老婆アヌイ

 その相手とは母親アヌイだった。昔から何かに迷っているときに手を差し伸べてくれ、かといって無駄に干渉するわけでもなかった母親。おかげで子供の頃は自由きままにすごして、胸元にある大きな傷は、それがもとでがけから転落したときにできたものだ。

 母親はかつて作家だった。だが父と別れたあと、その不安定さに飽き飽きし、というよりも、彼女はスランプに陥り、それ以降小さな花屋を経営した。貧乏というわけでも豊というわけでもなかったが、働けるまで何不自由なく生活してくれ、大学などでお金が必要な時には助けてくれた母親には感謝してもしきれない。

 そして何より、彼女の慧眼には目を見張るものがある。その言葉、雰囲気、リズムそのものがある意味で魔性の、よく言えば魅力的な力をもち、未来さえも引き寄せているように時折思うのだ。だが、それが彼女の気に食わないものだったことはひとつもない。

 今や面影もないすっかりさびれた通りの、かろうじてチェーンのレストランが立っているその傍らに、彼女が幼少期のほとんどをすごしたその家があった。外から丸見えのベランダ。格子や策に覆われ、外の鉄階段は簡素ならせん状になっている。昔はそのベランダに花がならび、中央にある階段がまるで神秘的な彫像のような雰囲気をかもしだしていたものだ。彼女が子供の頃は使われていたが、おおきくなるにつれ、日常には使われずほとんど花の展示につかわれていた。それがまた、花屋をとじ、レストランで働くことになったので、母はその家を自由につかっている。ベランダは、決して売り物とはいえない質素な花々が咲いており、多少の作物も育てられている。

「ただいま」

 郊外よりの、"高度経済特区" の巨大な城壁の内側にその建物はあり、かろうじて治安は守られている。だが郊外に近いのでどうしても、そうした問題は避ける事ができず近頃では貧乏人の街とさえいわれている。

「あら、ひさしぶり」

 ベランダをくぐると、まるで小屋のような一階がある、そこがリビングだ。ベランダのせいでほとんど一回は部屋がつくれず、二階に他の生活圏はゆだねられている。そのリビングもかわったもので、東洋の占いやら、医学やらの本や、骨董品が多くおかれていて、母も母で変てこな、どこかの国の民族衣装じみたものを着ている。

「今、茶を出すわね」

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