暁⑧

 その日の夜。男がアルバイトに出かけると、外は大雪が降っていた。

 傘で雪から身を守りながらアルバイトへと向かう男はずっと女性のことを考えていた。

 あの後、女性はどうなったのだろうか。自決したのだろうか。それとも、男の忠告に反発して一人走り始めたのだろうか。

 女性は男に何の答えも伝えることなく二人は別れてしまった。

 そのため、男はそれが気になってペンを持つ手が微動だにしなかった。

 女性の行く末にいくらか思いを馳せているうちにアルバイトの時間になっていた。

 アルバイト中もそこから帰宅する帰り道も女性のことが頭から離れなかった。

 既に女性とは別れを告げたので、女性がどんな選択を取ろうと再度会うことはない。会う必要性もない。それでも女性のことを考えてしまうことが男には煩わしかった。

 少なくとも、こんな大雪の下、あのベンチに座っているはずがない。

 男はそう思った。

 そう思ったはずなのに、男は公園にやってきた。

 大雪のため、高台にも行くことができないにもかかわらず、公園に足を運んだのである。

 雪は男が家を出た時よりも激しさを増しており、公園内は降り積もる雪で草原と道との判別もつかない。さらには、大量の雪で視界の大半が遮られる。

 その中、男は例のベンチへのルートをスムーズにトレースしていく。

 普段なら周りが闇に包まれていようとも女性の姿を捉えることができる位置でも、今日は輪郭を掴むことさえできない。

 いや、そもそもあのベンチにいるはずがない。

 それでも歩いて確認しに行ってしまうのは、まさかという予感が働いたからである。

 そんなことはあり得ないはずなのに、馬鹿げたことなのに、どこか想定してしまう自分があった。

 そして、その想定は的中することになる。

 雪を被り、原形をとどめていないベンチの上に真っ白に染まった女性が静かに眠っていたのである。

 それを見た男は即座に女性に付着した雪を払った。

 もしかすると別人なのかもしれないと思ったが、雪を払って現れたのは記憶に新しい女性の顔だった。

「あの!聞こえますか!?聞こえますか!?応答してください!」

 男は強く女性の体を揺らした。揺らしては声を上げて女性に呼びかけた。

 しかし、女性からの応答はない。

 女性の死を悟った男は女性の着ていたコートを見て気づいた。

 このコートは会う度に女性が着ていたコートである。首に巻き付けたマフラーも手につけた手袋も全く同じだった。

 つまり、女性はひとときも離れることなく、このベンチで待ち続けていたのではないかと男は考えた。

 恐らく、真冬の極寒の中で何も飲まず食わず、手紙を送った相手が来ることを信じて待ち続けていたのだろう。

 きっと、その相手が来なければ、そのまま命を捨てる覚悟でいたのだろう。

 だから、その相手と話をした今、思い残すことはないと言わんばかりにここで力尽きたように息を引き取ったのだろう。

 そう推理したとき、男はこれ以上ない罪悪感に見舞われた。

 もしも、女性が本来の相手と出会っていたなら、女性には幸福な未来が待っていたのかもしれない。

 少なくとも男は女性のその未来を断ち切った。ここで女性の人生を終わらせてしまったのである。

 自分のした選択は正しいものだったのだろうか。

 いや、あんな非人道的回答が正しいはずがない。

 男は殺人を犯したのである。選択を誤ったのである。

 これも女性と同じことである。ミスをしなければ、男は犯罪者になることはなかった。

 そのミスが女性の人生の命運を分けたのである。

 屍となった女性の横に座って女性の冥福を祈りながら、自分の課せられた罪に対する自問自答を繰り返す男だったが、その時だった。

 瞑っていた女性の瞳がひとりでに開いた。

「あ、すみません。私今寝ていましたか?」

 男が死んだとばかり思っていた女性が目を覚まし、声を発し始めた。

「寝ているというより、死んでいるのかと思いましたよ」

 女性の息があることを確認した男は面食らうも、すぐに立て直して軽口を叩いた。

 それを聞いた女性はふっと笑みを浮かべる。

 だが実際、会話を楽しむことができるほどの活気がその女性にはなかった。

 それは極限まで薄れたその声を聞けば、自明であった。

「今まで何も飲食をしていないのですか?」

「はい」

「ということは、このままここで息を引き取るつもりなのですか?」

「いいえ。私はずっとあなたを待っていました。あなたが明日の朝ここに来ることを信じて待っていました」

「なぜ僕を待っていたんですか?」

「私は昨日、あなたならもしかしたら私のことを救ってくれると期待していたと言いましたよね。でも、真実に真実を突き詰めると、私はこの窮屈な人生を終わらせてくれることを望んでいたんだと思います。自分が死にたいと心に決めても、それを行動に移しても、なかなか死なせてもらえないこの世界から私を解放してほしかった。だから、私の人生を終わらせる手引きをしてくださったあなたに死に際にお礼を申し上げたかったんです。人生の最後にあなたのような人間に巡り会えて、私は幸せ者です。ありがとうございました。もし良ければ、お名前だけでも、お聞かせ願いませんか?」

 衰弱しきった女性が絞り出すようにかすれた声を発している姿を前に、男は一切休ませることなく淡々と話を聞いていた。

 雪は弱まるどころか、静かにその強さを増していった。

「名前ですか?それは個人情報ですので、話すことはできませんね。あなたを殺した売れない小説家とまでしか言うことができません」

「そうですか」

 すると、女性は隣に座っていた男に身を預けるように倒れかかる。

 男は咄嗟に女性の肩を掴んで支える。

「私を殺した売れない小説家さん、ですね。絶対に忘れません」

 雪の降る音にさえかき消されそうな声で男の胸元で囁いた女性は、それ以上言葉を発することはなかった。

 女性をベンチの上で寝かせ、今度は男が女性の胸元に耳を当てる。

 心臓は確かに止まっていた。

 だが、死んだ女性のその顔だけは微かに笑っていた。

 男が手袋を外して素手で女性の頬に触れると、その笑顔が不思議に思えるほど冷え切っていた。

 女性の最期を見送った男は右腕で両膝を、左腕で首を支えて女性を抱え上げ、山の斜面を登っていった。

 足下に積もる雪が足を滑りやすくする。女性の以上に長い髪が地面を這って踏みそうになる。それでも無我夢中に斜面を駆け上がった。

 体重だけは全く気にならなかった。

 展望広場まで来ると、男は女性を背中に背負い直してから最悪のコンディションの中で道なき道を進んでいく。

 この急斜面を数メートル登り切るために何度滑り落ちたことか。いつも朝日を見届ける場所に着いた頃には、手先や足先は冷えているが、衣服の下は汗だくという状態になっていた。

 女性の遺体を近くの木の根元にかけておき、男は早速その場で穴を掘り始めた。

 手袋を軍手代わりに掘り起こした土や雪を横に溜めておく。

 降り止まぬ雪の中、その作業は数時間にも及んだ。

 完成したのは、横の長さ約70cm、縦の長さ約160cm、深さ約50cmの直方体型の穴である。

 そこに男は木の根元にかけておいた女性の遺体を入れて、溜め込んだ土や雪で覆い被せた。

 全てが完了すると、男はその上に立ち、地団駄を踏んで地面を固めた。

 もちろん、男の犯行の一部始終を見た者は誰もいない。完全犯罪である。

 男は人生で初めて罪を犯した。

 だが、男は殺人や死体遺棄よりも醜悪な罪を犯した。

 男も心からその女性に感謝していた。

 それは、男に一時の恋心を抱かせてくれたことへの感謝もあるが、それ以上にこれからの男の人生を楽しみなものに変えてくれたことへの感謝の方が大きい。

 男はこれより犯罪者となり、その証人がこの世に存在しなくとも、男の中では自分が犯罪者であるという事実が一生付きまとうことになる。

 男はその背徳感に快感を覚えたのである。

 穴を掘りながら男は、その後の自分の人生に対する想像を広げた。

 自分が人を殺して死体を埋めた凶悪犯であると知る由もなく自分の横を通り過ぎていく通行人。屈託なく笑うコンビニ店員。想像をすればするほど人生が楽しみで仕方がなくなった。

 犯行中は人生の中で最も生きた心地がして確かに至高のひとときであったが、男は金輪際、犯罪に手を染めることはしないと心の中で誓った。

 男は自分という犯罪者が平然と歩いているのにもかかわらず、平然と通常の挙動を示すこの世界を見続けることが今後の人生の楽しみであって、この世界に自分が犯罪者であると認識されてしまったら、男の人生は終わってしまうからである。

 それでも、いつかこの下に埋まっている女性の死体が見つかれば、警察の捜索によって男が捕まってしまう可能性もある。

 しかし、その危機感すら背徳感に上乗せされ、男にとってより快いものになる。

 男は罪を犯した挙げ句、その犯罪が自分の人生の利点に繋がっていると考えたのである。

「僕はあなたに謝らなければならないことがあります。それは、あなたに嘘をついてしまったことです。実は僕、あなたの手紙を読んでいません。ずっとその人を装って、あなたと会話をしていました。本来の人だったら、絶望的な人生を送ってきたあなたから僅かな希望を見出してくれたのかもしれません。僕はそう思って嘘をついておきながら何もできなかった自分への憎しみがあふれ出てきました。しかし、あなたの死に際の言葉を聞いて、僕はそれがあなたの本心であることを信じ、願うことにしました」

 雪は弱まる気配すらない。

 男は女性の墓の上に立ち、木々の間から見える真っ白な風景に向けて言葉を贈っていた。

 その頬には数滴の涙が伝っていた。

「あなたは僕のことを愛してくれたのでしょうか。昨日初めて会ったばかりの僕のことを愛してくれたのでしょうか。僕は数日前に目にしたあなたに一目惚れをしました。多少の躊躇はありましたが、あなたに話しかけて僕が咄嗟に嘘をついたことで短い間でしたが、あなたと対話をすることができました。そして、対話を通してあなたの中身にまで惚れ込むことができました。僕は数日前に初めて会ったあなたのことを愛しています。だから、僕の心残りは、あなたが本当に何を望んでいたのかを知ることができなかったことと、あなたがこれからを生きる誰かにどんな願いを託したかったのかを知ることができなかったことです。それでも、死こそがあなたの望みであるとだけは信じることにします。僕の人生も残り僅かなのかもしれません。でも、いや、だからこそ、僕は小説家としてあなたのことだけはこの世界に書き残しておこうと思います。身勝手な行いを許してください」

 男は傘を差すことも忘れて山の斜面を下り、家へと帰っていった。

 その日、男は初めてアルバイトを無断で欠勤した。


~暁~ 完

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