旬刊「ひだまり」便り 夏 ~ 1 一ノ瀬小夜子の場合~
世芳らん
第1話 終わらない報告書とお邪魔虫
どうする?書き始めは何て書く?
頭を抱えたままパソコンの前に頭を伏せる。目の前には「モニタリング」と書かれた報告書の雛型と音もなく点滅するカーソル。
「そんなん先月とほぼ一緒でええんちゃうん」
ふいに肩に受けた衝撃に小夜子は振り返る。
「河野さん!」
背後には細身のわりに骨格はがっしりと
した男が立っていた。慌てて左肩に置かれた手を振り払ってしまってから、小夜子はしまったと上唇を噛んだ。
「ほお先輩の手を塵雑多のごとく振り払うとはなかなかだねえ、一ノ瀬さん」
自分より三年ほど経験値のあるこの介護士を、彼女は先輩と崇めたことはない。年長者にはたいてい年相応の貫禄というか、簡単には立ち入れない威厳みたいなものがあるが、この河野にしてはそれが無に等しかった。介護士にしては珍しいほどに軽い。こういう人間がいないこともないのだが、小夜子の出会ったことのある男性職員はたいていが包容力のある年配の男性か、気の弱そうだけれども優しいタイプ、あるいはなぜこの仕事を選んだのかというほど愛想のないパターンが多かった。
「それはいきなり河野さんが肩を掴んでくるからです!」
必要以上に語気を荒くして答えると相手はその答えを予期していたかのように隣の席へ座った。
「それはそれはすみませんでした」
河野はいちいち突っかかった物言いをするので、それも小夜子には鳥肌が立つ要因である。
「ま、ええやん。それとも何、そんなに必死になるってことは俺のことちょっとは男として意識してる?」
「真剣に報告書に取り掛かろうとしてるのに後ろからびっくりさせられたら声も大きくなります」
「そやかて三十分くらい見てるけど全然進んでへんやん」
当然の指摘に小夜子は閉口する。
昔から文書作成は得意ではない。というよりも壊滅的にできない。よくこれで今まで社会人としてやってこれたものだと自分でも思う。
通路の向こう側、施設玄関の受付からカタカタとキーボードを打つ音がまるで音楽を奏でるように聞こえる。事務職員の霧島琴美だ。
「あー、私もあんな風に打てたらいいのに」
「どうでもええけど早よしてくれる?俺かて報告書書かなあかんのやで。こんな時期に一人でパソコン占領されたらかなわんわ。ま、タッピングの練習してるんやったら別やけど」
最高潮の皮肉に小夜子はしぶしぶ席を譲る。
腹立たしいが言われることも最も、事業所に一台しかないパソコンをいつまでも独り占めするわけにもいかない。
(仕方ない夜勤の日にやろう、っと)
立ち上がった瞬間、
「なんでそんなかかるん。香川さんって特に何もないやろ。手かかるわけでもないし、文書作成にそないに時間掛ける意味が分からんわ」
「それはどうかと思いますけど」
追い打ちをかけるように告げられた河野の声に被せるように鋭い女性の声。
「須田さん」
「利用者さんは日々変化しておられます。先月と評価が同じなんてそれこそどこをどう見ているのかって感じです。担当である以上はこういうちょっとした変化にも気を配るのが本来の姿だと思います。後輩に先月と同じ内容で提出するアドバイスをするなんてどんな神経なのか甚だ疑問です」
五十代前半、それでもまだ一回り若い年代が見るような女性ファッション誌に出てきそうな彼女の性格は、絵に描いたように四角四面。曲がったことは許すことができない、気になったことは解決しないと気が済まない。そのために時に同僚に意見することもしばしばで、互いの性格上殊更河野に対しては手厳しい。
「いや、須田さんは冗談が通じひんから困りますよ。俺が言いたいんは、仕事いうのはいつもいつも百パーセント目指しててもあかんいうことで」
「百パーセントを目標にしてはいけないんですか」
「いやそういうわけやないんですけど。ただね、どんな業務にも時間掛けて完璧を目指しとったら本当に必要な場面に対応できひんと違います?だいたい八十パーを目指してですね」
「最初から妥協するとおっしゃるんですか」
「妥協って、ものは言いようといいますか」
「あの、私、水補に行ってきます!」
「あ、ちょっ、一ノ瀬さん」
河野の声を振り切って、小夜子は用意されているコーヒーと紅茶にお湯を注いでから上の階に上がる。水補とは「水分補給」の略称で、もちろんご利用者様の水分補給である。毎日午前、午後に分けて提供する。高齢者は排泄が頻回になるのを気にして水分摂取を控える傾向にあるが、放っておくと水分不足で脱水症状になることも少なくない。サービスのように見えてこのお茶の提供というのは介護士の大切な仕事の一つである。
エレベーターで三階に到着すると目的の部屋に歩き始める。どこからともなく叫び声が聞こえる。また日比野さんが不穏になっているのだろう。日比野さんは一日の中でも機嫌のよい時と悪い時があり、後者の場合は猫のように叫び続けている。
三階の一番奥である居室の前についてから軽くノックする。中から聞こえたのは同僚の返事である。
「失礼します」
扉を開けて絶句した。
臭いでなんとなく予測はしていたものの、電気スイッチ、居室内にあるトイレの取っ手、と利用者の排泄物で汚染されている。
「一ノ瀬さん、いいところに。私松山さんの更衣のほうするから、あとお願いできる?」
視線の先にあるのは各種手に触れる汚染された部位、清掃を意味している。
「分かりました。水補は後がいいですね。一旦一階に戻って、準備できたら下で飲んでもらいましょうか」
「そうね、お願い」
かくして小夜子は再び詰め所へと戻ったのであった。
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