関ヶ原
@takinogawa
第1話 海を渡れ
「高麗へお急ぎください」で始まる書状を手に、男は大きく唸った。顔はいささか赤みを帯びているだろうか。心なしか手が震えているようにも見えるのは、興奮の表れかも知れない。
「殿」
傍らに控えていた大木長右衛門が声をかけた。
「内府からだ。高麗へ行けと書いてある」
「高麗へ」
「そうだ」
主人から手渡された十一月三日付けの書状に、家臣達が群がった。
「今から行けとは如何なる訳で」
「かこい船が足らんという事かのう」
「難儀な話でなければ良いのじゃが」
様々な反応が飛び交う中、ごく当たり前の疑問を長右衛門が口にした。
「こくゎん殿では駄目ですかいの」
それもそうじゃ、と周囲の者が頷いた。
慶長三年八月二十五日、朝鮮で戦っている日本軍に撤兵を伝える使者として、二人の男が選任された。一人は宮城長次郎定勝、そしてもう一人が「こくゎん」こと徳永式部卿法印寿昌である。寿昌は同僚の物真似が得意で、特に黒田官兵衛の口癖、「ここだけの話――」が十八番だった。
美濃と播磨の策士は仲が良い事で知られている。二人は生い立ちも、羽柴家中での立ち位置も全く異なっていたが、互いに敬意を払う間柄で、何故か風貌まで似ていた。武将としての器量は官兵衛の方にやや分があると世間は認識していて――もっともこれは、両者の事績を比較して判断したというよりも、官兵衛自身による喧伝が大いに役立っているのだが――そのせいもあってか、美濃の策士はいつしか「小官殿」と呼ばれるようになっていた。
こくゎんの真骨頂は、何といってもその胆力にある。どんな危険な場所でも単身で乗り込み、何事も無かったように帰って来る、そういう男だった。
「信長様の鼻毛を抜いたこともあるらしい」
そんな到底信じられない噂が、この男には無数にあった。
殺伐とした戦場で撤退の旨を伝える役回りとしては、こくゎん以上の適材はまず見当たらなかった。誰からということなく寿昌の名が挙がり、そのまま全会一致で決定した。それに引きかえ、宮城長次郎の存在感は可哀想なほど薄かった。一体誰が言い出したのか、どのような理由で選ばれたのか、年寄も奉行も誰一人思い出せない有様だった。
出立にあたり、二人には天下人の死は秘匿された。とはいえ、沈鬱で何かと言えば話を逸らせる増田長盛を見ていれば、状況は何となく想像できた。
徳永寿昌とその他一名は、十月一日に朝鮮釜山へ到着すると、休む間も無く点在する陣所を訪れた。空腹と疲労で餓鬼の様になった諸将を前にして長次郎は一瞬怯んだが、一方のこくゎんは奉行から預かった口上を澱みなく伝えた。二人から伝えられた指令は、和議締結と撤退を並行して進めるという、極めて厳しいものだったが、それでも多くの在陣諸将にとっては、帰国の途につけるということが大きな希望となった。こくゎんから披露された朱印状を懐疑的な目で眺めていたのは、ごく一部の武将だけだった。
二人の使者は十一月二日には筑前名島へ戻ると、その場で浅野長政と石田三成の配下に拉致されるように博多へ連れて行かれた。博多には両奉行の他に、安芸宰相毛利秀元も詰めていた。
こくゎんの帰国早々、再び渡海奉行が必要となる理由は何か。
「弾正でも対処できない問題が生じたのだ」
「主計が死んだのではないか」
何の情報も持たない家臣たちは、好き勝手に想像を膨らませた。長右衛門はちらと主人の顔を窺った。そのとき主人は、何とも言えない複雑な表情をしていた。
藤堂佐渡守高虎。
戦国随一の巨躯を誇る男である。どんな名馬に跨っても地に足が着いてしまうので、戦場では常に馬を担いで戦うと噂された。父親は藤堂虎高といい、全てがいい加減な男だった。息子の命名すらままならず、自分の名をひっくり返すことでごまかした。
家老に見上げられた時、巨人の意識は書状の差出人に向いていた。
(内府殿……)
太閤秀吉の体調が芳しくなくなり発給文書が年寄・奉行の連署となった昨今、公的な書状が個人から届くというのは珍しい。徳川家康となれば尚更である。勿論、年寄筆頭という立場があるのは分かっているが、直々に受け取ったという事実に高虎の心は躍った。
(やはりわしは内府に信頼されているのだ。ここは何としても期待に応えねば)
詳しいことは分からないが兎に角役に立ちたい、そんな心境だった。天井に頭が付きそうになりならが、男は言った。
「馳走しよう」
場に居合わせた家臣のうち何人かは、主人の言葉の意味を「秀頼様に」と解釈した。それはそれで間違いではなかったが、高虎の心情としては「内府殿に」という意味合いが強かった。
だが結局のところ、この巨人が海を渡る事は無かった。意外な所から待ったがかかったのである。
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