第2話 人気作家との出逢い、ホームズの動揺

「最近松山さんの排泄の失敗多いね」

「そうですね、今までも時々はこんなことあったけど、こんなに頻回なのは」

介護士の詰め所では空白の時間が生まれると最近の利用者の話が開始される。誰ともなく日々困っていること、ほかの介護士の対応の仕方を確認すべく情報収集が行われている。

「そろそろ介護度見直す時期だよね」

「確かに。でもそれまでの対応としてはどうするか」

「食事前と水補以外にも一回様子見てみますか」

「そうね、ひとまず管理者に相談かけましょう。松山さんはケアプラン上、本来うちでは掃除に入れないからケアマネージャーにも話を持っていってもらわないとだし」

一同首を縦に振り肯定の意を示す。

そこへエレベーターの到着する音とともに車椅子を自走した白髪の男性が現れる。

「榊原さんどうされました」

榊原さんは最近ご入居されたばかりで年の頃合いは七十過ぎ、背の高くがっしりとした体つきの男性だ。どことなく知的な雰囲気を醸し出しているので、建物内の女性入居者からは隠れファンもすでにできている。

「お昼のお茶をいただきたくて」

「珈琲ですね、どうぞ席のほうへ」

職員の一人が食堂への道を案内する。自然と先ほどの話し合いは終了し話題は榊原さんへと移った。

「いつ見ても洗練された感じよね」

「そりゃそうですよ、だって有名な作家さんなんですから」

言ったのはこの事業所でサービス担当責任者をしている高遠健吾。榊原さんとは反対に、背はどちらかというと小柄、その割に体つきは良く言えばがっしり、悪く言えば肉付きのよい体型をしている。

「でも私知らないです。脇田しろう、でしたっけ?」

「脇田壮二郎(わきたそうじろう)。『赤い鳥』で一躍時の人となった人物です。その後は方向を転換してミステリー作家となりましたが、とにかくその才能には余りあるものがある。『穢れなき罪』から始まる探偵伊達貴臣(だてたかおみ)シリーズは今もテレビドラマで再演されるほど人気を博しています」

淡々と解説するのは当事業所において貴重な男性職員である一人、吉川徹である。必要なこと以外は喋らない。決して笑顔を見せない。ただしこれは同僚に対してだけで、ご入居者様に対してはとても優しい微笑みを浮かべている。この男が珍しく長い台詞を発したため職員は一同静まりかえった。

「とにかく榊原さんはとてもすごい人なんです」

吉川は突然立ち上がると食堂へ向かっていった。おそらく榊原さんへ珈琲を入れるつもりなのだろう。

「びっくりしたね」

「吉川さん喋れるんだ」

「いや喋れるでしょう」

「そうじゃなくて、あんなに感情的にさ」

「え、感情的でした?めちゃくちゃ淡々と話してましたよ」

「馬鹿ね。滅多に喋らない男が噛みもせずにあれだけの台詞を言ったのよ。あれはかなり興奮していると見た」

「あれが吉川さんの興奮状態ですか」

女性社員の雑談を遮るように高遠が大きめの咳払いをする。

「とにかくみんな仕事に戻って。他のご利用者様に聞こえたら大変でしょう。榊原さんは静かに余生を過ごしたくてここを選んでくださっているんですから、あまり騒ぎ立てて問題が起きては困ります」

最初にその話題を振ったのは自分ではないか、と皆思ったがあえて言わず、それぞれ次の仕事に向かって動き始める。高遠はそれを見てまた息を吐き出した。


そのときちょうど榊原さんに真っ先に対応していた職員とは小夜子である。小夜子はご利用者様の飲み物の好みを完璧に把握していることを自負している。今日も榊原さんの様子を見てから、ホットコーヒーだと感じ、念のために

「ホットでいいですか」

と確認した。

「はい」

榊原は短く答えてから続けて言葉を繋げようとする。

「「砂糖だけ、ミルクはなしで」」

打たれたように顔を上げて小夜子を見つめる。

小夜子はいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「当たってました?」

「はい、大正解です。でも君に入れてもらったことはない気がするんだが」

「榊原さんが他の職員に頼んでいるのを何度か見たことがあって、そのときはいつも砂糖だけでしたから」

相手は感心したように頷くと

「ありがとう、ではお願いします」

と言った。

まだ二十代の小夜子から見ても榊原はどこかしら異性として魅力的な印象を与える。恋愛対象というわけではないが、若い頃はさぞかしもてただろうなと思う。その反面実際に声を掛ける女性は少なかっただろうな、とも思う。矛盾したことを言うようだがそのどちらもが彼にはぴったりと当てはまっているように思えた。洗練された容貌とそこから漂うどことなく影のような部分。最初は魅力的に映っても次第にこの花は香りほどに良い蜜を蓄えてはいない。そう思えるような何かが榊原さんにはある、と彼女は直感で思った。

思考を停止してインスタントコーヒーの粉をカップに注いでいると、いつもより幾分か速足で男性職員吉川が現れた。何だかずいぶん慌てているようだ、とこれも直感で小夜子は理解した。

「僕が代わります」

吉川は小夜子が答えるよりも先にインスタントコーヒーの瓶を横から奪う。慣れた手つきでカップにお湯を注ぎ入れるとソーサーの上に置いた。微かにその指が震えているのを小夜子は見逃さなかった。

(吉川さんが動揺している)

いつも冷静沈着、小夜子が心の中でシャーロックホームズと称しているこの男が、そもそも人の仕掛けている仕事を横から奪うこと自体日頃からは珍しい出来事だった。

吉川はそのままかたことと鳴るティーカップを榊原さんの前に持っていく。

「榊原さん」

呼び掛けられて榊原は一瞬戸惑ったような顔をした。おそらく先ほどまで話しをしていた女性職員ではなく、突然違う人間がやってきたことに驚いたのだろう。しかし何か事情があったと察したのかすぐに儀礼的な笑みを浮かべた。

「ありがとう」

職員が言葉を発するより早く答える。

「いえ」

吉川は短く答えてから回れ右で小夜子のほうへ戻ろうとした。しかしすぐに向きを変えると再び榊原の前へ立った。

「あの、……その」

「どうかしましたか」

「……僕その、脇田先生の大ファンでして」

先ほどまで俯き加減だった顔を素早く持ち上げ榊原を見つめた。

「先生のデビュー作『赤い鳥』、あれは本当に何というか心を揺さぶられる作品でした。あの時代にはない斬新さと言いますか、現代に通じる虚無感というんでしょうか、そういったものが滲み出ている作品でした」

言われた榊原は右手の人差し指で頭頂部を掻いて困ったような表情を浮かべた。久しぶりの海外旅行で、しつこいファンに声を掛けられた芸能人のようにも見える。

小夜子は事の成り行きを黙って見ていた。場合によっては吉川を止めようとも思ったが、今のところ幸か不幸か他の利用者はいない。それに自分の心の内を熱く語る吉川が物珍しくてしばし観察していたい衝動にも駈られていた。

「でも大変失礼かもしれないのですが、僕はあの後の伊達貴臣シリーズが大好きでして。作風が変わられた後の先生の作品が、キャラクターが、僕にはとても魅力的で。伊達みたいに僕もなりたいと思って今まで生きてきたのですが、生憎こんな感じですが、いつも先生の作品を見ていると日常のいろんなことから解放されて、まるで遠くへ旅行へ行っているようなそんな気分を味わえるんです」

そこまで一息で喋ってから、我に返ったように頭を深々と下げた。

「し、失礼しました」

すぐさま席を離れようとする。その頬がかなり赤くなっていることに小夜子は気付いた。いや、小夜子でなくともおそらくそこに人がいれば皆が認識したに違いない。

「ありがとう」

再びその背中に榊原からの声が 掛かった。

吉川が弾かれたように振り返る。紅潮した顔のままで勢いよく礼をしてから、機械仕掛けの人形のようにぎこちない足取りで詰め所に戻っていく。

(貴重なものを見た……)

小夜子が感慨深くその背中を目で追っていると、また別の利用者が食堂へとやってきた。歩行器に身を預けて歩く姿は、榊原さんと同じくらいの背丈だが、彼よりも細身の男性である。

「いやあ奇遇です」

と嗄れた声で呼び掛けると先客のいるテーブルに近づく。

「奇遇ですね」

榊原さんも快活に答えた。

二人が天気や最近の報道番組の話題で盛り上がり始めたので、小夜子はそっと席を外して詰め所から彼らを見守る。詰め所には吉川がデスクに腰かけたまま、茫然としたように手元を見ている。

「どうしたんですか」

「!」

吉川はまたも弾かれたように背筋を伸ばした。仕事中に余計な考え事をするなど、この男にはあり得ぬ事態だ。

「本当に大丈夫ですか」

「いえ、はい、大丈夫です。……いや、本当言うと、何というか、榊原さんとどう接したら良いのか分からないのです」

「どう接したら良いか?」

「はい。榊原さんを見ていると、こう、何というか胸が熱くなるというか、どきどきして、物事に集中できなくて」

「吉川さん、こ」

恋する乙女じゃないんですから、と言いかけて反射的に言葉を止める。普段同僚の冗談にもにこりともしない男にうっかり発して良い言葉とも思えなかったからだ。

「何だかとても新鮮ですね」

「新鮮ですか」

「はい。吉川さんが物事に動じる姿なんて滅多に見られないですから」

「そんなことはありません。僕だって心が泡立つような気持ちになることも、さざ波が立つことだってあります」

いまいちピンとこない表現で自身を表す男。あえてここは聞き流しておくこととする。

「でもいつもはもっと落ち着いておられますよ。いつもと違う吉川さんを見たくなったら、榊原さんのお茶出しをお願いしたらいいんですね」

「一ノ瀬さんからかわないでください」

顔を赤らめてしきりにかぶりを振る。

「ごめんなさい。冗談が過ぎました 」

と、ここで詰め所のナースコールが鳴り出した。

吉川は先ほどとは一変して、表情を硬くし受話器を取る。

「どうなさいました?はい、今伺いますので少々お待ちください」

受話器を置くなり

「一ノ瀬さん、僕は高橋さんのところに行ってきます」

サイボーグのように規則正しい動きをして、職員用の階段へと歩みを進める。そのまま向かうのかと思いきや

「一ノ瀬さん」

「はい?」

「今さっきのことは僕と一ノ瀬さんだけの秘密ですよ」

一瞬だけ立ち止まって横顔を見せる。すぐに階段前の扉に手を掛けるとあとには吉川の小走りの足音だけが残った。

ふいに左肩に重みを感じて小夜子は飛び上がった。自分でもよく声を出さなかったものだと感心する。背後には意味深な笑みを浮かべた女性職員。

「ねえ今の何?」

「え?」

「今吉川さん言ってたじゃない。『今さっきのことは僕と一ノ瀬さんだけの秘密ですよ。カッコ微笑』」

「いや笑ってなかったですよ」

「そういう問題じゃないでしょう。あのフランケンシュタインが、こともあろうに女性に対して『僕と君だけの秘密』なんて」

「いやですから、あの会話は皆さんが興奮するような中身じゃないですから」

「ちょっと皆聞いてよ。吉川君が一ノ瀬さんをデートに誘ってたのよ」

「なんでそうなるんですか!」

この後しばらく職員の面白話の標的にされて、吉川をからかった自分を呪いたくなる小夜子であった。


そんな若者たちのおしゃべりを聞きながら、榊原氏は外を見つめている。食堂の窓ガラスからのぞいている花壇から汗ばむ季節を感じながら周りを気にせずホットコーヒーを飲み、静かに目を閉じたのだった。

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