第3話 湯冷め

 加賀大納言が上野国草津に向けて出発したのは、秀吉父子が参内を終えた四月末の事である。久しぶりの長期休暇となった。

「後のことはご心配なく」

 見送りに立つ息子の言葉には、およそ愛情というものが感じられなかった。父親よりも、蝶の死骸に群がる蟻の方に興味がある様だった。単なる偶然だろうが、数日前の伏見城内で、江戸内大臣からも全く同じ言葉をかけられていた。家康の言葉には温かみがあった。それは利家の両手を包む肉厚な掌からも感じられた。

 利家が羽を休めるにはそれなりの理由がある。

 昨年の八月九日と十一月二十九日、病を患い伏見城への出仕を見送っていた。その後もしばしば床に伏せる日が増え、秀吉の側近達は利家の政務執行能力を危惧し、静養させるよう天下人へ申し入れていた。万が一、秀吉と同時に斃れるような事態にでもなれば、政権に与える影響は計り知れない。

 醍醐の花見が終った今、かつて「槍の又左」と怖れられた男に与えられた仕事は、己の体を労わる事だった。

「湯治が良い」

 湯治なら草津が良いだろう。利家は、算盤ずれを起こした腰周りを摩りながら思った。草津の名湯は、岐阜中納言の病も治したと聞く。もっとも、中納言秀信が何を患っていたのか全く知らないが。


 外の景色は既に桜色を失い、新しい生命の息吹に覆われていた。

「殿下」

 利家は痩せた膝小僧をにじり寄せ、暇を願い出た。秀吉は鷹揚に頷いた。合わせて隠居も申し入れると、目の前の男はこちらもあっさり快諾した。まるでその言葉を予想していたかのようだった。

 秀吉は付けていた猿面を外すと、コトリと畳に置いた。

「大納言よ、先ずは熱い湯につかって体をほぐすだで」

 脇にいた家康も、「後のことはご心配なく」と労わった。


 出立に際し、前田家では家督与奪に向けた準備を進める事となった。妻まつ、息子の利長・利政兄弟、そして村井長頼・奥村永福等ごく一部の重臣だけが集められた。

「我が前田家はこれより……」

 簡単な説明の後、利家は大きく息を吸った。先ず定められたのは家督継承者だった。

「利長」

 あまりにも分かり切った事を勿体ぶって言われると、人は怒りや笑いを忘れ、心が無になるらしい。座の乾ききった空気がそれを物語っていた。

「中納言、利長」

 利家は若干の修正を加えた。実際には利長は未だ肥前守のままであるが、去る四月二十日に権中納言叙任が内定しており、これを考慮したのである。だが空気が潤う気配は微塵も無かった。

 まつの咳払いに押され、利家は知行等の見直しに進んだ。新家督に与えられたのは


  加賀国、石川郡・河北郡・氷見郡

  越中国、新川郡

  尾山城、城内外に蓄えられた武具および兵糧

  大坂御旅屋敷

  金沢諸道具

  秀頼様出仕衆

  公家・門跡・諸大名御取次衆


というもので、矢張り目新しさは無かった。強いて言うなら、出仕衆のくだりで息子の左蟀谷が微かに動いた程度であろうか。利長にしてみれば、出仕衆や御取次衆の任命権があるのは天下人ただ一人であり、加賀大納言と雖も口を挟めない領域の筈である。

 その後も前田家の家督与奪は淡々と進んだ。そして草津行きの日程について話が及んだ時、耳元で声が聞こえた。

「後のことはご心配なく」

 咄嗟に声の方を振り向くと、息子ではなく、妻が穏やかな笑みを夫に向けていた。「後のこと」とは何を意味しているのか、それが気になった。湯治の留守居ではなく、隠居後の事を言っているのか。「槍の又左」は、ふいに前言を撤回したくなる衝動に駆られた。

 その時、俯いていた利政が言葉を絞り出した。

「父上、後のことはご心配なく」

 こ奴だけは老いる父親と前田家の行く末を心配している、そう思えた。いや、信じたかった。そうでなければ、小さく震える肩の説明がつかないだろう。

「それでは所用がありますので」

 利長の言葉に、父親は刹那の感傷から現実に戻された。息子は膝の埃を払うと、その場を後にした。


 数日して、秀吉から一万石を越える隠居料と、草津の見舞金として銀子を遣わすとの報せが届いた。詳細を伝えに来たのは、相国寺の僧、西笑承兌だった。承兌によると、猿面の天下人は家督与奪については認めるものの、利家にはそのまま年寄職に止まるよう仰せだという。この慰留には江戸内大臣の意向も強く働いている、との事だった。

「そうだろうよ」

 利長は手製の瓜の塩漬けをつまみながら、表情ひとつ変えず感想を漏らした。

 周囲の視線が二代目に集まった。利長の肯定は何を受けての言葉なのか、それを考えずにはいられなかった。

(内府殿がわしを高く買っている、それをこ奴も認めているのじゃ)

 利家は勿論、その場に居合わせた誰もがそう解釈した。だが当の本人だけがただ一人、やる気のなさそうな視線を柱の染みに向けていた。


 加賀大納言は、六月十九日に一旦越中富山城へ入り、月末には伏見入りした。

「おぉ、大納言よ、帰ってきてくれたか」

 秀吉はか細い腕を目一杯拡げ、既に湯冷めしている利家に抱きついた。股間をぽんぽんと叩き、「まだ十分使えるだよ」と上機嫌だった。

「大納言――」

 秀吉はしばし沈黙し、後の言葉を繋いだ。

「太閤殿下様の品々を遣わす」

 殿下様とは勿論自分の事である。秀吉には自己尊称という妙な癖があった。抱きつかれたままの利家には、何の事だか理解できなかった。

 二人の傍らに控えていた奉行に、天下人は短く指示した。

「整えよ」

 当直の奉行は即座に意味を理解し、平伏した。遺品分配の準備をせよ、という意味である。

(これは難儀な事になった)

 奉行は目をつむりながら、素早く脳を回転させていた。

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