第4話 はけ口

 増田右衛門尉長盛が伏見城詰所を退出した時、既にあたりは暗くなっていた。自邸は本丸の真南にあるが、先導する太眉の家老、渡辺勘兵衛は無言のまま馬を素通りさせると、治部少丸を横目に堀を跨いだ。

 その先には花菱の旗が、申し訳なさそうに揺らめいている。

「そろそろ増田様がお見えになる頃ですね」

 屋敷の主人は算盤をはじく手を止めずに言った。彼の仕事部屋は検地目録や書状等で散らかっており、あと僅かに二人が座れる程度の余白しか残っていない。

 長束大蔵大輔正家。

 両目が小豆のように小さい。妙な縁で徳川家重臣・本多忠勝の妹を娶ったが、意外にも夫婦仲は良いと噂されている。

 正家が秀吉に取り立てられたのは長盛よりも遅く、いわば先輩後輩の間柄にある。奉行といっても宮部継潤や富田一白、石田三成とは資質が異なり、諸大名との取次業務や指南を得意としない。つい最近、ある地方の小大名へ出向いた際も、相手に上手く言い包められてしまい、秀吉の叱責を受けている。だがその秀吉をして、「算盤よりも正確」と言わしめるほど算術に長けており、奉行衆の中でも異彩を放っていた。

 異彩というのは秀吉の言葉に良く表れている。

 慶長三年になり、天下人は前田徳善院玄以・浅野弾正少弼長政・増田右衛門尉長盛・石田治部少輔三成・長束大蔵大輔正家の五名を他の奉行衆とは異なる特別な地位に引き上げた。武家伝奏の勧修寺晴豊から選出理由を問うと、書状でこのように答えた。

「京都奉行専一に」

 即ち京都奉行、或いは京都所司代経験者を条件とする、という意味である。畿内行政が務まる者にしか自分の死後を託せない、そう言いたかったのだろう。

 だが実際のところ、長束正家だけは京都奉行の経験者では無い。天下人にとっても、小豆目の奉行は特別扱いされていた。


 正家はしばしば「はけ口」と揶揄されていた。奉行としての才覚は随一と謳われる増田長盛が、事ある毎に愚痴をこぼしに訪ねるからである。

 長盛は後輩奉行が居る部屋に入るや否や、ドッカと胡坐をかいた。部屋の隙間は、来客を予期しているかのようだった。

「ふぅ」

 先輩奉行は、童が小便を放出したような表情を見せ、「さてと――」と天井を向いた。すると頃合を見計らっていたのか、カタカタという音とともに酒が運ばれてきた。

「有難い」

 注がれたものを飲み干し、大きな息を吐いた。

「いやぁ、矢張りここが落ち着く」

 長盛は杯を突き出し、二杯目を催促した。当直を終えた後の、正家の屋敷ほど羽を伸ばせる場所は無かった。何もかもが丁度良い。広過ぎず、綺麗過ぎず、そして出てくる酒も旨過ぎない。

「確か今日は前田大納言様の御登城の日かと」

 後輩奉行はゆっくりと酒を注いだ。

「そうだ」

「それで上様は何と?」

「整えよ、と」

「何の準備で御座いましょうや」

「御遺物をお分けなさる」

「それはまた……」

 正家は、恐らく長盛が城内でしてたであろう表情をしてみせた。


「時間が無い」

 奉行随一の才覚を持った男は、しばしばこう表現した。天下人に残された時間が少ない、という意味である。

「あと数年」

とも言った。長盛の見立てでは、主人の余命はあと二、三年という事らしい。だが正家は長盛の言葉を鵜吞みにはしなかった。こういう時の長盛は、直接的な表現を避ける傾向にある。恐らく本心ではあと一年か二年、と思っているのだろう。

 見立てが正しいかどうかは兎も角、主人が生きているうちに死後を見据えた政権構築を進めなければならないという点においては、二人の考えは一致していた。

 とは言え、

「殿下、お亡くなりになった後についてですが――」

等と聞ける筈も無く、長盛も正家も、秀吉が口を開くのを只待つしか無かった。

 課題は山積していた。

 例えば人事。徳川家康を筆頭とする年寄衆と、自分たち奉行衆を公式なものとして設置するとして、意思決定および諸大名への伝達方法、上下関係は存在するのか、評議は多数決なのか、欠員が出た場合は世襲となるのか、といった細かな部分を決める必要がある。

 直近の懸案事項と言えば、やはり膠着した朝鮮戦線への対応であろう。醍醐の花見を実施した頃は主人も強気な発言が目立っていたが、最近は和睦を視野に入れた言動が見られ、正家達も頭を悩ませていた。

 そんな中、降って湧いた話が遺物分けであった。

 生前分与それ自体は珍しいものではない。だが太閤殿下の遺物となると話は別だった。まず目録の作成に膨大な時間がかかる。目利きも難しい。例えば玉澗の名画「遠浦帰帆」と短刀「三好正宗」では、どちらにどれだけの金子を添えれば釣り合いが取れるのか、正家には全く見当がつかない。

 下賜の順序もまた難題である。官職位階と血縁関係、知行のいずれが優先されるべきなのか、奉行衆の中でも意見が割れるだろう。

 噂を嗅ぎつけた大名が、「あれが欲しい」「もっと欲しい」と騒ぎ立てる可能性もある。そんな時は徳善院玄以よろしく聞こえないふりをするか、或いは石田三成のように「太閤殿下のご命令だが、何か」と突っぱねてしまえば良いのだが、先ほど太眉の家老に先導されて堀を跨いで来た男は、その才覚と引き換えに本来武人として持つべき資質を完全に放棄していたのである。

「逃げたい」

 長盛はつい本音を漏らした。全員が納得する遺物分けなどそもそも無理な話なのだ。

 正家は助け舟の必要性を感じた。

「徳善院様をお呼びいたしましょう」

「あと全老と大光明寺の西笑和尚にも声をかけてくれ。火急にと伝えて欲しい」

「施薬院様と相国寺様ですね、心得ました。明日、場所はここで宜しいですか」

「早いに越した事はない」

 そう言うと長盛は酒を早めた。


 正家は二つの小豆目で先輩奉行の飲みっぷりを眺めていた。長盛は政務を終えると屋敷とは逆方向の長束邸に立ち寄るのが常であるが、伏見城本丸からここまでの僅かな時間で、脳内が整理されていない事は一度もなかった。

 恐らく今日もまた、秀吉から一言命じられた瞬間に脳内で目録を書き上げ、所蔵場所を洗い出し、諸大名への取次と受け渡し方法まで整理したに違いない。

 だがこの男は主人の前を敢えて無言で退出した。勿論理由は分かっている。

「右衛門尉が決めた」

と世に知らしめたくないのだ。「責任」という言葉から努めて距離を置いているこの男は、何とかして徳善院玄以と施薬院全宗、西笑承兌の三人が協議したという体裁にし、己に火の粉がかからないよう事を運ぼうとしているに違いなかった。

(勿体無い御方だ)

 そう思った時、もう一人の客が現れた。

 山中山城守長俊である。正家とは同郷で、奉行に至る経歴も似ていた。有能な男だが、他人の出世を妬む癖が直らず、徐々に中枢から外されている。長俊もまた、人畜無害な小豆目をはけ口としていた。

 二人目の客人は軽く手を挙げ、先客に挨拶をした。そして同じくドッカと座り、やはり同じように頃合を見計らっていた小姓達が、酒を運んで来た。

「執筆は進んでいますか」

 正家は『日本治乱記』の進捗を訊ねた。小豆目の奉行の勧めで始めた史書の執筆は、良い気晴らしになっていた。

 程なくして、会話は遺物配分の件に巻き戻された。長俊は何度も深いため息をついた。だがそのため息は、責任を押し付けられた男に対する同情とは、およそかけ離れたものだった。

「殿下も人を見る目がないな。こういう用件は弾正か治部にご命じになれば良いものを」

 『日本治乱記』の執筆者の本音は、自分がその役目を仰せつかる事である。だが天下人に直接訴える事など到底叶わず、遠回しな表現で天下人を批判する事で、細やかな自尊心を保つしかなかった。

「ましゅう」

 長俊は政権の中枢にいる奉行を――増田右衛門尉が転じて、いつしかそう呼ばれるようになった――を見て、しばし沈黙した。

「もし手が足りないなら、わしが手伝っても良いのだが」

 落ち目の奉行はちらりと長盛の表情を窺った。正家は同郷の男が、再び政権内で手腕を振るう日を待ち焦がれている事を良く知っている。だが長盛はひたすら酒をあおるだけだった。

「勿体無い男だ、わしにその才があれば」

 長俊は何の収穫も無いと分かると早々に帰り支度を始めた。

(あれば何なんだ)

 正家は思ったが、あえて口にしなかった。

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