追随⑦
家中を探索しても、既にAの姿はなかった。また仕事に行ってしまったようである。
例によってテーブルに昨日とほとんど同じ内容の書き置きが置かれていた。
それを読んだ女はキッチンに積まれた食器を洗ってから、昨日と同様にシャワーを浴びて用意された部屋着を着る。
書き置きの内容は大して変わらないが、異なる点を挙げるとすれば、付近にAのキャッシュカードが置かれており、書き置きにはその暗証番号が書かれていたので、貯金を好きなだけ使っていいということなのだろうと女は受け取った。
ちょうど冷蔵庫の中身が食材不足ということもあって、女はキャッシュカードと、そのキャッシュカードと共に置かれていた自宅のカードキーを持って外に出かけることにした。
外出用の服に着替え、玄関へと向かう。玄関の場所は広いこの家でも迷わずに辿り着くことができた。しかし、難関はそこからだった。
まず、玄関の鍵をかける操作が困難だった。カードをかざすべき場所にカードをくっつけてみたり、ゆっくりスライドさせてみたりと悪戦苦闘すること数分、高音の機械音と共にガチャッとロックする音が聞こえた気がしたので、試しに扉を開けようとしてみると、何とかロックをかけられているようだった。
ホッとするのも束の間、一難去ってまた一難。今度は下へ下る方法が分からなかった。
周りをキョロキョロと見回しながら徘徊すること約10分、ようやくエレベーターらしきものを見つけて下向きに向いた矢印ボタンを押してみる。
すると、すぐに扉が自動で開いて女は慌ててエレベーター内に飛び移る。
しばらくそのままエレベーター内でじっとしていると、なかなか扉が閉まらない異変から、降りる先の階のボタンを押し忘れていることに気がついて、再び慌てて1階のボタンを押す。
ここで初めてAの自宅が20階という所にあることを知って女は腰が砕けそうになった。
携帯電話も何も持っていない女はタワーマンションを出て周辺を巡回することで食材調達のできる店を自力で探した。巡回すること約1時間、女はショッピングモールを見つける。
そこで人混みに酔いそうになりながらもスーパーを探すこと数十分、冒険の末、女はスーパーを発見した。
と、ここで、キャッシュカードで金を引き出すことをすっかり忘れており、女はATMを捜索して金を獲得し、再びスーパーに舞い戻る。
外出の唯一の目的である買い物を済ませた女だが、携帯電話を持っていない状態でもう一度Aの自宅のあるタワーマンションまでナビゲーションなしで戻る必要がある。
重い荷物を抱えたまま歩き回ることこれまた1時間、特に方向音痴でもなかった女は無事タワーマンションに辿り着く。
自動で開くエレベーターに飛び移り、地上20階まで一気に駆け上がる。
玄関の前まで来た時は、またあの戦いが始まるのかと身構えたが、意外にも一発で解錠することができた。
歩くことに関しては体力的に余裕のある女だったが、大都会で目的地を目指してあれこれあたふたしたことで疲労はかなり蓄積し、荷物を置いてソファに尻餅をついた時の開放感はさながら旅行後のホテルでのそれだった。
そもそもこの家自体がホテルと何ら遜色がないため、もはやそれは例えのようで例えではなかった。
しかしながら、これほど奮闘しても尚、Aが帰宅する時間までまだまだ余裕があることを思うと、思っていたよりも専業主婦というものは暇なのだと甘ったるい感想を女は抱いた。
軽く昼食を済ませた女はAが帰ってくるまで何をしようかと考えた結果、掃除と洗濯をすることにした。
掃除は広い分、大変ではあるが、道具の使い方には困らなかった。一方で、洗濯は洗濯機の使い方がイマイチ分からない上に、まずAの洗濯物を勝手に自分が洗ってしまっていいものなのかも分からない。これに関しては、Aが帰ってきた時に聞こうと一旦諦めた。
調理を開始するのにもまだ時間があり、いよいよ何もすることがなくなった女はリモコンでテレビをつけた。もちろんそのテレビは女の腕では収まりきらないくらいの大きさで、画質も今まで見てきたテレビとは比べものにならないくらいに綺麗だった。
テレビは、ひと月ほど前に泊めてもらったお宅で見て以来だった。
その時も、子どもと一緒に教育番組を見ていたため、それほどの面白さは感じられなかった。
だが、女が見たニュース番組はなかなかに興味深く面白かった。取材に行った女性アナウンサーは女性にしては考えられないほどに体を張ったことをしており、それを見るスタジオの芸人のコメントも秀逸で機知に富んでいる。
旅を始めてから真剣にテレビ番組を見たことがなかった女はテレビ番組の面白さに改めて気づかされたのだった。
そのニュース番組が終わる頃に女は調理に取りかかった。今度は大学時代によく作った料理を振る舞うことにした。
料理を作り終え、風呂を沸かし、テレビを再びつけてバラエティー番組を鑑賞しながら待っていると、昨日とほぼ同時刻にAが帰宅する。
女がAに問う前にAは食事だと言って、女が洗濯物について聞くと、Aは、それは後だと食事の準備を急かした。
女が料理を給仕すると、Aはすぐさまグラスを2人分用意して開けた酒を注ぐ。
ここからの流れは昨日と全く同じだった。
酒に弱い女が何も話が進展しないまま酒を飲まされ、食事が終わる頃には泥酔してAに寝室へ連れられる。そこで、夜の営みが行われ、目を覚ませば、翌日になってAの姿はもうない。
書き置きには洗濯物に関する注意書きと洗濯機の使い方について書かれていたため、早速洗濯を開始した。
Aの着ている服は勿論のこと、一緒に自分の服も洗濯してAの指示通りベランダに洗濯物を干した。
そこからやることは昨日と変わらない。昨日行ったスーパーに買い物に出向き、帰って昼食後に掃除をしてテレビで時間を潰す。
スーパーまでの道のりは既にスムーズになったが、まだタワーマンションの出入りには慣れなかった。
定刻になると、Aが帰宅し、すぐに夕食となる。
酒に酔いながら夕食が終わると、Aに指示されるがままに動き、夢心地のまま夢に墜ちる。
そして、気がつけば、翌日。この繰り返しである。
単調化し始めたAとの同棲生活も、女は一切飽きることも冷めることもなく、毎日丹念に味わい尽くした。
Aとまともに話し合いもしていないし、Aからの許可を得たわけでもない。
それでも、沈黙を続けるAの態度は女とAの同棲に対する黙認と捉えても間違いではないと女は思った。
そうやって、女は泡沫のこのひとときに永遠の希望を勝手に抱いていたのである。
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