第3話「私の中の私の中の私」
自らが末期がんだと判った時、死への恐怖よりも、これでこの苦しみから解放される、という安堵感が勝ったほどです。しかしそんな直義さんの気持ちをよそに、がんの罹患がわかった時から「死にたい」という人格と「生きたい」という人格の争いがさらに激化したといいます。
最初、直義さんは死にたいという人格に「死は答えではない」「戦い続けなければならない」と説得を試みようとしました。しかし、もう一人の人格は、死が自分の苦しみを終わらせる唯一の方法であると主張し、聞く耳を持ちませんでした。
「希望? 何が希望だ。どうせ死ぬんだ。なぜいたずらに苦しみを長引かせるんだ?」
日が経つにつれ、直義の病状は悪化の一途をたどり、「死にたい」という人格がますます優位に立ってきたようです。彼自身もまるで、希望を捨て、運命を諦めたかのようでした。
直義さんの主人格は優しく、穏やかな性格でした。そんな彼を理解し、支えてくれる家族や親友が何人もいました。その中でも直義の妻である
直義さんが最期を迎えるまでの間、洋子さんは直義さんの中の異なる人格と何度も会話を交わしてきました。特に死にたがっている人格と話をし、直義さんの人生を終わらせたい理由を聞き出そうとしました。
「なぜ、あなたはそんなに死にたがるのですか? なぜわたしから愛する人を奪おうとするのですか?」
「もう我慢できないんだ」とその人格は答えた。「戦うことに疲れたんだ。もうすべてを終わらせたいんだ」
洋子さんはなんとかしてその人格に生きる希望を与えようと努力しましたが、それはなかなか困難なことでした。直義さんの病状が悪化する中、洋子さんは他の人格たちに直義さんを支えるように説得し、死にたがる人格が出てこないように協力を仰ぎました。最初は躊躇していた他の人格たちも、やがて直義の命を守るために戦う価値があることを理解し、集まってきました。
そして、陽子さんは常に直義さん本人に、「何があってもそばにいるよ」と声をかけました。
「愛してるわ、ナオ。あなたは一人じゃない。ずっとわたしがここにいるから」
洋子さんはぎゅっと直義さんの手を握りました。直義さんは弱々しく微笑み、彼女の愛と支えに感謝しました。
しかしがんの進行に伴い、直義さんの病状は悪化し、ホスピスケアに入ることになりました。私は主治医として、彼の痛みや苦しみを常日頃目の当たりにしていました。
ある日、洋子さんが着替えを取りに自宅に戻った時、直義さんは私に不意打ちのような質問をしました。
「先生、あなたは神を信じますか」
私は答える前にしばらくためらいました。だが彼の真剣な目を見て、何かしら私の真実を彼に伝えなければならないと感じました。
「直義さん、正直なところ、私もまだわからないのです。神とは何なのか、人それぞれの解釈があると思います。私もなにか大きな力があることは感じていますが、それをうまく言語化することができません」
彼はゆっくりと頷き、私の言葉を咀嚼した。直義さんは微笑んだ。
「先生、正直に言ってくれてありがとう。あなたは良い人だ。私にはもう、見せかけの希望などいらないのだから」
それから数日、直義さんの容態は悪化の一途をたどり、やがて天へと旅立ちました。洋子さんと親友たちに囲まれた、穏やかな最期でした。直義さんの安らかな死に顔を見て、私は安心しました。そして、寂しさと同時に、もう彼が苦しまないですむのだ、という安堵感の方を強く感じたのです。直義さんの人生は困難なものでしたが、彼は最後までそれに立ち向かったのでした。
※この物語はフィクションです。いかなる実在の個人・団体とも関係ありません。
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