第6話 自分だけが知らなかった事実と謎

夜勤の明けの休みが終わり、日勤帯に職場に顔を出した小夜子を待っていたのは、当直日の激務を労う声掛けと河野に対する噂話であった。

「あの河野君が熱出して寝込むなんてね」

「無遅刻無欠勤の名誉もここで潰えましたか」

 どうやらあの日救急搬送に付き合った河野は、体調不良を理由に早退し翌日も休んだようだった。発熱すると、過去からの習いで五日間は出勤停止になってしまう。つまりこの後四日近くは休みが続くということだ。

 本来であれば労いの言葉を掛けられるのは河野であるはずなのに、何だか釈然としない気分で小夜子は本日何度目かのため息をついた。その様子を見ていた吉川も同様に思うところがあるのか、少しぼんやりとしている。

「吉川さん」

 声を掛けると、吉川は慌てたように周囲を見回して、小夜子を食堂の隅へと引っ張った。

「一ノ瀬さん、言いたいことは分かりますが、絶対に皆には言ってはいけませんよ」

「え?」

「榊原さんの放った言葉のことです」

 吉川の言わんとすることが測りかねて小夜子は眉間に皺を寄せた。

「こういう事は口にするのも憚られますが、万一榊原さんが呼吸停止になった理由が、榊原さん自身の自殺未遂によるものであれば話は別ですが、今の段階で全くその根拠がない以上、むやみに不特定多数の人間に話す中身ではないように思います」

「ですが、榊原さんが退院されれば戻って来られるのは確実でしょう。倒れた理由がどうであれ、心理面のサポートを考えた上でも皆で共有する情報だと思います」

「確かに一ノ瀬さんの考えは、一介護士としては正しいのかもしれません。でも僕は今回の事はこの先の榊原さんのことを考えたとしても伏せておいたほうが良いように思うのです」

「……吉川さん、失礼を承知で言うのですが、それは介護士としてではなく、吉川さんの個人的な感情からくるものではないですか」

 吉川の表情がぴくりと動いた。しかし普段特に感情を露わにすることのない男からは、驚き以外読み取れなかった。

「吉川さんは榊原さんの、作家脇田壮二郎の大ファンですよね。榊原さんがあの朝言った言葉を職員に伝えることで、少なくとも職員は榊原さんのことを今までとは同じに見られなくなると思います。仮にあの日の出来事が榊原さん自身の行為によるものだとしたら、それこそ管理者側にしたら、そんな危険な心理状態の榊原さんをこの建物でこれ以上住まわせておけないと判断するかもしれない。これから先の人生を穏やかに過ごしたいと思っている榊原さんの、脇田壮二郎の居場所がなくなってしまうことを、吉川さんは恐れているんじゃないですか」

「……確かに僕は脇田先生の大ファンです。もしかしたら言わなくていいという感情のどこかにそんな気持ちも混じっているかもしれません。でもそれは一ノ瀬さんも同じじゃありませんか?」

「え?」

「榊原さんのことを職員に話すべきだと思うのは、本当に介護士として必要だと思うからですか。そこには河野さんを庇う気持ちがあるんじゃないですか」

「なんで私が河野さんを」

「滅多に欠勤なんてしない河野さんが倒れたのは、あの日こんなに大変なことがあったからだ、そういう同情を皆に抱いてほしいのでは?」

「何を言い出すんですか!」

 顔も頭も熱くなった。恥ずかしさや怒りや色んなものが混じった感情が胸のあたりでぐるぐるして湯気のように噴き上がりそうだ。

「僕は個人的な感情だけで言っているわけではないんです。人の言葉の魔力は恐ろしい。事実が事実以上のことを伝えてしまうこともあります。僕たちはあの日榊原さんの言葉を聞いた。でもそれはあくまで彼のあの時の台詞に他ならないんです。それを恰も今までずっとそんな気持ちを持ち続けていたように話してしまったら、一ノ瀬さんのおっしゃるように榊原さんの居場所はなくなるかもしれません。それに僕が言わないほうがいいと思っているのは河野さんも関係しているんです」

「?」

「もし河野さんが、榊原さんの台詞を聞いてショックの余り休んでいるということになったらどうなりますか?河野さんは病欠だと嘘をついて無断欠勤していることになってしまうんですよ」

「!」

 そう言われれば事実だけを伝えればあらぬ憶測を呼ぶことは避けられそうもなかった。

「榊原さんがあの日おっしゃった言葉は、僕にとっても一ノ瀬さんにとっても衝撃的な発言でした。僕は本音を言えば、榊原さんからあんな台詞は聞きたくなかった。でもそれは榊原さんを助けた河野さんが一番聞きたくなかったとは思いませんか。このことを話せばしばらくは皆の話題は榊原さんのことになるでしょう。その話題の標的として根堀り葉掘り訊かれるのは、間違いなく河野さんになるとは思いませんか。僕は河野さんの傷をこれ以上広げることはしたくない。僕たちが話すにしてもそれは管理者に対してでしょう。職員全般に対してじゃない」

 自分がしようとしていることが正しいことなのか、間違っているのか分からなくなって小夜子は両手で顔を覆った。

「私分かりません、分かりません」

 覆った指の間から、溢れてくる涙が零れる。声を立てないのが必死だった。そこへ

「いやあ暑いなあ」

 と呑気な声が聞こえ、サ責の高遠の足音が近づいてきた。慌てて顔を上げるとぎょっとしたような高遠の顔。太めの体格からは想像もつかないほど速足でこちらへと駆け寄ってくる。

「どうしたの、どうしたの」

 小夜子の肩を優しく叩いて尋ねてくる。

「いやあ困るよ。個人的な喧嘩を職場に持ち込まれちゃあ」

 高遠はおろおろと小夜子と吉川を見比べている。

「吉川君も分かるでしょう。何もこんなところで別れ話持ち出さなくても」

「「は?」」

 二人の声が重なって、高遠は自分が思い違いをしていることに気付いたようだ。

「え、違うの?」

「「違います!!」」

「あ、そうなんだ。え、じゃあ何で泣いてるの。というか話は相談室で聞こうか、ここじゃ目立つからね」

 言うなり二人を来客用の相談室へとそそくさと案内して出ていってしまった。こういうところ高遠は頼りなさそうに見えてしっかりしている。周囲に動揺が走らないように自分が壁になって動いてくれる。

 再び吉川と二人きりにさせられ、小夜子は先ほど見せてしまった涙を後悔した。職場で泣くなんて恥ずかしいことをしてしまったものだと思う。出来るだけ早く外に出られる顔にならなければと目の縁を手で扇いだ。

 とすぐに高遠が戻ってくる。手にはペットボトルの冷たいお茶が三本抱えられており、吉川と小夜子の前に一本ずつ並べられた。玉露入りのちょっと高めの緑茶である。隣り合った小夜子たちの目の前の席に腰かけて、早速にペットボトルの蓋を開けている。

「いやあ、うちの職員はパートさん含め、優秀な人材が多いから助かるよ」

 ハンカチで額を拭う。

 どうやらしばらく吉川と小夜子が席を外しても良いよう取り計らってくれたようだ。

「ま、お茶でも飲んで気楽に話そう」

 手で飲み物を指し示してくれる。

「ありがとうございます」

「それで、何があったの」

 どちらが口を開くべきか。吉川の言葉を待つが応答がない。

「あの日の出来事についてなんですが」

「榊原さんが救急搬送された日のことかな」

「はい」

 隣を見ても吉川が止める様子はなかった。小夜子は続ける。

「あの日起こったことについて職員に話すべきか、私と吉川さんの間で意見が分かれていて、話している間に私がちょっと感情的になってしまったんです。みっともないところをお見せして申し訳ありませんでした」

「いや、まあ利用者さんもいなかったわけだし。ただどうして泣くほど意見が分かれたのか、何について議論していたかは聞いてもいいかな」

 三度吉川を見るがやはり反応はなかった。高遠にならば話しても構わないということだろうか。

「あの日、倒れている榊原さんを発見したのは吉川さんで、私は吉川さんの呼び掛けに応じてバイタルセットを持って居室へ向かいました。そこに河野さんが来てくださって応急処置を。そのまま救急搬送となりました。それでその時」

 そこまで話して逡巡する。口に出すのも勇気のいる台詞だった。

「救急搬送される榊原さんがおっしゃったんです。『どうして助けた、どうしてこのまま死なせてくれなかったのか』と、そういった類の言葉を」

 代わりに答えたのは吉川だった。

「一ノ瀬さんは介護士として、戻ってきた榊原さんの心理面のフォローのためにも全員にこのことを共有すべきだと考えておられるのに対して、僕はかえって言わないほうが良いと思ったんです。榊原さんの倒れた理由が分からない以上、変に周りを動揺させるようなことを告げても、今後戻ってこられたときに生活がしづらくなるのではないかと思ったものですから」

 高遠は二人の話を聞いて大きく一度頷いた後、さらに何度か首を縦に振って同意の意を示した。

「そうか、二人ともよく話してくれたね。きっと榊原さんからそんな言葉を聞いて君たちもすごくショックだっただろう。でもそのことはあらかじめ河野君から報告を受けているよ」

 小夜子は驚いて吉川を見つめた。相手も同じだったらしく、こちらに顔を向けている。

「あの、河野さんは、その、どういった感じだったんでしょう。何というか私の目にはすごく衝撃を受けたように映ったものですから」

「ごく普通だったよ。淡々と報告してたけど」

「淡々と」

「長い間こういう仕事をしていると、時にはご利用者さんの『死にたい』って言葉は耳にすることがある。皆がみんな長生きが幸せだとばかり思っているわけじゃないからね。特に家族と離れて暮らす人たちは先の見えない生活に希死念慮を抱くこともあるだろう。ただ実際に危篤状態の人を助けて、その人からそういう言葉を浴びせかけられるっていうのはなかなか経験することじゃないからね。僕もまだ経験したことはない。したくもないけど。いつも飄々とした感じだけど、さすがの河野君も多少はショックだったとは思うよ」

「そうですよね。私河野さんそれがショックでしばらく休んでおられるんじゃないかと思って」

 小夜子の憶測を聞いて高遠は場違いなほど快活な笑い声を立てた。

「いや、河野君に限ってそれはない、ない。河野君はあれで不真面目な真面目だからね。どんなに弱っても嘘ついて休むなんてないよ。それに河野君が熱を出したのは僕がちゃんと知ってるから」

「!」

「救急搬送の後帰って報告をした河野君の様子がふらふらしてたんで、僕が検温をするように言ったんだよ。そしたら三十八度。すぐに帰ってもらったってわけ。幸いコロナもインフルもマイナスだったみたいだけど」

 隣を見やると吉川がほっとしたような表情を浮かべている。肩の力が抜けて小夜子は喉がひどく乾いていたことに気付いた。ようやくペットボトルの蓋を開けて一口だけ飲む。心地よい刺激が喉を滑り降りた。

「河野君の報告を受けて管理者の方でも話し合いがなされてね、榊原さんの発言については一応管理者サイドで留めておくことになった。病院とも連絡を取ってみるけど、どうもいわゆる心不全で、その要因に体内から薬が出たわけでもなければ取り立てた外傷があるわけでもないらしい。榊原さんがどんな気持ちでおっしゃったのかは分からないけれど、職員の中には榊原さんと接するのを怖がってしまう者も出るのではないかってことでね。ただ看護師サイドには情報がいくようにはしている」

「そうなんですね」

「本来君たちに先に言っておくべきだったんだが、夜勤明けの初めてのシフトで、しかも日勤帯だから、ばたばたしてしまって。申し訳なかった」

 高遠が頭を下げたので二人は

「いえいえ」

 と頭を振った。

 吉川のほうを見ると優しい笑みを浮かべている。どうやら意見の相違は解決したようだ。小夜子は高遠に向き直ると、真っすぐに目を見つめ

「ありがとうございました。高遠さんに聞いていただいて胸のつかえが取れた気がします」

 微笑んだ。

「いやあ、一ノ瀬さんはやっぱりこうでなくちゃね。ねえ吉川君」

「ええ」

 二人だけで通じ合ってにこにこしている。

「それにしても、いやあさっきはびっくりしたよ。二人が上手くいっているなら良かった」

 高遠はお茶を飲みながら一人頷きを繰り返している。

「あの、あれだよ、結婚式のときは僕が挨拶してもいいからね」

「「は?」」

「え、だってあれだろ?二人はその、お付き合いをしているんだよね。職員の間ではもっぱらの噂だよ」

 吉川と小夜子は瞬時に顔を見合わせる。

「「違います!」」

「あ、揃った」

「いや、本当に」

「ふーん、吉川君は赤くて、一ノ瀬さんは青くなってるね」

「高遠さん、あまりそういう発言をされると事業所のハラスメント防止規定に引っ掛かりますよ!」

 小夜子が強めに言うと高遠の背筋が伸びた。

「あ、あれだな。これはおしゃべりな職員がいると見えるな。僕がさりげなく事実無根だということを流しておこう。うん、そうしよう」

 一人納得している。先ほどまで尊敬の念を払って見ていたのに、気分が台無しである。しかも事業所の知らないところでそのような噂を立てられていたとは。大体おしゃべりな職員の代表格は想像できるが。

 吉川が咳払いをして

「しかし河野さんの応急処置には助けられました」

 急に話を逸らすかのように話し出した。

 小夜子の意識はまたあの日の出来事に引き戻された。

「確かに凄かったですよね。私なんてただバイタル測定をして、電話連絡するだけで」

「それは河野君は看護師の資格を持ってるからね」

「え!」

 叫び声を上げたのは小夜子だけだった。吉川はとうに知っていたと見えてさほど驚いた様子もない。

「看護師って、ナースってことですか」

「うん。あれ知らなかった?結構皆知ってるよ。そうか、一ノ瀬さんはここに来て三年ぐらいだもんね」

高遠はペットボトルのお茶をラッパ飲みしてから続ける。

「河野君がここに入るってなったとき、訪問看護の面接に来たんだと皆思ったくらいだよ。でもどうしても看護師じゃなくて、介護士で働きたいって言うし。あの時は本当は看護も人手が足りなかったから、上は看護師で入ってほしかったみたいなんだけど」

「何で介護士に?」

「さあそこまでは。細かい理由までは分からないなあ。まあ、でも当時は色々とあってね。正看持っててわざわざ介護士で働くなんて馬鹿にされてる気がするっていう捻くれた考えをする職員も中にはいて、河野君今はだいぶ落ち着いているけど、前は結構発言に棘があったから周りと上手くいかなくてね。河野君のことを一方的に嫌がって辞めた職員も何人かいたなあ」

「それで……。私以前、亀谷看護師から河野さんは仕事に厳しいから、そのせいで辞めた人もいるって聞きました」

「ああ亀谷さんか。河野君と亀谷さんは犬猿の仲だからなあ」

 苦笑している。

「あの二人は看護学校の時の同期らしいよ」

「それでカメ」

「カメ?」

「あ、いえ何でもありません」

 応急処置の最中に河野が亀谷看護師のことを「カメ」と言ったのは悪口ではなく、ただ単に昔からの呼び名ということだろう。しかし河野が看護師の資格を持っていたことといい、亀谷看護師と同期だという事実、新たな情報が入りすぎて頭が混乱してくる。

 前を見ると高遠が飲み切ったペットボトルを机の上に置いたところだった。

「それより僕は他のことが気になっているんだよね」

「?」

「救急搬送の日の話に戻るけど、あの日河野君は早出だったんだよね」

「ええ」

「なのに何であんな時間にいたのかなって」

 言われてみれば確かにそうだった。早出の職員の出勤時刻は午前七時。前日の流れを頭に入れるために業務日誌を読み込むため、三十分程度早めに出勤する職員もいるにはいる。だが吉川が小夜子に緊急連絡を入れたのは午前五時過ぎ、早出の職員がいるには余りに早すぎる時間であった。

「行事の準備じゃないでしょうか」

 吉川が口を開いた。

「河野さん次の敬老会の行事担当でしたよね。それとは別に建物内の買い物の係もやっておられますし。日勤帯だとどうしてもコール対応もあって自分の業務はできないですから」

「そっか、そういうことかあ」

 口だけはそう言っているが納得したようには見えなかった。

「あ、そろそろ戻ってあげないと皆お昼前の介助に入っちゃうね」

 高遠が手を叩いたので小夜子は打たれたように慌てて立ち上がる。

「ありがとうございました」

 席を戻して扉を開けた。

 先に部屋を出た小夜子には、高遠が数歩遅れた吉川の肩を叩いて

「ご愁傷様」

 と言ったのは聞こえなかった。

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