20.深淵

「ついてこないでよ……!」


 一人になりたくて早足で駅に向かっているのに、高比良くんの広い歩幅がなかなか逃がしてくれない。


「こんな暗い中女の子を一人にはできないよ、悪い男に捕まったりでもしたら大変だからね」


 だから今こうして悪い男に捕まらないように逃げているじゃない。


「街灯も人も多いから大丈夫だって……」


「あっそう、じゃあこっちの道を通ろうか」


 突然、真っ暗な路地裏に強引に腕を引かれる。


「ちょっとやめて……!」


 身体的にも精神的にも疲れ切り、腕を引く高比良くんに強く抵抗することができない。


 もうやめて……これ以上私をいじめないで……。


 路地裏の奥に進むにつれ光は遠ざかり、空気は濁っていく。


 月明かりすら届かない暗所にたどり着くと、高比良くんは私の腕を解放して、逃げ場を塞ぐように来た道を背にした。


 一体、何をするつもりなの……?


 暗闇の中、静かに迫って来る高比良くんから逃げるように後退りするが、転ばないように足元を確認すると途端に身体が固まってしまう。


 埃まみれの配管から垂れる謎の液体が、足元のアスファルトに真っ黒の水溜りを作っていたからだ。


 なんなの、もう最悪……。


 その黒に生理的嫌悪を抱いた結奈は逃げることを諦め、自ら高比良くんのほうに向かって行くことを選んだ。


「ねえどうしちゃったの……? 明日も学校なんだから早く帰ろうよ……!」


 引きつった笑顔で話しかけるが、表情を失った高比良くんは歩みを止めてくれない。


「高比良くん……?」


 そして息が触れるほど近づいた時、ようやく気づいた。


 わずかな光を取り込むために開かれた真っ黒の瞳孔が、私ではなく、私の中を見つめていることに。



 間違えた。


 逃げるべきはこの黒だった。



 生物的恐怖によって再び固められた身体は、もう声を発することもできない。


 抵抗できないことをわかっているのか、高比良くんは私の頸動脈に右手を添えた。


「すごい、どきどきしてるね」


 何を考えているかわからない高比良くんの瞳は、頭に死すらもよぎらせる。


「怖い? まだ何もしてないよ?」


 ジェットコースターが昇っている時のような恐怖。


 そんな恐怖から少しでも遠ざかるために頭を後ろに引こうとするが、うなじに回された高比良くんの左手がそれを許してくれない。


「大丈夫、優しくするから」


 頸動脈に添えられていた指が口元に上がってくる。


「ほら、力抜いて」


 不気味なほどに長い人差し指がノックするように二回、結奈の柔らかな下唇をつつく。


 痛いぐらいに加速していく鼓動。


 供給の追いつかない酸素を取り込むために薄く口を開くと、そのわずかな隙間に指をねじ込まれた。


「んっ……あ、んぐ……っ」


 下の歯に置かれた冷たい指が、歯の形ひとつひとつを確かめるようにスライドしていく。


 呼吸はどんどん荒くなり、こひゅ……こひゅ……と、痛ましく恥ずかしい音を立てた。


 犯されるかも……殺されるかも……お願いもうやめて……。



「やめてほしい?」



 心を読まれたのか、奥歯にまで触れていた指が急に抜かれる。


「やめてって言ったら、やめてあげるけど」


 やめてほしい……けど、それを言ったところで素直にやめるとは思えないし……。


「なに、声も出ないの? なら聞くのはNOじゃなくてYESの方がいいか」


 高比良くんはうつむく私の両耳を優しく覆うと、額に唇を当て、頭蓋骨に直接響かせるようにして囁いた。


「顔を上げて俺の目を見てくれたら、嫌なこと全部忘れられるぐらい、結奈ちゃんのことめちゃくちゃにしてあげる」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る