っていた気がする。

「中身を話してしまうと面白くなくなってしまうので多くは語りませんが、いわゆる純文学作品です」

「じゅんぶんがく」

「大衆向けに書かれた作品ではなく、少し堅苦しい感じでとっつきにくいかもしれませんが、あ、と言ってももちろん読み手のことを考えた作品であるには違いないのですが」

 純文学について解説されても、そもそも文学の種類が分からない。

「とにかく脇田壮二郎の作品を読まれるならばぜひ一読される価値がある作品です」

 力強い口調に小夜子は無意識に頷いていた。

「ではその『赤い鳥』を」

「承知いたしました。その他にもお探しですか。脇田壮二郎の純文学作品はその後おおよそ十作ほどあるのですが。ただ純文学作品では先ほどお勧めいたしました『赤い鳥』以外はあまりご存じない方も多いかと。もしご希望でしたら、閉架書庫のほうから取り出すことも可能ですが」

「へいかしょこ?」

「一般にご利用者様が見ることができない、図書館の奥の本棚のことです。あまり借りられなくなった年代物の書籍などが入っています」

「い、いえ、そこまでしていただかなくとも……」

「そうですか……」

なぜか相手をがっかりさせたような気がして小夜子は慌てて言葉を繋げた。

「新しいものでお勧めのものはありますか」

「はい」

女性は眼鏡の奥の瞳をきらりと光らせた。

「脇田壮二郎はさきほどおっしゃっていた通り、その後作風を大きく変えていまして、いわゆるミステリー作家の代表格とも言われる人物です。テレビドラマでもお馴染みの左幹太郎シリーズや伊達貴臣シリーズも彼の作品です」

 そういえば吉川がそんな名前を口にしていた気がする。

「どの探偵もお勧めなのですが、個人的に特にお勧めするのが伊達貴臣様です」

(?)

「貴臣様は脇田先生の生み出した名探偵の中でもとびきりダンディーでワイルドなのです」

 自分の聞き間違いかと思ったが、この女性司書が脇田壮二郎作品に詳しいのは仕事上ばかりではなさそうだ。先ほどとは打って変わって熱を帯びた眼差しで遠くを見つめている。

「あ、あの…」

「失礼いたしました。私も脇田先生の作品が大好きでして、同じ作者に興味を持っていただいたことで、つい力が入ってしまいました」

「いえ、詳しく教えていただき助かります。ではそのお勧めの伊達貴臣探偵のシリーズにします」

 結局小夜子は脇田壮二郎の処女作と、以降方向転換してからの代表作を借りて帰ることとなった。こんな文字しかない本を読むのは久しぶりのことで、それにわくわくしている自分がいることに気付く。読めるかどうかよりも右手の重みだけで妙な達成感を味わっていた。


 というわけで昨日脇田壮二郎ファンの図書館員の口添えで借りた本を読み切った小夜子は、眠い目を擦りながら日中の勤務に臨んでいる。ただでさえ寝苦しい季節柄にも関わらず、慣れないことをしたせいで頭がはっきりしない。

 ふと顔を上げると吉川がいつもとおなじ落ち着いた様子でご利用者様の使用後の食器を洗っている。視線を感じたのかふいに吉川がこちらを向いた。

「一ノ瀬さんタイマーを止めてくれますか」

 言われて詰め所のキッチンタイマーが音を立てていることに気付く。

「ああ、すみません」

 ストップボタンを押すと、すぐ後ろに吉川が立っている。

「大丈夫ですか。今日は一ノ瀬さんらしくないですね」

「私らしく、ですか?」

「ええ。いつもよく気が付くというか、率先して動いている感じですけど、今日はなんとなくぼーっとしているというか。調子悪いです?」

「いえ、そんなことは。……いや、正直に言うと、お恥ずかしながらちょっと寝不足で」

「確かにここ最近暑い日が続きますからね。夜でも気温が下がらないし、夏バテとは無縁の僕でも少しバテ気味です」

「吉川さんも」

 ここまで話して、吉川がいつも以上に多弁であることに気付く。というよりも、吉川とここまで話し込んだのは、榊原さんまたの名を脇田壮二郎の話題以外では初めてだ。自分とだけの秘密の話題で心を許してくれたのだろうか。

「実のところを言うと、榊原さんの作品を図書館で借りて読み始めたら、何だが読み終わるまで気になってしまって。結局少しだけ読むつもりが夜中の三時過ぎまで読んでしまって」

 吉川は軽く目を見開いて

「一ノ瀬さんも脇田先生の作品を……」

「はい。吉川さんがおっしゃっていた『赤い鳥』と、伊達貴臣シリーズを一冊。私あまり小説って読まないんですけど、新しい作品のほうが榊原さんらしいというか、すんなり入ってくる気がしました」

「榊原さんらしい?」

「はい。何ていうか、榊原さんって紳士で、知的な印象があるじゃないですか。それが伊達貴臣に似ていると思って。『赤い鳥』の主人公はどちらかというといけ好かないっていうか、自分の内面ばかりに目が向いている割に、周りの女性を泣かせているじゃないですか。私が女だからかもしれないけれど、あまり読んでいて気持ちの良いものではなかったです。文学作品としては優れているのかもしれないですが」

「……」

「どうされました?」

「いや、一ノ瀬さんからそんな明解な感想をいただけるとは思っていなかったので。まるで研究室の学生から話を聞いているのかと思いました。あ、いや、この言い方は失礼だったかな」

 吉川は慌てたように右手で頭を掻いてから、慎重に言葉を選んでいる様子だ。

「一ノ瀬さんも脇田先生の作品を読んでいたなんて嬉しいです。仲間が増えたみたいですね」

「私は脇田壮二郎が気になったというよりも、榊原さんが何を書いているのかが気になったというほうが正確なんですが」

 そこまで言って、吉川が口を開きかけた時、話題となっていた榊原氏がエレベーターから降りてきた。二人は慌てたように口を噤む。榊原氏は普段通りの優しい微笑みで

「いつものをお願いします」

 とだけ告げた。その目は一点、吉川だけを見つめている。それに応えるように、吉川は大きく頷くと食堂へと歩みを進めた。

 先日作品の感想、というよりも、当人への熱い思いを語ったことでこの男性介護士との距離がぐっと縮まった、そう見えた。小夜子はくすりと笑うとデスク前の椅子に腰かける。きっと鉄面皮のような顔をしながら、内心赤面もので珈琲を入れているのだろうと思うと、くすぐったくなるような、それでいて可愛らしいような妙な感覚になる。

 と、ふいに肩に重みを感じて小夜子は小さな悲鳴を上げた。振り返るとそこには仏頂面の河野の姿がある。小夜子は慌てて辺りを見回すが、自分の声で誰かが驚いている様子はなくほっと安堵する。大きな声を立てて利用者が転倒でもしては大変だ。確認が済んでから後ろを再び振り返った。

「河野さん、びっくりさせないでください」

「ただ肩叩いただけやん」

「声も掛けずに叩かれたら驚くに決まってます」

「何やねん。やけに噛みつくなあ」

 その時詰め所にあるコールが鳴ったので、小夜子はこれ幸いに立ち上がる。利用者からの訪問要請である。

「行ってきますね」

 相手の返事も聞かずに速足で職員用の階段に向かう。どことなく掴めない河野を、小夜子は何となく苦手としていた。人間は理解できないものを恐れるという習性がある。これは人類がこの世に誕生してからの、いや生命が誕生してからの脈絡なく受け継がれた防御本能である。

 とふいに非常階段の扉が開いた。振り返ると再び、河野である。

「な、何ですか」

「声かけたんやけど。二階に田中さんおるから、これ渡しといてくれる」

手には補充用のトイレ用洗剤が握られている。

「あ、そういうこと」

 なぜ河野が自分を追ってきたと思ったのか、自分でもよく分からず、ほっとするやら恥ずかしいやら、小夜子は俯いて手を出す。と思いきや、河野はこちらを真っすぐ見るなり

「あのさ、露骨に避けられると腹立つんやけど」

告げた。

「べ、別に避けてるわけじゃ」

「あ、そう。吉川さんとは随分楽しげに会話してたけど」

「そんな意味深な言い方しないでください」

「事実やんか。もっぱらの噂やで。一ノ瀬さんと吉川さんは」

 ここまで言いかけて扉の開く音がしたので二人は口を噤んだ。階下へと向かってくる足音。

「ま、頼んだわ。あと食堂の消毒用アルコールとかハンドソープの詰め替えの量確認しといてくれる?少なかったら今日の二階の食事担当に補充してもらうわ」

「分かりました。あの……」

「何」

 こちらを睨み付ける表情からは、これ以上何も言うなという脅しが含まれているような気がした。すぐに併設の訪問看護ステーションの看護師が現れる。

「じゃあ頼んだ」

「はい」

 河野は扉を閉めてその場を後にする。

 小夜子は看護師に一礼して階上へ行こうとして

「一ノ瀬さん」

 呼び止められた。

 返事よりも先に振り返ると

「大丈夫?」

 相手は憐れむような眼をこちらに向けている。

「はい?」

 一瞬何を言われたのか分からず首を傾げると

「河野君厳しいでしょう」

 全てを語らずとも理解しているとでも言いたげな瞳に小夜子は少し困惑して言葉を失った。

「河野君一見人当たりも良くて、誰とでも分け隔てなく接するように見えるでしょう。でも仕事となると急に人が変わるというか、どこか突き放したようなところがあるからねえ」

「突き放したようなところ……」

「ヘルパーで辞めた人の大半が河野君とそりが合わなかったって話もあるくらい。一ノ瀬さん、よく気が付くし、良いように仕事押し付けられたりしてないかなって、ちょっと心配だったのよ」

「私は別にそんな仕打ちは受けてないですが」

「それならいいんだけど……。何かあったらいつでも相談に乗るから」

「……はい、ありがとうございます」

 言葉ばかりのお礼を言って会釈をする。相手が立ち去るのを待ってから小夜子は階段へと足を踏み出した。

(仕事となると急に人が変わる)

 先ほど言われた台詞を思い返しても、普段の河野には全く結びつかない。

 仕事となると急に、どころか、いつでもできる限り最小限の力を使ってしか動かない。それが彼女の河野に対する評価だった。仕事となると人が変わるという表現はどちらかというと吉川に合っている、そう思った。小夜子の見た限り、河野は器用に職務を全うしミスはしない。ただそれ以上に何かを工夫したり、ご利用者様に接しようとしているようには見えなかった。これは仕事だと割り切っているような、そんな内面が出ているようにさえ思えてならなかった。

 あまり考えすぎて非常階段の扉を三度ノックしてしまい、慌てて周囲を振り返る。こんなところを誰かに見られたら笑い話のネタにされること間違いない。

 気を取り直して息を吸い込みドアの取っ手に手を掛けた。

 介護士と看護師では、詰め所も違い、持つ情報も違う。きっと河野の評価が他事業所では実質よりも高くなっているのだろう、小夜子はそう思うこととして、利用者の部屋へと歩みを速めた。

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