第2話 蟀谷と算盤

 前田肥前守利長の下に、加賀大納言が藤堂高虎へ宛てたという書状の写しが届いた。だが利長はこれを手に取ることもなく、ただ大きな溜息をつくだけだった。

「やれやれ、親父殿も馬鹿なことをする」

「読まなくて良いのか」

 前田家の客将、高山右近が怪訝な表情を見せた。

「その必要はない。佐渡宛ての書状なら大方の見当がつく」

 そう言う利長の左蟀谷が小刻みに震えているのを、右近は見逃さなかった。

「では」

 ご免、と書状を掲げ、お気に入りの家老・横山長知が代表して読み始めた。日付は十一月十二日となっている。


  羽柴兵庫が敵数万を討ち捕らえ、

  順天・蔚山の明軍もことごとくやっつけた。

  徳永法印・宮木長次も帰国しており、

  其のほうの渡海は無用である。

  こたびの気遣い誠に感じ入る。


「ほぉ、渡海は中止と。大殿にしては早いご決断ですな」

 長知は皮肉交じりに短くまとめた。

 確かに戦況が好転したという知らせも入って来ている。だが合戦は水物、いつ状況が変化しても不思議ではない。実際のところ、現地では順天から撤退中の小西行長が、明・朝鮮軍に襲撃されていた。勿論、その情報はまだ日本に届いていない。

「これで藤堂殿も行かずに済みましたな」

「その逆だ。可哀想に、さぞかし落胆している事だろうよ」

 利長の意外な言葉に、今度は長知が怪訝な顔をすることになった。


 利長は、藤堂高虎を高く評価していた。かつて利長は巨人について、「ここだけの話、奴には築城の才もある」と黒田官兵衛から聞いた事があった。自分以外滅多に褒める事の無い官兵衛をして、「才も」と言わしめるところに興味を持った。利長の想像は膨らんだ。恐らく高虎は地形を見るなり頭の中で工夫を集め、縄を張り、木材を切り倒し、岩を運び、塩の準備まで卒なくこなすのだろうと。

 利長にその機会がやって来たのは、天正十一年の事である。ふと思い出し、「城について教えを乞いたい」と話しかけてみた。

「前田様」

 年上の巨人は驚く程丁寧な物腰だった。己の主人・羽柴秀吉が、織田家中において前田利家と同格だった事を、忘れていないと言っているように見えた。

 通り一編の世間話を済ますと、高虎は築城に関する持論を披露した。

「城は堅固であればそれで良い、というものではありませぬ」

 高虎によれば、強大な城を一つ築くより中規模の城を多く作った方が効果的だという。そして城同士が互いに連携しあい、移動・運搬・伝達の三つが迅速に行える位置関係が最も重要である、とも説いた。落ちそうで落ちない構え、絡みつくような砦群、そういう諸要件が満たされた時、

「城ははじめて生き物になります」


――城は生き物


 利長は、一瞬この巨人が何を言っているのか、理解出来なかった。父・前田利家は、柴田勝家の寄騎として長きにわたり上杉軍と対峙してきたが、寄親も寄子も軍神と四つ相撲をとる事ばかりに気を取られ、城を生かすといった発想など終ぞ思い浮かばなかった。一体この男は毛利とどんな戦い方をしたのだろうか。出来る事なら過去に戻って、中国戦線の羽柴陣中に忍び込んでみたい。そんな心境だった。

「賤ヶ岳で勝てなかったのも当然だな」

 利長は感動にも似た驚きに包まれつつ、肩を落とした。


 賤ヶ岳には苦い思い出がある。

 柴田勝家と羽柴秀吉のどちらを選択すべきか悩んだ父親は、進む事も退く事もせず、ただ無駄に時間を費やしていた。陣所の中は、強い雨音と算盤を弾く音だけが虚しく響いていた。暫くすると算盤の音と共に父親はどこかに消えてしまった。中立を選んだといえば聞こえは良いが、要するに人生の岐路から逃げたのである。息子は犬のように背中を丸め、嵐が過ぎ去るのをひたすら待った。

 雨が上がり、程なくして猿面を付けた小さな男が、満面の笑みを抱えてやって来た。

「お前様の親父殿のお陰で勝てたようなものだで」

 小男の声は不自然に大きかった。気がつくと、いつの間にか父親も戻っていた。父親は息子の方を向き、「どや、わしの計算は間違っていなかったぞ」とジャラジャラ算盤を鳴らしてみせた。だがその時、猿面の奥に光る目に感謝と蔑みが同居しているのを、息子は決して見逃さなかった。

「やれやれ」

 利長は肩を落としつつ、左の蟀谷を何かが通り抜けるのを感じた。


 高虎の解説はくどい程に懇切丁寧を極め、石木材の選別・兵糧の保管・普請奉行の適性など多岐にわたった。そして最後にこう締めくくった。

「前田様のような方とお近づきになれて嬉しい。奴らとは馬が合わんのです。こんな話をしても鼻糞をほじるばかりで」

 「鼻糞をほじる奴ら」が誰を指しているの良く分からなかったが、利長にはこうした余計な言い回しは好きでは無かった。口は時に災いの元となる。言わないで済むことは極力黙っていた方がいい。だが少なくともその日以来、利長が巨人に対し一目置くようになった事だけは確かだった。


 天下人の体調が芳しくなるのと比例して、高虎が徳川屋敷の門をくぐる回数が増えている事を、前田肥前守は知っていた。内府からの書状を受け取って、さぞかし小躍りしたい気持ちだったろう。馬鹿な父親が、それに水を差してしまったのである。

 利長は父親を全く買っていなかった。むしろ軽蔑していた。先ず「槍の又左」という異名が気に入らなかった。「俺はかぶいていたぜ」と言うくせに、戦場に算盤を持ち込むその中途半端さも勘弁願いたかった。かぶき者といっても徒党を組んで清須を闊歩していただけなのに。

「どうせ一番後ろをコソコソ歩いていたのだろうよ」

 息子の評価は厳しかった。


 利家は酒を飲むたび家中の誰ともなく捕まえ、昔話を無理やり聞かせるのが常だった。話が又左と呼ばれていた若き日の武勇伝に飛ぶと、家臣の誰かが忖度し、「それはまことで御座いますか」と大袈裟に驚くのである。

「やれやれ」

 そんな茶番を見せられるたび、利長は左の蟀谷をヒクヒク震えさせながら宴席を退出した。すると「若、ここはどうか堪えて……」と長知が後を追いかけて来て袖を掴んだ。ここまで全て前田家の恒例行事といって良かった。


 天正十四年、父親は前田筑前守を名乗った。「筑前守」といえばそれまで秀吉の代名詞だった。その受領名を引き継いだのである。

「わしが藤吉郎に信頼されている証よ」

 こういう時に限って秀吉を藤吉郎と呼び、殊更に交誼を強調したがる所も我慢ならなかった。「所詮は猿の使い古しではないか」と危うく暴言を吐くところを、ぎりぎりのところで理性が勝った。

 猿面の小男は天下人になると、清華成・公家成・諸大夫成による独自の武家官位秩序を形成し、諸大名の統制を図った。同時に、一部の官途については一人しか任じられないよう、奉行衆に命じた。例えば蜂須賀一茂に阿波守を、佐々成政には陸奥守、前野長康に対しては但馬守を名乗らせたる、といった具合である。「筑前守」もまた希少価値の高い官途として、秀吉から利家に受け継がれる筈だった。だが息子は知っていた。毛利家では赤川元秀が、島津家でも上原某といううだつの上がらない男が筑前守を名乗っている事を。

 武家官位といえば、今でこそ徳川家康に次いで高い大納言に就いているが、それまでの前田家は決して優遇された家柄では無い。例えば中納言叙任については徳川秀忠よりも遅かったし、知行も毛利輝元・上杉景勝に負けている。父親は、天下人が気まぐれで口にする「大納言はわしの幼な友達」という薄っぺらな言葉に、縋るようにして生きていた。凶作の年の農夫ですら見せる事の無い、哀れな面だった。利長が父親に向ける視線は、日に日に冷ややかなものとなった。

 そんな前田大納言利家にも、遂に息子から尊敬の眼差しを受ける機会が訪れた。数少ない年寄衆の一人に選任されたのである。だがこれも息子に言わせれば、滝川一益・織田信雄・丹羽長秀が失脚し、池田恒興・堀久太郎・蒲生氏郷・羽柴秀長が死んだ結果、仕方なく繰り上がっただけの話だった。


(意地を張ってしまったのだ)

 息子はこの書状に隠れた真意を見抜いていた。わしも書状くらい書けるぞ、内府の独断専行は許さんぞ、要はそう言いたいのだろう。

「これでもし――」と言いかけ、利長は言葉を止めた。もしいつの日か、徳川と前田が何らかの理由で武力衝突するような事態になれば、あの巨人は必ずや内府の下へ馳せ参じるだろう。

「やれやれ」

 利長は何かを振り払うような仕草をすると、先ほどよりも更に大きな溜息をついた。ふと見渡すと、誰もが左蟀谷を凝視しているのが分かった。


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