29.箱の中の猫

 高比良くんがカードキーをタッチして、客室エリアへのドアを開く。


「これって私も中に入っていいの……?」


「一応フロントに聞いておいたけど全然いいってよ、まあ部屋に応接室があるくらいだしね」


「そ、そうなんだ……」


 こんな高そうなホテル泊まったことないから、全然わからないや……恥ずかしいからノート返してもらったらすぐ帰ろ……。


 少しもったいない気もするが、これ以上は耐えられないと先程から心臓がSOS信号を発信している。


「川澄さん大丈夫? 胸痛いの?」


「え!?」


 エレベーターを待ちながら胸に手を当てていると、高比良くんが心配そうに声をかけてくれた。


 ど、どうしよう……。


 高比良くんにドキドキして胸が苦しいの! なんてバカみたいなことは絶対言えないし……できれば余計な心配もかけたくない……。


「えーっと、これはその……ちゃんと心臓が動いてるかの確認をしてて……」



 無理がある。



「え……? それで動いてないことってありえなくない……?」


 至極真っ当な意見ありがとうございます。


「い、一応確かめてみないと……! ほらシュレディンガーの猫的な……!」


「ああ……なるほ、ど……?」


 思考停止した美紗子が量子のもつれを引き合いに出したことにより、二人の話も一気にもつれ始める。


「ん……? でも川澄さんのそれはシュレディンガーの猫というより、箱の中の猫が箱の中の猫を観測しているような状態じゃない?」



 は?



「そ、それはどういう……?」


「ほら、もし箱の中に猫が二匹いたらさ、片方の猫はもう片方の猫が生きていることを観測しなくてもわかるでしょ? 自分の心臓が動いているのと同じぐらい当たり前にさ」



 は????



「ごめん……ちょっと意味わかんない……」


「そっか……」


 とんでもなく気まずい空気が流れる中、一階に到着したエレベーターのドアが開く。


 やばい……密室でこの沈黙は苦しすぎる……。

 

「あ、そうだ川澄さん!」


「ん……! な、なに!?」


 助かった……ありがとう高比良くん……。


「たとえば、このエレベーターの中に一定の確率で毒ガスが流れるとするじゃん?」



 まだその話する!?



 あの、毒ガス流されるくらいなら、全然気まずい空気流してもらった方がマシなんですけど……。


「そうなったらさ、外の人間は俺が生きてるかどうかエレベーターの中を観測するまでわからないわけだから、これはシュレディンガーの猫と同じ状態だよね?」


 あ、はい、すごくシュレディンガーで猫だと思います……。


「でもさ、同じエレベーターに乗ってる川澄さんは、自分が生きてる時点でエレベーターに毒ガスが流れてないってことがわかるから、わざわざ俺を観測する必要がないでしょ?」


 高比良くんの説明に熱が入り始める。


「でも、人間万が一ってこともあるし……」


「いやないないない! 万が一とかそういうのないから! このエレベーターの中で俺たちは一心同体の運命共同体だから!」


 い、一心同体の運命共同体……? え、なに……プロポーズ……!?


「俺は川澄さんの心臓なの、心臓の俺が死んでたら確かめるまでもなく川澄さんも死んでるし、川澄さんが生きてたら確かめるまでもなく俺も生きてて心臓も動いてるってこと、わかる?」


「は、はい……ふつつか者ですが、どうか末永くよろしくお願――――痛っ!?」


 こめかみに本気のデコピンをされ正気に戻る。


「ほら着いたよ、生きて出られてよかったね」


 目的の階に到着したエレベーターのドアが開いた。


「あ、あの高比良くん……今のは一体……?」


「あーごめん、頭の中が空っぽなのかと思って……ほら一応確かめてみないと万が一ってこともあるでしょ?」


 なぜかこのタイミングで今日一番の笑顔を見せる高比良くん。


 つ、つまり冗談ってことだよね? 怒ってるわけじゃないんだよね?


「はは……びっくりして心臓が止まるかと……」



「心臓が……止まる……?」



「あ、いや、すみません動いてます……確かめるまでもなく動いてます……」

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