追随③
これは高校3年生の初夏の頃の話である。
とある時期を境に一緒に帰宅する時の顔にどこか活力が失われていることに女は気がついた。
学校にいる間は、たまにAのいる教室を覗くと、楽しそうに友人と話をしている。だが、いざ女と二人きりになると、二人の会話の間に僅かながらに俯き、疲れたような表情を見せてくるのが分かった。
そんな日が何日と続いたため、女はAを問い詰めた。
「どうしたの?なんだか最近元気なさそうだけど、何かあった?言われなくても、表情に出てるよ」
「そ、そう?別に何もないけど」
女からの問いにAは少し驚きながら答える。
さすがに何も起こらなければ、Aの態度がここまで変わることはないので、女はもちろんそのAの言葉を信用しなかった。
「本当のこと言ってよ」
「何か起こったかと聞かれたら、特に何も起こってない。これはホント。まあ、変わったとすれば、僕の中の思想。って言えばいいかな」
女からの二度目の問いにAは少し考えてから答える。
「それは、どういうこと?その思想っていうのは何なの?」
「ごめん。それだけは言うわけにはいかない」
Aの回答の意味が分からず、それについての言及を求めた女だったが、それは断られてしまった。
それだけは、Aは頑なに教えてくれなかった。
その後、Aと会う度にいくら女がしつこく聞こうと、教えてくれることはなかった。
「教えたところで、理解できないと思うから」
Aは決まってその常套句で女を追い払った。
しかし、女はこの期に及んでも諦めなかった。
Aと会う度に数回は同じ質問をAにぶつけた。
今までと取るべき対応は何ら変わりはしなかった。
女はAの考えていることや悩みを余すことなく全て知り尽くしたかった。そのためならば、何も厭わなかった。がむしゃらにぶつかり続けるのみである。
Aが何かに苦しめられているのなら尚更だった。
A自身の悩みを家族や女以外の人間に打ち明けることなどあり得ない。それはつまり、自分だけがAの悩みを知る権利を与えられていることであり、Aを救う権利が与えられている人間は自分しかいない。
そう信じて女はAに問い続けた。
Aに問い続けること数週間。女の不屈の精神とAを救い出そうという覚悟にAは負けを認め、自分の悩みを女に告白することをついに約束する。
そして、約束した翌日の互いに予定の空いた時間帯に二人は公園のベンチに腰掛けていた。
それは夏にしては気温が低く、制服の半袖が肌寒く感じる夕暮れ時のことだった。
「君がしつこく聞くからこっちもしつこく答えるようだけど、この話を話したところで、誰も得しないからね」
「そんなのいいから、まず話してみてよっていつも言ってんじゃん。絶対になんとかするからさ。悩んでるなら、いくらでも助けるよ」
「そうか。まあ、約束したから言うしかないよね」
女が何百と聞かされた忠告をAがした後、Aは約束通りに告白する。
「生きる意味が分からなくなった」
Aは冒頭にそう述べてから告白を続けた。
「人生に悲しみを求める人間なんていない。誰もが人生に喜びを求めるものだと僕は思う。だから、僕も喜びを求めた。人と関わり合う喜び。何かを愛し愛される喜び。何かに打ち込んで努力して、その努力が報われる喜び。悲しみを乗り越えた先の喜び。求めた喜びを、考え得る喜びを僕は全て感じることができたと思う。でも、僕はそのとき、何も感じなかった。空手で日本一になった時も、書いた小説が大賞を取った時も、色んな人と話をして繋がっている時も、君と恋人として共にいる時も、だから何なんだ、って思ってしまうんだ。結果として僕は何も得られなかったんだ。きっとこの先も今まで以上の喜びを経験することは考えにくいし、もしあったとしても、それも呆気なく終わってしまう可能性が高い。そんな空虚なままの人生を送り続けて、空虚なまま終わりを迎える。そんな人生に何の意味があるんだ。と僕はずっと考えていた。そして、未だにその答えが出ない。それが僕の悩みさ。これを話すと、君との関係を否定することになるから、直接話したくなかったんだ。僕も、それに君も得をしないしね。分かってくれた?」
Aは全てを語った。
その様はさながら、遺書の朗読のようだった。
女は必ずAを救い出せるという自負があった。自信があった。
にもかかわらず、Aの話の内容は、そんな女の想定を軽々と超えてしまった。
女はAの話をどれほど真剣に神経を研ぎ澄まして聞いても、Aのその思想が全く理解できなかった。
今までは生きる世界が違えど、辛うじてつけいる隙があって、そこからなんとか食らいつくことができた。
しかし、今回はAの発する一語一句全てがまるで理解できなかった。
なぜ急に人生の意味という問いが浮かんでくるのか。そもそも、なぜ優勝しても喜ぶことができないのか。なぜ、だから何なんだ、という感想になるのか。
女とAとの関係が否定されたことは女にとって些細なことだった。なぜなら、現在女はAの言っていることの意味が全く分からないことで精一杯だったからである。
女はその場で必死にAの言葉の解釈について思案する。
でも、女にはそんな時間はなかった。今はいち早くAに声をかけてあげるべき場面だからである。
悩んでいるのはAの方なのだから、ここで女が悩んでしまったら、本末転倒である。
まずい。どうしよう。何か言わないと。でも何を言えば。
分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。
焦燥感がこみ上げる女が一目Aの顔を見ると、Aは女を見て微笑んでいた。
それが女には苦笑に映った。
だから、女は咄嗟に言葉を放った。
「それ、本気で言ってるの?」
それを言った直後、女はすぐに悟った。
その言葉は今のAに対して最も言ってはいけない言葉であると。
何か言わなければならない。黙っていては何もかもが終わってしまうという焦りに追い込まれた結果、黙るよりも冷酷な言動に出てしまった。
気づいた時には手遅れだった。
「そうだよね。理解できないよね。それは分かってた。だから僕は、君に諦めてほしかったんだ」
「違う!これは・・・」
否定せんとする女だが、反論の言葉すら浮かばなかった。
「僕自身も僕のこの思想を他人に理解してほしいわけではないし、させる気もない。分かり合えない人間と無理に関わる必要はないよ。関わったところで、良いことはまずない。だから、もう、別れよう」
女が形をなした言葉を一言も発することができないまま、Aはベンチから立ち上がって、その場から立ち去っていく。
「待っ・・・!」
Aを引き止めようとする手や言葉も失速してしまった。立ち上がる力もなかった。
それは、案に敗北を意味していた。
そこから約一時間、女は立ち上がることができなかった。
この日以来、女とAとの接触は一切なくなった。
女は心の底では元の関係を取り戻したかった。あのままでは終わることができなかった。それでも、Aを目にすると、公園での出来事が蘇ると同時に体はピクリとも動かなかった。
Aとは完全に疎遠になってしまった。
Aと共に過ごした膨大な時間など関係はなかった。むしろ、長く過ごしたが故に、あの時の失望感は両者にとって大きかったはずである。
もはや二人の関係が復活することはほぼ考えられないだろう。
接触することはなかったが、女は遠目でAのことを見ていた。
Aはその心の奥底に想い悩みを抱えているとは到底思えないほど、普段通りに友人に囲まれながら会話を楽しんでいた。
さしもの女でもAとの復縁は諦めてしまっている状態であるが、唯一自分だけがAの秘密を知っているという優越感だけが女を繋ぎ止めていた。
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