追随⑨

 女は朝早くにソファの上で目を覚ます。

 目を覚ますと、リビング、キッチン、トイレ、寝室、浴室、書斎と家中を歩き回ってAがいないことを確認する。

 Aの不在を確認すると、テーブルの上にAの書き置きがないことを確認する。

 書き置きもないことを確認すると、昨日の夕食の女の分だけを食べて朝食を取る。

 朝食を取ると、浴室へ行き、昨日の夜から温度を一定に保たれた風呂に入り、シャワーで体を流す。

 入浴を終えると、女の分だけの衣服を洗濯してベランダに干す。

 洗濯物を干すと、カードキーとキャッシュカードを持って買い物に出かける。玄関から外に出ると、カードキーを軽くかざして施錠し、一直線にエレベーター前まで進む。ボタンを押して扉が開くとゆったりと中に入って1階のボタンを押す。ここまでの行程はもはや目を瞑っていてもできる。

 スーパーでの食材選びには一切の迷いがない。その日の気分の応じて自然とスムーズに食材を籠の中に入れていく。

 慣れた手つきで玄関の扉の鍵を開け帰宅すると、昨日作った夕食のAの分の料理を食べて昼食を取る。

 次に、掃除機とワイパーで床掃除、その後、トイレ掃除と風呂掃除を済ませると、ソファに座ってテレビ鑑賞をする。

 この時間帯で見るものといえば、ニュース番組かドラマの再放送くらいしかない。ドラマはたまに昔見ていたドラマの再放送がやっていることもあったが、大抵は知らないドラマで、途中から見るため、話が掴めないし、ニュース番組は今や見ていて何の面白みもないので、女にとってこのテレビの時間はないに等しい。

 苦痛の時間を乗り越え、ようやくニュース番組が終わると、夕食の調理に取りかかる。

 迷うことなく二人分の料理を作り終えると、風呂を沸かしてから再びソファに座ってテレビをつける。

 基本的に午後7時から10時頃までの時間帯はいわゆるゴールデンタイムという時間帯で、子どもを含めた幅広い層に視聴してもらうための番組で構成されるため、刺激的な内容の番組は少なく、それほどの面白みはない。勝負は午後10時頃からの深夜帯の番組である。この辺りから大人の視聴者を意識した内容になり、面白い番組が一気に増える。

 とはいえ、ここ最近、全体的にテレビ番組というものに物足りなさを感じるのも確かである。これも全てコンプライアンスというものでがんじがらめにされてしまった影響なのだろうか。と日々女は思う。

 番組を一通り見終え、一日の終わりに女の脳内に浮かぶものは同じことだった。

 結局、今日もAは帰ってこなかった。

 そんな思いを残して女はソファの上で深い眠りに落ちていく。

 今日も。

 今日も。

 今日も。

 今日も。

 今日も。

 今日も。

 今日も。 

 今日も。

 今週も。

 今週も。

 今週も。

 今週も。

 今週も。

 今月も。

 今月も。

 今月も。

 今年も。

 Aは帰ってこなかった。

 そんな日々が積み重なり、3年の月日が経ってしまった。

 女は3年以上もの間、Aの帰りを待ち続けたのである。

 Aの自宅から離れることもなく、遠くへ行くこともなく、誰に会うこともなく、誰とも話すこともなく、同じ場所で3年以上待ち続けたのである。

 そんな循環を続けた4年目のある日のこと。女が朝に起きて朝食を食べていると、玄関の扉がひとりで開く音が聞こえた。

 女はその音に反応し、食事をする手を即座に止めた。

 その音が意味することはただ一つしかない。

 女は跳ね上がる心臓に引っ張られるように玄関へと足早に向かった。

 短距離のうちに過呼吸気味になる女が玄関の方に目を向けると、そこには案の定Aが立っていた。

 Aの姿を久方ぶりに見た感動で女の腰が砕けそうになるのも束の間、目を疑う光景に女の体は硬直する。

 Aの後ろに続いて見知らぬ女性が姿を現したからである。

 言葉を失うとはまさにこのことなのだろう。女はAに何も言葉を発することができなかった。

 Aを見たまま立ち尽くす女を見てAは、まさかまだここにいるとは、とその場で声を上げて笑った。

 その態度に謝罪の気持ちはつゆほどもなく、ただ女のことを嘲笑っているようだった。

 既にAの自宅にいる見知らぬ女を見て、Aと一緒にいた女性はAにこの女は一体誰なのだと問う。

 すると、Aはこう説明する。

 この女は別れた男を探す旅をずっとしていて、自分のことをその男と勘違いしてきたから、それっぽく対応していたら、この女が本気で自分のことを本人だと信じ切ったものだから、とりあえずその男を装ってこの女を抱いた。その後、別れ方が面倒だったから、数年くらい家に放置しておけば、そのうち出ていくだろうと思っていたら、まだここにいるものだからさすがにこれは笑えた。

 男性は半笑いで女性に説明した。

 そんな男性の醜悪極まりない話に一緒にいた女性は、何それ怖い、と男性と共に嘲笑を女に送るのみだった。

 一方で、男性の説明を聞いた女は唖然とした。

 男性はAではない。それを知って女の思考は停止した。

 体を支える下半身は不安定になったが、腰を抜かすほどではなく、上半身は空中を漂い、浮遊しているような感覚に陥った。

 そんな女を見て男性は改めて自分がAではないことを主張した後、ここから立ち去るように言った。

 温度のない男性の言葉が女に鋭く突き刺さる。そこに情などありはしない。

 しかし、相手はこの家の家主、かたや自分は同棲の契約すら交わしていない地縛霊のような存在。逆らえるはずなどなかった。

 自分で金を稼ぎもせずに完全なる男性の金で3年間も生活をしてきたのだから、そんな女に逆らう道理はなかった。

 女は即刻男性の自宅から立ち去った。

 外へと飛び出してタワーマンションから逃げ出すその足は思いの外、軽かった。

 女は生活を送る中で薄々勘づいていた。あの男性はAではなく、Aを演じているだけである、と。

 そのような節は要所要所で見られたからである。

 あのような結末も想定はしていた。

 むしろ、自分が捨てられたのだと確信的に思っていた。

 男性を初めて見た時の自分は少し似ているその顔を見て、Aだと思い込んでしまったのだと、あの時の自分の目は狂っていたと、とうに認めていた。

 それでも、女は逃げ出すことを許されなかった。

 男性の帰りを待たなければならないという義務感と、勝手に居候させてもらっている自分が勝手に姿を消すわけにはいかないという女の中の正義感によって、この循環に束縛されていたからである。大量に残されたキャッシュカードの貯金が女のその義務感と正義感をより強固なものに固めた。

 女は無気力で惰性的なこの生活から抜け出したかった。されど、抜け出せなかった。

 男性がAであろうが、Aでなかろうが、男性が帰ってきたその瞬間が女にとって地獄のようなループから抜け出せる瞬間なのである。

 3年以上男性を待ち続けるだけの生活を繰り返した挙げ句、結果的に男性はAではなく、女は呆気なく家から追い出された。

 道を歩きながら女は涙を流していた。

 しかし、その涙は解放されたことへの安堵からだけではなかったように思える。

 女自身に、女の人生にはAの他に何もない。

 Aが女の全てだった。

 女の人生はAによって左右されてきた。

 それは今になっても揺らぎはしない。

 今更後戻りできるような状態でもない。

 だから女は振り出しに戻った。

 その日、女は何も飲食せず、近くの公園で一夜を過ごした。

 夜の公園で女は夜空を見上げながらに思う。

 男性が本当にAだったら、今自分はどうなっていたのだろうか、と。

 また涙が頬を伝った。

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